第9回 西国三十三観音巡り 第二十一番 菩提山 穴太寺( 2015-11-04 )

     西国三十三観音巡り 第二十一番 菩提山 穴太寺 ( 2015-10-08 )  


 
【 穴太寺縁起 】 宝徳 2 ( 1450 ) 年 成立の「 穴太寺観音縁起 」によれば
慶雲2年、文武天皇の勅願により、大伴古磨によって、薬師如来を本尊に安置し
建立されたと伝えられる。その後、村上天皇 ( 926年〜967年 ) の時代に 貧欲で
あった郡司の宇治宮成 ( うじのみやなり ) が信心篤い妻の勧めで 仏師感世を
京より招き金色の観世音菩薩を造立します。その礼に 宮成は感世に愛馬を与え
たが、惜しくなり待ち伏せをして感世を射殺し、愛馬を取り返します。ところが家に
帰った宮成を迎えたのは、自分が放った矢が刺さり、目から赤い涙を落として
胸より赤血を流しておられた観世音菩薩でした。これは仏師の身代りとなるとともに
宮成が罪人となることも防いだ観世音菩薩の霊験であり、全ての 苦しみを受けて
くださった観世音菩薩の大慈大悲の御心を説いた縁起です。その後観世音菩薩が
宮成の夢枕にお立ちになり弓矢の傷が痛むため穴太寺薬師如来に癒してもらい
たいと願い、当寺にお堂を建て穴太観音として奉安されたと伝えられる。
この伝説が「 今昔物語 」や「 扶桑略記 」に語られ、世に知られる様になり穴太寺
観音は「 身代り観音 」として篤く信仰されました。戦国時代になると戦火や明智光秀
よる亀山城築城の用材として当時の堂宇を壊し流用したと伝えられ荒廃。江戸時代に
入って再興の勧進が実り、諸堂を復興し現在に至ります。  穴太寺パンフレットより
                             

   


 
 仁王門 ( 府登録文化財 )。
入母屋造、本瓦葺きの三間一戸の八脚門で、十七世紀中期頃の建立と思われる。


   
   仁王門の入り口正面上には寺紋の 梅鉢紋を配す。


   
金剛力士像。


   
仁王門をくぐり左側に小さな鳥居と小社殿がある、このお社は当時の鎮守社で
菅原道真公を祭神とする天満宮で、寺紋は道真公に因み梅鉢紋です。


 
 境内。左手 本堂と右手前手水舎。


  


         
         拝殿上の懸仏 ( かけぼとけ ) 観世音菩薩像。


         
    拝殿のガラス戸には、菅原道真公に因んだ家紋梅鉢紋を配しています。


  
本堂左手にある円応院で拝観受付、渡り廊下を通り本堂へ外陣にてお勤め、
円応院と本堂は渡り廊下で繋がっています。


  


  

 
    

      本尊御真言・・・・・・・おん あろりきゃ そわか



札所等・・・西国三十三観音霊場 第二十一番札所
名称・・・菩提山 穴太寺( ぼだいさん あなおじ ) 
本尊・・・聖観世音菩薩
宗派・・・天台宗
開基・・・大伴古磨
創建・・・慶雲 2 ( 705 ) 年
所在地・・・京都府亀岡市曽我部町太東ノ辻46
  穴太寺 散華      TEL・・・0771-24-0809


  


      
      釈迦如来大涅槃像 ( 鎌倉時代 )
この尊像は明治 29 ( 1896 ) 年、本堂屋根裏よりお出ましになりました。
当時の住職と孫娘の病気平癒のため、日々参拝をしていた信者の霊夢
よって この尊像を探し当て、堂内に祀ると孫娘の病気が平癒したと伝わる。
自分の病の個所と同じ尊像の部分を撫で、自分の身体をさすり帰すとお釈迦さま
の ご利益に与られるとして癒しを求める参詣者に撫でられ光沢を放つています。


         
         納経所。


   
   地蔵堂


    
    凄〜い数のお地蔵さまが奉納されています。


   
   念仏堂 ( 府登録文化財 ) 本尊・阿弥陀如来坐像。
本堂の東側納経所横に位置する念仏堂は、桁行三間、寄棟造、本瓦葺。
棟札によると宝永 2 ( 1705 ) 年に建立される。
   

   
   観音堂
西国札所のお砂が納められている。桁行三間、梁間二間、入母屋造、桟瓦葺。


         
         多宝塔 ( 府指定文化財 )
文化 元 ( 1804 ) 年 再建、内部須弥壇に釈迦、多宝如来を安置しています。


    
    手水舎。


   
書院や庭園 ( 府指定名勝 ) も拝観したかったのですが残念ながら時間切れ
次の札所が待っています。また機会を作って訪れたい ( 無理かも ) と思います。


    
  2時30分、穴太寺駐車場を後に次の札所 第二十三番勝尾寺へ出発。


  


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