平成29年度 研修旅行  書寫山 圓教寺 ( 2017-10-01 ) 

     平成29年度研修旅行  書寫山 圓教寺 ) 


      
      書写山圓教寺縁起
 開基は康保三年(西暦966年)、性空上人(しょうくう しょうにん)による。
上人は敏達天皇(びだつてんのう)の御末(おんすえ)、橘善根(たちばなよしもと)
(きょう)の御子(みこ)として生まれ、十歳にして妙法蓮華経(みょうほう
れんげきょう)に親しみ、読誦(どくしょう)の行(ぎょう)を積み、三十六才に
して九州霧島(きゅうしゅう きりしま)に至り、母を礼(らい)して剃頭(てい
とう)し、二十年にわたり、九州各地に聖地を求めて修行される。後、瑞雲
(ずいうん)の導(みちび)きに従(したが)って当山(とうざん)に入り、草庵
(そうあん)を結び、法華経読誦の行(ぎょう)を修(おさ)め、六根清浄(ろっ
こんせいじょう)を得悟(とくご)され、世に高徳の宝と仰(あお)がれる。
寛弘四年三月十日九十八歳にして入寂(にゅうじゃく)されたが、御徳(おんとく)
世に広まり大衆の帰依(きえ)も悠々(ゆうゆう)厚く、花山法王(かざんほうおう)
は特に尊崇(そんすう)され二度も御来駕(ごらいが)。後白河法王(ごしらかわほう
おう)も七日間、御参籠(ごさんろう)される。御醍醐天皇(ごだいごてんのう)
隠岐(おき)より帰京の途次(とじ)御参詣(ごさんけい)、大講堂に一泊される。
(また)、平清盛(たいら きよもり)、源頼朝(みなもと よりとも)をはじめ、
武将の信仰も厚く、寺領(じりょう)を寄せ、諸堂を建立(こんりゅう)する。  


  


   
   11:28  志納所・参拝入り口。
約3分50秒の空中散歩の後 山上駅から圓教寺摩尼殿まで、山道を0.8km
ほど歩く。有料マイクロバスを利用することもできます ( 志納所 = 摩尼殿 )



  
仁王門までの参道両側に、西国三十三所のご本尊があります。
一番初めが、第二十七番 当山・圓教寺のご本尊 六臂如意輪観世音菩薩像
ですが、昨年2017年2月10日、西国第二十七番 書寫山 圓教寺参拝の折り
うっかりと通り過ぎ、 第一番 那智山 青岸渡寺 六臂如意輪観世音菩薩から
第三十三番 谷汲山 華厳寺 十一面観世音菩薩までの観音様に手を合わせ
三十三観音全て拝したと思っていましたが・・・・・・・・・・・・またまゝうっかり
第七番 東光山 龍蓋寺 ・ 岡寺 如意輪観世音菩薩の写真がありません・・‥!!
それと、参拝時間の余裕が無く奥の院 ( 開山堂 ) のお参りをすることが
出来ませんでした。もう二度とここ圓教寺さんへ来ることも無いだろうと
諦めていたところ、お蔭さまでこんなにも早く観音様にお会いすることが
出来ました。       〜  感 謝  〜


2016年2月10日、西国三十三観音巡り 第二十七番 書寫山 圓教寺 参拝


   
 西國巡禮の道
 書寫山開創一千年・西国三十三観音霊場花山法皇中興一千年・比叡山開創
一千二百年記念事業として、西国各寺の お姿をそのまゝに拝することの
できる巡禮の道として、人々の幸せと平和を祈念して建立す。
                        ( 西國巡禮の道より )


       
      西国第二十七番 書寫山 圓教寺 六臂如意輪観世音菩薩


  
  11:30  参道口。


   
 第七番 東光山 龍蓋寺 ( 岡寺 )       二臂如意輪観世音菩薩。
 2016年2月10日、ついうっかりと通り過ぎた 観音様を拝す。


   


   
   仁王門 兵庫県指定文化財 ( 昭和43年3月29日指定 ) 江戸時代
  圓教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は聖域とされる。
 門は両側に仁王像を安置し、中央が通路となっており、日本の伝統的な
 門の形を受け継いだ「 三間一戸の八脚門 」である。天井には前後に
 二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「 三つ棟造り 」となつている。

 
   


        
      壽量院 国指定文化財 ( 昭和31年6月28日指定 ) 江戸時代
 圓教寺塔頭の一つ、承安四年 ( 1174 ) に 後白河法皇が参籠したという
 記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。
 建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を
 設けた庫裏とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。
 当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭
 典型である。            ( 壽量院前の説明板より )
  

   
    五重塔
「 書寫山 圓教寺参詣図 」「 播州書寫山縁起絵巻 」「 播州書寫山伽藍之図 」に
壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。
それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳三年 ( 1331年 )
3月5日落雷により焼失、大講堂・食堂・堂行堂の全焼という大火炎になった。
壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。 そういうことから
壽量院横と大講堂との東西二つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であること
から、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか。
                    ( 壽量院庫裏側の説明板より )


    
    壽量院では精進本膳料理を5名以上の予約でいただけるようです。


   


   
   圓教寺会館
     圓教寺会館にて  ( 数量限定 )   十一時半 〜 十四時まで
            ( 精進天丼 ) ・・・‥‥‥‥ 八百円


   
   十妙院  兵庫県指定文化財 ( 昭和40年3月16日指定 )
        本尊  等身千手観世音菩薩
 天正七年 ( 1597 ) 正親町天皇により「 岡松院 ( こうしょういん ) 」の勅号を
賜った。これは、赤松満祐 ( みつすけ ) がわずか十六歳で亡くなった女の冥福を
祈るために建てたものとされる。 圓教寺第百六世長史寛祐 ( ちょうりじつゆう )
の住坊となり、寛祐を中興第一世とする。
その後同じく正親町帝より「 十妙院 」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右
逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である。
                        ( 十妙院説明板より )
             

   
   権現坂
   十妙院唐門を過ぎると本堂まで100 m の下り坂。


   


        
     笠塔婆 ( かさとうば )  兵庫県指定文化財 ・ 鎌倉時代
   延慶四年 ( 1311 ) の記念銘があり、正面上方を花頭形に彫り、
   その中に阿弥陀如来像を浮き彫りにしています。笠の反り返りが
   鎌倉時代の様式をよく伝えています。  ( 説明書きより )


   
   護法石(弁慶のお手玉石)
  摩尼殿の手前にある直径約1 mの2つの石で、不動明王の化身である
  乙天(おつてん)毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子
  降り立ったと伝えられる。また、弁慶がお手玉にしたともいわれる。
                護法石(弁慶のお手玉石)前説明板より


  
  湯屋橋。
  「権現坂」を下りきると、元和3年(1617年)に姫路城主となった
  本多忠政が寄進した湯屋橋という小さな石橋。


  
  摩尼殿 ( 本堂 )
 西國 ( さいごく) 二十七番 観音霊( かんのんれいじょう ) 摩尼殿 ( 如意輪堂 )
 本尊:六臂如意輪観世音菩薩
 元禄元年 ( 870年 ) 創建。昔この地に桜あり、天人が舞い降り、稽首生木
如意輪と言葉を唱 ( とな ) えて礼拝 しているのを見て、性空上人 ( しょうくう
しょうにん ) が、その生木に如意輪観世音を刻 ( きざ ) まれた。これが本尊と
なり安置する。本堂をその上に築いた。そのため、岩山 ( いわやま ) により
かかった掛 ( か ) け作 ( づく ) りとなった。大正末 ( たいしょうまつ )
失火 ( しっか )のため全焼し、昭和八年 ( 1933年 )再建されたのが現在の
堂である。
 西国二十七番の札所としてふさわしく香華 ( こうか )が絶 ( た ) えない。
重要文化財四天王も併せ祀 ( まつ )られている。輪 ( りん ):法輪( ほうりん)
:仏の教え、仏法 ) 、稽首 ( けいしゅ ) :首が地につくまで体を屈 ( くっ )
して拝 ( はい ) すること。
※ 「 稽首生木如意輪 ( けいしゅ せいぼく にょいりん ) 」 の意味は 「 桜の木に
宿っていらっしゃる如意輪観音 ( にょいりかんのんさま ) に帰依 ( きえ ) し、
心から礼拝 ( らいはい ) いたします 」 というような意味でしょうか。  
帰依:神、仏などすぐれた者に服従し、すがること。   ( 摩尼殿の説明板より )


       
       摩尼殿 ( ほんどう ) へ。


   


    
    結婚式でしょうか。


  


        
           本尊・・・六臂如意輪観世音菩薩
 

   本尊御真言・・・おんはんどめい しんたまに じんばら うん



 札所等・・・西国三十三観音霊場 第二十七番札所
 名称・・・書寫山 圓教寺( しょしゃざん えんぎょうじ ) 
 本尊・・・六臂如意輪観世音菩薩
 宗派・・・天台宗
 開基・・・性空上人
 創建・・・康保 3 ( 966 ) 年
 所在地・・・兵庫県姫路市書寫2968
 圓教寺  散華     TEL・・・050-3532-2379


  


       
       可愛い花嫁さんでした、末永くお幸せに。


  
  摩尼殿の裏手から、三之堂の広場へ。


  
三之堂の広場は、大講堂・食堂・常行堂で「コ」字型に囲まれています。
参道の右側三之堂の広場の手前に本多家廟所があります。


  
  姫路城主・本多家の墓所 
 5棟の堂は本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、
初期と中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠邦の3人が姫路
城主です。忠政は、池田家の後をうけて 元和3年 ( 1617 ) 桑名より姫路へ
移り、城を整備したり、船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で
あとを継ぎました。
忠国は2度目の本多家の姫路城主で、天和2年 ( 1682 ) に福島より入封しました。
忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕えた徳川四天王の一人、
政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。堂のない大きな2基の五輪塔
忠政の子・忠刻 ( ただとき ) と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪城落城後の千姫
結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去、忠刻も31歳で没し、ここ
に葬られました。忠刻の墓の後ろには、宮本三木之助と岩原牛之助、三木之助に
殉死した宮田角兵衛の墓が並んでいます。 
5棟の墓は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で、昭和45年に
兵庫県指定文化財となつています。     ( 姫路城主・本多家の墓所説明版より )


 
 三之堂 左から、常行堂 ・ 食堂 ・ 大講堂と、コの字型に並んでいます。


 
 大講堂
 大講堂( 重要文化財 )
北側に位置する大講堂は、2重1階、入母屋造、本瓦葺。桁行( 正面 )7間、
梁間( 側面 )6間。下層は永享12年( 1440 )に、上層は寛正3年( 1462 )
に建造され、文明年間( 1469-1487年 )に全体が整備されたと考えられる。
元和8年( 1622年 )、藩主本多忠政により修復。
昭和26 年 ( 1951 ) 〜 昭和31年 ( 1956 ) に解体修理。
もともとは寛和 2年( 986 )に参詣した花山法皇の勅願により、3間四方の
講堂として建立。内陣には釈迦如来および両脇侍( 文殊菩薩普賢菩薩 )像を
安置する。


  


  


   
   釈迦如来


 
 常行堂
長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなっている。
舞台は大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものと伝えられています。 
近年も1991年の宗次郎のコンサートをきっかけに演劇や能が奉納されるように
なりました。映画・ラストサムライのロケ地にこの三つの堂が登場。
NHK大河ドラマ・武蔵( 2003年 )や軍師官兵衛( 2014年 )のロケ地にも
なりました。最近では、8月26日から全国の劇場で公開の映画「 関ヶ原 」も
ここがロケ地になっています。


 
   食堂 ( じきどう )  重要文化財
 別名・長堂。古くは三宝院と称された。2階の屋根は隣の常行堂の屋根に接し
ている。桁行(正面)15間、梁間(側面)4間、入母屋造、本瓦葺。総2階建の
長大な仏堂である。日本の近世以前の仏堂建築で、このように長大かつ総2階と
するものは他に例がない。
承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、教興坊と称された。
暦応元年(1338)に再建、貞和4年(1348)落慶というが、現在の建物は、様式
などにより室町時代中期のものと考えられる。1階は柱間15間のうち、北寄りの
1間を引戸とするほかはすべて蔀戸(しとみど)とし、腰壁を設け、内部は円柱が
並ぶ広大な1室とするなど、他に例を見ない構成になっている。
1959年(昭和34年)より解体修理された。
2階はガラスケースを設置して宝物館としており、食堂の本尊となる僧形文殊菩薩
のほか、寺内の諸堂にあった仏像などがここに移されている。
堂内は仏像や絵画などの寺宝が展示されている。
僧形文殊菩薩坐像 、木造、像高84.5 cm。江戸時代(1700年)。
食堂には、本尊を安置する須弥壇はないが、「聖僧」として僧形の文殊菩薩坐像が
置かれた。


 
 大講堂と食堂の間を入り奥の院へ。


   
   弁慶鏡井戸
 書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や
勉強机が今に伝えられている。
 昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円 ( しなのぼうかいえん ) が
いたずら書きし、小法師 二、三十人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は
皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て
激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂をはじめ山内の建物を焼き尽くして
しまったと言われている。      昭和二十六年三月 姫路市教育委員会
                          ( 弁慶鏡井戸 駒札より )
 ここから西に進むと、性空上人を祀っている開山堂の前に出る。


 
 左から、護法堂拝殿・開山堂・護法堂・不動堂と、コの字型に続きます。
  護法堂拝殿 ( 弁慶の学問所 )
      兵庫県指定文化財 ( 昭和38年4月24日指定 )  桃山時代
  奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と
  本殿 ( 護法堂 ) が離れて建てられているのは珍しい。  今の建物は
  天正十七年 ( 1589 ) に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の
  様な建物で、一風変わった拝殿である。
  この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、
  この山で修行したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。今もその
  勉強机が残っている。 ( 食堂に展示中 )
                ( 護法堂拝殿 ( 弁慶の学問所 ) 説明板より )


  
  不動堂 江戸時代
  延宝年中 ( 1673〜1681 ) に堂を造り明王院の乙天護法童子本地仏
  不動明王を祀る。  元禄十年 ( 1697 ) 堂を修理し、荒廃していた
  大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。
  乙天童子の本地堂であるが、若天童子のそれはない。 一説には、
  若天はその姿があまりに怪異なため人々が恐れたので、性空上人が
  若天に暇を出したともいわれている。
                        ( 不動堂 説明板より )


  
  圓教寺護法堂 ( 乙天社と若天社 )
      国指定文化財 ( 昭和30年6月22日指定 )  室町時代
  性空上人が康保三年 ( 966 ) 当山で修行中、いつも傍らで仕えていた
  乙天護法童子と若天護法童子を祀る祠である。  乙天は不動明王
  若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、
  上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。
  同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の
  神社建築の特色をよく表している。向って右が乙天社、左が若天社。
               ( 圓教寺護法堂 ( 乙天社と若天社 ) 説明板より )


  
  開山堂 ( 奥の院 )
      兵庫県指定文化財 ( 昭和43年3月29日指定 )  江戸時代
 圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を
 蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年 ( 1007 ) 上人の没年に
 高弟延照が創建、弘安九年 ( 1286 ) 焼失。現在のものは江戸時代に造り
 替えられたもの。
 軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士の
 うち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある。
                     ( 開山堂( 奥の院 ) 説明板より )


   


   
  書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず
  勤行がおこなわれているそうです。


   
   軒下の左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻。


    
    開山堂の正面・左側の屋根を支える力士像。


    
    右側の屋根を支える力士像。
   右側後方の屋根を支えていた力士はあまりの重さに耐えきれず
   逃げ出したそうです・・・‥・・・‥・・・‥ !!


    
    左側後方の屋根を支える力士像。


      
      開山堂の裏側にまわって力士像を確認しました。


  
  まだまだたくさん行きたい所はありますが下山 ( ロープウェイ集合 )
  時間が迫ってきたので、食堂の裏から常行堂横に・・・・・・・・・・・・・・・


  
  常行堂  ( 大講堂と対面している常行堂舞台裏側 )
     国指定重要文化財 ( 昭和30年6月22日指定 )  鎌倉時代
     本尊  阿弥陀如来
常行三昧 ( ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の周りを回る修行 )を
するための道場である。建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂
北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とから
なっている。舞台は大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものと思わ
れる。                 ( 常行堂 説明板より )


   
   堂中には明りが灯り 阿弥陀如来のお顔が・・・・・・‥‥‥‥ 
               〜 合掌 〜


         
         大黒天
   圓教寺の参道脇に建っている切妻、妻入、本瓦葺、桁行1間 の
   大黒天をお祀りする 小さなお堂でです。


   
   瑞光院
 創建年代は不明だが、現存する圓教寺塔頭六院の一つであり、信者の
 組織である網千観音講宿院でもある。摩尼殿のある中谷から三つの
 堂のある西谷に向かう途次にあり紅葉の名所として知られ、向かいに
 大黒堂歌人初井しずゑの歌碑がある。      
      平成二十七年二月 姫路市教育委員会    ( 瑞光院前駒札より ) 


  


  
  南無地蔵大菩薩


  


  
  摩尼殿前に出る。


   
   三十三所堂
 西國三十三観音をまつる堂である。西國三十三所観音霊場が広く庶民の
あいだで行われるようになったのは、江戸時代である。
 社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、
各地に「 うつし霊場 」 ができた。
 有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも 「 播磨西国霊場 無 がある。
他にも全国各地にこのような霊場があり、このような 「 うつし霊場 」 を
さらに ミニチュア化したものが、この三十三所堂の発生であると考えられる。  
   平成二十六年三月 姫路市教育委員会       三十三所堂前駒札より 

   
   
   はづき茶屋
 はづき(端月)の名は、性空
   「 冥きより冥き道にぞ入りぬべき
             遙かに照らせ山の端の月 」
からとられた。


   
   12:40  湯屋橋を渡り十妙院唐門までの権現坂100 m の上り坂。


   
   左は、十妙院唐門。


   
   急がなくては・・・・・・・ 摩尼殿発のマイクロバスが志納所へ。


   


   
   壽量院


   
   仁王門までおりる、ここまでが聖域とされる。   


   
 仁王門を出て、参道・両側の観音様を拝しながら西國巡禮の道を下る。
 

   


   


   
   12:55  ロープウェイ山頂駅出へ。


        
        13:00  ロープウェイ山頂駅出発、書写駅へ降ります。


        



 書寫山 圓教寺 は東の比叡山に対して西の比叡山と呼ばれるほど寺域が広く、
一度や二度の参拝では全ての、お堂・祠・史跡等を拝観する事は難しく時間不
の為、開山堂 ( 奥の院 ) の納経をいただくことが出来ませんでした。
 何時か、ゆっくりと、お参りが出来たらと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 。