西国三十三観音巡り 第二十五番 御嶽山 清水寺 ( 2016-02-10 )
【 清水寺縁起 】
あはれみや 普き 門の 品々に( あまねき かどの しなじなに )なにをかなみの ここに清水
推古、聖武 両帝勅願所 清水寺
本尊 千手観音( 大講堂 )
十一面観音奉安( 根本中堂 )
ご開山法道仙人は印度の僧で今より千八百年前、人皇十二代景行天皇の御時に
中国、朝鮮を経て当山に止住され、鎮護国家豊作を祈願された。
推古三十五年(627)推古天皇勅願により、根本中堂建立、仙人一刀三礼の秘仏
十一面観音、脇士毘沙門天王、吉祥天女の聖像を安置された。
由来この地は水に乏しく、仙人、水神に祈って霊泉湧出し感謝の余り清水寺(きよ
みずでら)と名付けられた。
神亀二年 ( 725 ) 聖武天皇は、行基菩薩に勅願して大講堂を建立、長く講経の
道場として法灯を輝かされた。 花山法皇西国御巡拝のとき、この堂に詣で給いて、
御詠みあらせられてより、西国第二十五番の札所と称するに至る。
第11回 西国三十三観音巡りは1月20日の予定でしたが、今回の札所は標高差の
厳しい御嶽山清水寺など雪が積もりお参りが出来なくて 延期となっていました。
【 仁王門 】
この楼門は以前には旧参道の頂上にあったが、昭和四十年台風にて全壊。
昭和五十五年末、場所をかえてこの地に新築再建。
神戸大学多淵敏樹教授の設計。平成三年末に完成。
【 金剛力士像 】
金剛力士像は大正十年奈良の仏師菅原大三郎氏の遺作。
昭和五十三年大三郎氏の子息、東京芸大名誉教授菅原安男先生修復。
丹塗りは平成三年末に完成。
【 薬師堂 】
本尊 薬師如来
創建 平安時代末期 池之禅尼。
現在の建物は 昭和六十年木曽の桧材にて再建。
※池之禅尼 長治元年(1104)生れ、本名は宗子 父は白河法皇の近臣藤原宗兼
池之禅尼の呼称は六波羅の池殿に住み夫忠盛の死去によって出家したため。
薬師堂は1984年に再建されたもので、平清盛の継母が創建したものである。
薬師如来。
お堂には、2001年3月、彫刻家藪内佐斗司氏の力作による 「 十二神将 」が
薬師堂の壁に飾られています。
毘羯羅 ( ビカラ ) 大将 ( 子歳 ) 招杜羅 ( ショウトラ ) 大将 ( 丑歳 )
真達羅 ( シンダラ ) 大将 ( 寅歳 ) 摩虎羅 ( マコラ ) 大将 ( 卯歳 )
波夷羅 ( バジャラ ) 大将 ( 辰歳 ) 因達羅 ( インダラ ) 大将 ( 巳年 )
珊底羅 ( カンダラ ) 大将 ( 午年 ) 頞儞羅 ( アジュラ ) 大将 ( 未歳 )
安底羅 ( アンダラ ) 大将 ( 申歳 ) 迷企羅 ( メキラ ) 大将 ( 酉年 )
伐折羅 ( バサラ ) 大将 ( 戌歳 ) 宮毘羅 ( クビラ ) 大将 ( 亥歳 )
「せんとくん」の彫刻家 薮内佐斗司氏によって制作されました。
【 大講堂 】
本尊 十一面千手観世音菩薩 脇士 毘沙門天王、地蔵菩薩
創建 聖武天皇 神亀二年(725
西国二十五番の礼堂、聖武天皇の勅願で行基菩薩の建立と言われている。
永延二年(988)花山法皇御作のご詠歌には
あはれみや 普き門の品々に なにをか波のここに清水
現在の建物は大正二年の火災の後、同六年(1917)京大武田五一博士の
設計により当山上の材木(杉材)にて再建。
ご真言・・・・・おんまか きゃろにきゃ そわか
札所等・・・・・西国三十三観音霊場 第二十五番札所
名称・・・・・御嶽山 清水寺( みたけさん きよみずてら )
本尊・・・・・十一面千手観世音菩薩
宗派・・・・・天台宗
開基・・・・・法道仙人
創建・・・・・推古35 ( 627 ) 年
所在地・・・・・兵庫県加東市平木1194
清水寺 散華 TEL・・・0795-45-0025
【 鐘楼 ( 開運の鐘 ) 】
大正二年焼失、同九年再建。釣鐘は山上にて大正八年五月に鋳造された。
武田五一博士の意匠で、銘は吉田源応天台座主。この鐘の音は播磨、丹波、
摂津の国にひびきわたり、開運の鐘として親しまれております。
根本中堂。
本尊 十一面観世音菩薩 脇士 毘沙門天王、吉祥天女
創建 推古天皇三十五年( 627 )
本尊十一面観音様は開山法道仙人一刀三礼の秘仏、お前立は東京芸大名誉
教授菅原安男先生の昭和五十八年の作。推古天皇の勅願で金堂として創建。
現在の建物は大正二年の火災の後、同六年( 1917 )京大武田五一博士の設計
により当山上の材木( 桧材 )にて再建。
本尊・・・ 十一面千手観世音菩薩
開山法道仙人様が水神に祈って湧出した霊泉。
清水寺と称される由緒の地。この井戸をのぞきこんで自分の顔を写したら、
「寿命が三年延びる」と言い伝えられております。
大塔跡。
本尊五智如来が祀られていました。
創建、保元二年 ( 1157年 ) 平清盛の生母と伝えられる。祇園女御の建立。
明治四十年焼失。大正十二年に再建されたが、昭和四十年の台風にて大破、
五間四面二層銅板の雄大な建物であった。