平成29年度研修旅行 世界文化遺産 ・ 姫路城
大西町史談会の研修旅行は ( 平成26年度、史跡 竹田城跡巡り ・ 平成27年度、
国史跡 備中松山城 ・ 平成28年度、 国宝 松江城 ) を研修。今回平成29年度は、
一番希望の多かった 世界文化遺産 姫路城へ。白く輝く天守閣 その圧倒的な姿は
白い鷺が舞立つように見えることから、別名 「 白鷺城 」 と呼ばれています。
昭和の大修理から45年。 「 平成の修理 」 と呼ばれた大天守保存修理工事は、
かけがえのない世界文化遺産 ・ 国宝を建築時そのままの美しい姿で次の世代へ
引き継ぐため、( 平成21年10月より始まり、平成27年3月に終了 ) 漆喰壁の塗り
替えや屋根瓦の葺き直しを中心に約5年をかけて行われました。
〜 願わくば、青空にはばたく「 白鷺城 」を眺めてみたかった 〜
大手門前 「 軍師 黒田官兵衛 姫路城 門番 さくら組 」の幟旗。
姫路城見学資料室前・シルバー観光ガイド受付。
2班に分かれシルバーガイドさんが案内をして下さいます。
「 菱の門 」
姫山・鷺山 ( 城山 ) への入り口を固める櫓門で、門の正面には蔀 ( しとみ )
なる石垣と土塀があり、枡形構造になっています。
「 菱の門 」の名称は、鏡柱上部の冠木 ( かぶき ) に木製の花菱が飾られて
いることに由来します。鏡柱は1本の太い角柱のようにみえますが、実は
板で覆った集成材のようなもので、板の合端 ( あいば ) を隠すために筋金具を
打ち付けています。外観は一部を除き白漆喰総塗込めで、柱や貫 ( ぬき ) 、
長押 ( なげし ) などの形がそのまま出ているのが特徴です。2階の正面には
黒漆喰に飾り金具がついた火灯窓 ( かとうまど ) ・ 武者窓 ( むしゃまど ) が
配置されています。 (「 菱の門 」説明板より )
火灯窓 ( かとうまど ) が城郭に使われているのは珍しいそうです。
狭間 ( はざま )
櫓や土塀などに開けられた穴で、長方形で弓を射る狭間と円形や三角形
などの鉄砲狭間があります。防御設備である狭間が整然と配置され美しい
景観を作り出しています。姫路城には約1000ヶ所の狭間が残っています。
「 はの門 」
坂の上にある門は、天守がすぐそこに見えるので、もうすぐ着くと錯覚します。
門扉の上方床面には石落としがあり、櫓(やぐら)の真ん中にある武者格子窓は、
菱の門方面を見通す警備の役割があり、菱の門と連動して警備していました。
石灯籠の基礎
姫路城では、姫山やその近隣にあった寺の墓石や石仏、古墳の石棺などの
石造品が石垣や建物の基礎に転用されています。はの門では、礎石に六角形
に加工された石材が転用されています。 これは、もともと石灯篭の基礎と
して使用されていた石です。
十字紋瓦の駒札
「 にの門 」の破風上に残る十字紋瓦。キリシタンだった黒田官兵に
ゆかりがあるともいわれています。
天井が低くなっており、上から槍で攻撃することができるように
なっています。
姥ヶ石
石垣の上方に欠けた石臼が間詰石として積まれています。れを「 姥ヶ石 」と
呼んでいます。
羽柴秀吉が姫路城を築くとき石集めに苦労していました。城下で餅を焼いて
売っていた貧しいお婆さんがそのことを聞き、使っていた石臼を寄付しました。
秀吉は喜んで石臼を石垣に使いました。 この評判はすぐに広まり、国中から
たくさんの石が寄付され、築城工事は急速に進み、立派に完成したというのです。
「 姥ヶ石 」が積まれている石垣は、池田輝政が築いたものなので、この話は
伝説です。 そのほかに、「 姥ヶ石 」には、お婆さん ( 姥 ) は妊娠しない
( 孕まない ) ことにかけて、石垣も孕まないようにとのお呪 ( まじな ) いで積ま
れたという説もあります。
大手前通りと、突き当りが JR 姫路駅。
二重の扉
天守への出入り口は4か所あり、どの出口も外側と内側の扉により二重の
防御が施されています。扉は閂( かんぬき )で戸締りするため、すべての
扉に閂を掛けると天守へ入ることはできません。
破風の間:天守入り口に架かる入母屋破風の屋根裏の空間です。
長壁 ( 刑部 ) 神社
御祭神 姫路長壁大神 ・ 播磨富姫神
姫路刑部 ( おさかべ ) 大神は延喜式に、富姫神は播磨国大小明神社記に
記され、古代より姫山に鎮座された由緒ある地主神である。
城主池田輝政が、城内「 との三門 」 の高台に祀り歴代藩主は手厚く崇敬
する。寛延元年 ( 1748 ) 城主 松平明矩のとき長壁 ( おさかべ ) 大神と改める。
明治十二年 ( 1879 ) 総社に移されたが、のち勧請され天守樓上に祀る。
明治十五年城内備前屋敷の火災、昭和二十年七月三日 ( 1945 ) 大空襲には
奇跡的に炎上を免れた。
姫路城の守護神であり、火災・災害等に御霊験あらたかで、人々の信仰が篤い。
毎年六月二十二日、ゆかた祭りとして神徳を讃える。 姫路城を守る会
( 長壁大神の駒札より )
まっすぐ伸びる道路が大手前通りで、突き当りがJR姫路駅。
五重の各層は破風や懸魚で飾られています。
本丸 ( 備前丸 )
備前門
折廻櫓に続く切妻の櫓門で、備前丸への主要な出入り口となる城門です。
備前門
備前門の入り口脇にはきれいに加工された直方体の石が縦に摘まれて
います。これは、古墳に埋葬されていた石棺の身で、築城の際に石垣に
転用されたものです。そのほかの石垣にも組合式石棺の側石や底石なども
転用されています。こうした古墳の石棺が積石として多く転用されている
のが、姫路城の石垣の特徴です。築城によって、姫路周辺にあった古墳が
いくつも破壊されたことが想像できます。
「 お菊井戸 」
この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「 お菊井戸 」といわれています。
永正年間 ( 1500年頃 ) 姫路城主小寺則職の執権青山鉄山は町坪弾四郎と語らい
城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中と
して住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が信元に
知らせたため、則職は家島 ( 姫路市 ) に逃げて殺されずにすみましたが、
城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける
代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。
弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚をを隠し、
その罪をお菊にかぶせて責めあげました。 それでも弾四郎を拒むお菊は、
ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後、毎夜この井戸から「 1枚、2枚、3枚、・・・ 9枚 」と9枚目まで
何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を
滅ぼし、お菊は「 於菊大明神 」として、十二所神社内に祀られました。
(「 お菊井戸 」説明板より )
本来別の目的で製造された石材が、石垣
などに転用されたものを「 転用石 」といい
ます。 姫路城でも 石臼、墓石、石灯籠、
宝篋印塔などいろいろな石造品が、石垣に
転用されています。この石棺の身も備前丸の
東側石垣に積石として転用されていたもの
です。昭和の大修理でその石垣を一部解体
した際に取りはずしました。凝灰岩 ( ぎょうかいがん ) でできた石棺の実は中が
空洞なので、もとの場所に積み直すと強度に問題が生じるため、実物ははず
して、この場所に展示しています。もともと積まれていた箇所には、凝灰岩を
同じ大きさに加工した新しい石材を積んでいます。 築城の際に姫路周辺に
あった古墳から掘りだして転用していたのでしょう。 (「 石 棺 」説明板より )
「 大天守の鯱 」
瓦葺屋根の大棟の両端につけられている飾りの一種で、鬼瓦と同様に
守り神とされました。姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、背中には
幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物を模しています。
明治の鯱
五代目の姫路城大天守の鯱です。
昭和の大修理の際に、大天守の東側
に上がっていたものです。
全国的な傾向として江戸中期以降の
鯱は耐久性に乏しいため、新しい
鯱と入れ替えました。
銘文には万延元年 ( 1860 ) 製作と
記されています。
昭和の鯱
六代目の姫路城大天守の鯱です。
昭和の大修理の際、大天守の二重の
屋根に、貞享四年 ( 1687 ) の銘の
ある小型の鯱が発見されました。
これは姫路城に現存する最も古い鯱
と考えられたために、これにならい、
大天守五重の大型の鯱を含め11の鯱が
復元されました。
平成の鯱
七代目の姫路城大天守の鯱です。
平成の修理では大天守最上層の2尾の鯱
が取り替えられましたが、これは山本瓦
工業株式会社から寄贈された同型の鯱
です。平成23年 ( 2011 ) 11月に造形に
着手し、充分に乾燥させた後焼成し、翌
年2月に完成しました。形は昭和の鯱を
忠実に再現しています。
「 るの門 」跡
るの門は石垣の中に開けられた穴を
出入り口とした門で、その構造から
穴門と呼ばれます。菱の門やぬの門
からみても、門の存在に気づきにくい
位置にあります。伏兵を用いた戦術
には有効に機能するでしょう。また、
現在は門扉が失われていますが、もともとは両開きの扉がありました。
今も門柱の礎石が残っています。緊急時には門扉を閉めて閂を通し、通路を
土砂で埋めてしまえば厳重に防御することができます。
16:10 菱の門出口。 14:50、 菱の門を入り、約1時間20分、
はぐれない様に付いてゆくのが精一杯の姫路城観覧でした。