第3回 令和3年5月6日 ( 木 ) 波方・波止浜地区他 ( 17ヶ寺 )
35番・長泉寺 ~ 33番・地蔵堂 ~ 34番・薬師堂 ~ 37番・円蔵寺
42番・地蔵堂 ~ 39番・瑞光寺、38番・観音堂、40番・大師堂 ~
41番・西宝院 ~ 57番・瑞泉寺、58番・地蔵堂 ~ 59番・金剛寺 ~
60番・釈迦堂 ~ 61番・西明寺 ~ 54番・延命寺、55番・阿弥陀堂 ~
56番・薬師堂
第1回 3月11日 ( 木 ) 大西地区 15ヶ寺。 第2回 4月9日 ( 木 ) 菊間地区 15ヶ寺の
参拝を終え、今回は5月6日 ( 木 ) 波方・波止浜地区 17ヶ寺を巡拝の予定でしたが
第37番 円蔵寺・第42番 地蔵堂 ( 円蔵寺内 ) は、京都の本部から10人以上の参拝は
コロナ感染予防のため受け入れ中止の要請があったようで、残念ですが予定の1寺
・1堂は参拝中止になりました。
8: 50 大西支所出発 ( 予定は 8時45分集合、9時出発となっています )
参加者16名、全員検温チェック・マスク着用・車内の換気など
コロナ感染予防に心掛け、 最初の札所 第三十五番 長楽寺へ。
本日も第1番札所円成寺住職 内藤卓洲さんにお世話になります。
第三十五番札所 長 泉 寺
第三十五番札所 長 泉 寺
山 号 龍光山 三面宝珠院 長泉寺
宗 派 真言宗 豊山派
本 山 長谷寺 ( 奈良県 )
本 尊 如意輪観世音菩薩
住 所 〒799-2101
今治市波方町波方1625-12
長泉寺は波方町波方の真言宗豊山派の寺で立派な本堂、山門、鐘楼、大師堂を持つ。
また境内には鎌倉期の五重の石塔 ( 市指定文化財 ) がある。
由来は崇徳天の時代、天保6年 ( 1140 ) 伊予の国の人で紀州根来寺の僧、瑞長法印が
帰国した際、この地にあった行基作の如意輪観世音菩薩を本尊とした寺院を造った
のが始まりとされている。 康治元年 ( 1142 ) に龍光山 宝珠院 長福寺として創建さ
れた。その後火災に遭い、延亨2年 ( 1745 ) 現在の場所に再建され長泉寺と改めら
れた。天正20年 ( 1592 ) 朝鮮出兵の際九州に下る豊臣秀吉の船団が波方沖に停泊し
長泉寺に泊ったと言われている。
9: 05 第三十五番札所 長泉寺山門前到着。
長泉寺由来の石碑
山門をはいり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新緑の境内へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長泉寺 本堂
長泉寺と五重の石塔
崇徳天皇の世、天保6年 ( 1140年 ) の春のこと伊予 国の人で紀州 ( 和歌山 )
根来寺の瑞長という僧が帰国した際、波方浦に来て説法をした。その時、瑞長が
里人に この郷 ( さと ) に寺はあるのかと尋ねたところ「 この郷には寺はない。た
だし山谷の間に行基作の如意輪観音像が一体あり。昔より郷人は常にこれを拝む
のみ 」と答えた。そこで瑞長は早速これに参拝したところ立派な霊像であったの
で里人と相談して、この像を本尊として寺院を創建した。時に康治元年 ( 1142年 )
5月のことと言われている。中世には、来島水軍村上家の祈とう所として、同家
の信仰が厚かったと言われている。境内には鎌倉期の五重の石塔がある。
( 本堂前の長泉寺と五重の石塔説明書きより )
本堂で一番札所住職内藤卓洲に合わせてお勤めを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
忘れないうちに集合写真を ( 当日最初の札所と最後の札所で写真を撮る予定です )
供養塔
蓮池の中に三面大黒城と書かれた祠があります。
鎌倉期の五重の石塔( 市指定文化財 )
大師堂 ( 半島四国八十八ヶ所結願所 )
山門の隣に鐘楼堂
第三十三番札所 地 蔵 堂
本 尊 地蔵菩薩
住 所 〒799-2101
今治市波方町波方1603-1
波方港のすぐ前にある港集会所が地蔵堂と
兼用となっている。
集会所の建物は後ろ側に塔のようなものが
増築されたような形になっていてそこに地
蔵菩薩が祀られている。
外にある石碑には、天明5年 (1785 ) に地元
の有志によって建立、明治初年 (1868) 修築、さらに昭和58年 (1983) に再建されたとある。
9: 23 地蔵堂 ( 港集会所 ) 前到着。集会所の後ろに塔が見えます。
玄関正面に弘法大師の額が掛けられています。
御本尊 地蔵菩薩の額が掛けられています。
境内に 半島四国八十八ヶ所 第八十二番 千手観世音菩薩
お地蔵さん・弘法大師壱千百五拾年記念 地蔵菩薩 郡中四国三十三番記念碑等。
第三十四番札所 薬 師 堂
本 尊 薬師如来
住 所 〒799-2101
今治市波方町波方里
波方郵便局前の細い道を真っ直ぐに入った
ところにある。
現在 里集会所と兼用になっている。和風で
風情のある建物です。中もきれいに管理さ
れていて、地元の方々の信仰の深さがうか
がえる。元々ここには波止浜学校の分校と
して明治7年 ( 1874 ) 波方学校が開設されていた。
県道166号線、波方地区集会所
波方郵便局の向う側、火の見櫓の右側の細い道を入る。
第三十八番薬師堂へ。
境内の井戸も健在。
県道166号 ( 波方環状線 ) 桧垣造船 ( 波方工場 )
ここから県道166号 ( 波方環状線 ) から県道160号線。
道路沿いからの風景、正面の島は来島 ( 第36番札所心月庵があります )
京都本部よりコロナ感染予防の為10人以上は参拝受け入れ中止の、第三十七番札所
円蔵寺前県道166号 ( 波方環状線 ) を通過・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
波止浜観光休憩所 ( この通りより国道317号線 )
波止浜港桟橋
第四十一番札所 西 宝 院
第四十一番札所 西 宝 院
山 号 南林山 西宝寺
宗 派 天台宗 ( 本山修験宗 )
本 尊 青面金剛明王
本 山 聖護院 ( 京都府 )
住 所 〒799-2112
今治市波止浜3丁目7-14
第39番瑞光寺の南に位置する。天台宗の修験道場で、元は波方町養老にあったが、
塩田築造の祈祷が縁となり波止浜に移った。文化4年 ( 1807 ) 以降諸堂が整備された
現在は山門と本堂が残されている。漁業者や海事関係の信仰が厚い。
9:56 国道317号線沿いの駐車場に到着。
右の道を入る。第四十一番西宝院・第四十番大師堂 ( 廃堂 )跡・第三十九番瑞光寺へ
と続く道です。
左側に西宝院
西宝院山門を入る。
石段の上に何があるのか上ろうと・・・・・・・・・危険なのでやめる。
境内は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!
本堂前でお勤めをします。
この道を真っ直ぐ行くと第四十番札所 大師堂 ( 廃堂 )跡、瑞光寺駐車場に着きます。
第四十番札所 大 師 堂 ( 廃堂 )
現在は廃堂となっている。 第三十八番
観音堂と一時合祀されていたが、その後
ご本尊は題三十九番瑞光寺に祀られたと
されている。お堂があった場所は、瑞光寺
の駐車場として利用されている。
以前の大師堂
第三十九番札所 瑞 光 寺
第三十九番番札所 瑞 光 寺
山 号 海雲山 瑞光寺
宗 派 曹洞宗
本 尊 釈迦牟尼仏 ( 釈迦如来 )
本 山 永平寺 ( 福井県 )・
総持寺 ( 神奈川県 )
住 所 〒799-2112
今治市波止浜3丁目7-8
波止浜港の中央の道を真っ直ぐ東に突き当たったところが瑞光寺。
元は波方町養老にあったが、貞享元年 (1684 ) 塩田の開発で功労者の代官、園田
藤太夫によって現在の地に移された。境内には、塩田の三八法 ( 操業条件の良い
3月~8月に稼業し、冬期は休業する ) を考案した大沢常右衛門の墓や、森田陽
山等の墓がある。山門は江戸時代中期のもの。
江戸時代中期の山門
参道に守田陽山の句碑
鐘楼堂
瑞光寺本堂
第三十八番札所観音堂 ( 廃堂 ) により瑞光寺に合祀。御本尊 観世音菩薩は瑞光寺本堂内
の左側に祀られています。
参道脇にある墓地にはずっしりとした立派なお墓が並んでいます。
山門前からの眺め
八木亀三郎邸 ( 八木商店本店史料館 )
波止浜出身の八木亀三郎は、北洋漁業の成功で財を成し愛媛の政財界で様々な要職に就いた今治の実業家である。文久3年 ( 1863 ) に波止浜の商家に生まれ、波止浜産の塩の輸出などを目的にロシア沿海州との貿易を開始、サケ・マス漁業と塩蔵サケの輸入で富を築いた。40人が作業可能な缶詰工場を内蔵した、3千トン級の大型蟹工船「 樺太丸 」を仕立てたことでも知られる。小林多喜二の小説「 蟹工船」の影響もありイメージの芳しくない蟹工船だが、八木の保有する蟹工船は、当時発症することが多かった脚気患者を一人も発症させず、優良船として、新聞に掲載された記録もあり、届いた多くの礼状からも証明されるように船員やその家族に対し手厚い処遇がなされていたという。
事業の拠点であった波止浜の本店兼邸宅は、総敷地面積1276坪 ( 裏山回遊式庭園を含む )、屋敷は床面積238坪の広大な和風建築で、後年「 蟹御殿 」とも呼ばれた。現在は、今治市内のタオル会社のグループ会社が維持管理を行っており、「 八木商店本店史料館 」として一般公開されており予約制で見学できる。
八木商店本店史料館
今治市波止浜2丁目406-1 TEL 0898-41-5101
国道317号線沿いにある八木商店本店史料館入口
缶詰のラベル
汽 船 樺太丸
本店兼邸宅は、総敷地面積1276坪 ( 裏山回遊式庭園を含む )、屋敷は床面積238坪の
広大な和風建築で、後年「 蟹御殿 」とも呼ばれた。
第五十七番札所 瑞 泉 寺
第五十七番札所 瑞 泉 寺
山 号 養老山 瑞泉寺
宗 派 曹洞宗
本 尊 如意輪観世音菩薩
本 山 永平寺 ( 福井県 )・
総持寺 ( 神奈川県 )
住 所 〒794-0072
今治市山路298
ご本尊の如意輪観世音菩薩は昌泰元年 ( 898 ) ごろ唐土 ( もろこし ) よりの仏師、安綱
によるものと言われている。その際、鯨山の一本の木から六体の観音像を彫り、そ
のうち三体を越智郡に ( 安置先は不明 ) 、そのうち三体を野間郡の乗禅寺、野間寺、
瑞泉寺に安置したと伝わっている。
またここには、蒼社川水系からの治水により農民を救った庄屋、橋田久兵衛の墓が
ある。すぐ近くの厳島神社の入口には、「 従是西松山領 」し記した藩境の碑が残
されていて、山路は松山藩だったことがわかる。
10 : 48 瑞泉寺下、山路集会所到着。
瑞泉寺山門
瑞泉寺本堂
御本尊の脇に達磨大師像と大権修利菩薩が安置されています。
境内にある五輪塔。
境内を出ると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・裏山に厳島神社があり。
神社の入口には「 從是西松山領 」と記した藩境の碑が残されいます。
厳島神社拝殿
厳島神社参道 ( 石段 ) からの風景 遠くに石鎚山も・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
山路は松山藩たったんですね。
第五十八番札所 地 蔵 堂
本 尊 地蔵菩薩
住 所 〒794-0072
今治市山路298 ( 瑞泉寺内 )
地蔵堂は、瑞泉寺の境内の左手にある。
御本尊の地蔵菩薩は金や赤で彩色されてい
て当時は美しかっただろうと思われる。
脇に新しい地蔵菩薩像が安置されている。
第五十九番札所 金 剛 寺
第五十九番札所 金 剛 寺
山 号 薬王山 金剛寺
宗 派 曹洞宗
本 尊 如薬師如来
本 山 永平寺 ( 福井県 )・
総持寺 ( 神奈川県 )
住 所 〒794-0073
今治市矢田804-1
金剛寺は、苔むした庭のある情緒あふれる寺で開基は慶長年間 ( 1596~1614 ) と
推定される。
御本尊は薬師如来で33年に一度御開帳される。脇には曹洞宗の寺の特徴である達磨
像と大権修利菩薩が祀られている。境内にあるお堂にはガラスのケースに入った小
さな弁財天があり、色あせてはいるが、極彩色で美しい。第六十番札所の釈迦堂は
廃堂になっており、金剛寺に合祀されているとされるが現在は不明。
金剛寺山門
金剛寺本堂
金剛寺境内のお堂
お堂には弁財天が祀られています。
第六十番札所 釈 迦 堂 ( 廃堂 )
第六十番札所 釈 迦 堂
廃堂になっていて金剛寺に合祀されて
いるとされているが、現在は不明。
平成24年 ( 2012 ) 2月18日 金剛寺に参拝の時、廃堂になった釈迦堂のことを尋ねると拝観
させていただけました。阿弥陀如来の厨子はボロボロになっていたそうです。
第六十一番札所 西 明 寺
第六十一番札所 西 明 寺
山 号 禅定山 西明寺
宗 派 臨済宗東福寺派
本 尊 阿弥陀如来
本 山 東福寺 ( 京都府 )
住 所 〒794-0074
今治市神宮甲900
西明寺は、野間神社のすぐ横にある臨済宗の寺。 駐車場から石垣のある山門が
見える。反対側には野間神社の大きな山門も見える。ご本尊は阿弥陀如来で、元は
金など多くの色で彩色されていたと思われるが、現在は黒く、時代を感じさせる。
脇士として観世音菩薩、勢至菩薩が安置されいてる。本堂の左の道を上がると薬師
堂があり、黄金の薬師如来が祀られている。
西明寺参道
西明寺山門へ。
本堂前でお勤めをします。
本堂の左側を上ると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
薬師堂の両側には ・南無薬師瑠璃光如来
・オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
堂内
南無薬師瑠璃光如来
すぐ下には野間神社の山門が見えます。
第54番札所 延 命 寺
第五十四番札所 延 命 寺
山 号 近見山 宝鐘院 延命寺
宗 派 真言宗 豊山派
本 山 長谷寺 ( 奈良県 )
本 尊 不動明王
住 所 〒794-00811
今治市阿方甲636
延命寺は本四国八十八ヶ所第五十四番札所でもあり、旧野間郡新四国八十八ヶ所
第五十四番札所でもある。
由緒は聖武天皇 ( 在位724~749 ) の勅願により、行基菩薩が不動明王を刻み、近
見山山頂に安置したことに始まる。
後に嵯峨天皇 ( 在位809~823 ) の勅命を受けた弘法大師により再興、不動院圓明
寺と名付け勅願所とした。 当時は大変隆盛し、傘下に近見百坊を配していたと言
われている。その後度重なる戦火にあい堂宇を焼失しているが、享保12年 ( 1727 )
に難を逃れた本坊とともに現在の場所に移転した。 圓明寺という寺名は明治まで
続いたが、本四国第五十三番圓明寺と同じ名前で間違うことが多かったため延命
寺と改めた。現在の本堂は昭和3年 ( 1928 ) に移転新築されたもの。
文永5年 ( 1268 ) 伊予国出身で華厳宗の学僧、凝然が寺の西の坊に籠り、八州綱
要を著述したことが知られている。
11 : 57 延命寺山門前到着
先ず、梵鐘 ( 近見次郎 ) へ。
梵 鐘 ( 近見次郎 )
〇 鋳造 寛永元年 ( 一七〇四年 )
〇 口径 六二センチメトル
〇 高さ 一一二センチメートル
この鐘は四面に当山の歴史が刻まれてあるので、当山のみならず郷土史上にも
かけがえのない貴重文化財である。去る大戦中、当局からこの鐘を軍用に提出
せよと厳命されたが、故、越智熊太郎先生の絶大なご尽力で、からくも提出を
免除され現存されているものである。
阿方文化連盟
梵鐘近見次郎は宝永年間のもので圓明寺の由来が書かれている。
現在は近見三郎に現役を譲っていて、除夜の鐘のみ打たれる。
現在の梵鐘近見三郎
延命寺山門
この門は、元、今治城、城門の一つでその建造年代は不明であるが、一説では
天明年間の建造だとも言い伝えられ、明治三・四年に今治城を取り崩した時、
当山へ譲り受けたものである。
阿方文化連盟
延命寺本堂
本堂内陣 この写真は2012年2月18日、参拝の時撮影させていただきました。
本堂左側上の大師堂へ。
大師堂
お勤めをします。
近見山 延命寺開基 行基菩薩 供養塔
天平年間 行基菩薩が不動明王を刻み本尊とし近見山山頂に安置した。
行基菩薩 報恩供養塔
天平勝宝十一年二月二日 御命日 八十一歳 「 六六八~七四九 」天武七年ー天平勝宝十一年間、活躍
高志氏 幼名は 史首 法諱は 法行
父 高志史羊 母 蜂古爾比売「 蜂田首虎身の長女」奈良時代の僧侶、和泉国「 大阪南部 」家原村の人
15才で出家、師、道昭、義渕、智風から教えを受け、七〇四「 慶雲一 」年、三十六才で帰郷し、自分の古
家を改装し、家原寺を設け、悩む衆生救わんが為に、布教へ第一歩を踏み出し七〇七「 慶雲四 」年、生駒
山「 奈良近鉄線一分駅付近 」に仙房を構えて住んだ。 今は、奈良近鉄線一分駅下車徒歩十五分、竹林寺
「 廃寺 」、県の史跡、昔の面影は残っている。
菩薩は、七〇七「 慶雲四 」年 ~ 七一七「 養老一 」年、十年間、弟子を連れて天災の為に苦しむ、農民の
手となり、足となり、各地を巡り、罪福を説き、諸国の要害の地に、橋を架け、堤を築き、道路を修理し、
田畑を開き、港湾を造り、諸寺院を建設し、福祉に努めたその功績は、町から町へ、村から村へ、広がり、
行基法師の布教は日増しに励み、説法に全国的傾向するものが増え、偽政者達の、陰謀、讒言、流言、横暴
に翻弄、悩まされた、民衆は、益々偽政者の治政に、疑惑と不信感を抱き、良心を失った、偽政者達は農民
の心を惑わし、道俗を攪乱し、業を捨てる原因を起こすことの理由で、717「 養老一 」年~ 730「 天
平二 」年、十四年間、行基法師に従って修行することを禁止された。
行基法師は、偽政者達の弾圧にも屈せず、弟子を連れて、布教を続けた。 その間、多くの法難にも屈せず
悩む農民の福祉に尽力しておられたのです。 多くの法難を受け乍ら、本仏釈尊の知恵と三身「 化身・応身
・法身 」を具足しておられる、行基法師は、衆生が望み、求めるまま、行、処、時、を厭わず、生きる道を教え、怖畏には勇気を、失意には希望と光明を与え、相手の身、相手の心に代わって、転び倒れる処には杖となり、衆生の悩み苦しみを、我が身に受け、求めるまま、全国津々浦々に、天平勝宝十一年二月二日没する迄八十一年間、積み重ねた、功徳、陰徳の御蔭で、今日に至る迄、我々の子孫、先輩、後輩の長久円満に、限りない繁栄、みな行基法師の恩徳であります。
行基法師「 六六八~七四九 」今から一二三九年前、天平勝宝十一年二月二日八十一歳で没す。
空 海「 七七四~八三五 」一一五三年前、宝亀五年六月十五日六十一歳で没す。
行基菩薩が没し、二十五年目に、化身空海弘法大師が誕生。
円 仁「 七九四~八六四 」今から一一二四年前、貞観六年一月十四日七十歳で没す。
空海「 弘法大師 」が誕生、二十年後に、円仁「 慈覚大師 」が誕生誕生。
偽政者の、陰謀、讒言、によって、第四十五代聖武帝の、左大臣長屋王が死を賜る不幸な不祥事がおこり、天平三年「 七三一 」、禁止された翌年、行基法師に従い、修行することをゆるされたのです。此の度、行基法師、空海、円仁、偉大な救世主の御使命に預かり、昭和六十二年五月十五日、第四十九代光仁帝の皇后井上内親王、他戸皇太子「 調布市深大寺の境内に慰霊塔建立 」、同年八月二十四日、左大臣長屋王、吉備内親王「 茨城県取手、長禅寺の境内に慰霊塔建立 」、昭和六十三年七月二十五日、山背大兄王、「聖徳太子の長子」、大友皇子「 第三十九代弘文帝 」「調布市深大寺の境内に慰霊塔建立 」、当時偽政者の、陰謀、讒言に犯され、皇室の犠牲者であり、行基法師は今も尚、第三世界におられ、化身の空海、円仁、を伴い、我々衆生を救わんが為に、布教を続けておられます。一二三九年間、祖先、祖師の陰徳、御遺徳は、頂き放し、瓶底には、底を尽いております。身分不相応の生活に、自分の働きと錯覚、働けど、働けど我が暮らし楽にならないと、愚痴をこぼす前に、果たして、祖先、祖師に真心から合掌はあったでしょうか。
今後有事に備えるべく、改心、改善の時期に直面しております。行基法師の、報恩供養塔建立の御手配は、祖先、祖師に合掌、感謝の精神を抑揚させ社会、家庭に起こる、不意の不幸、不祥事は、祖先、祖師の哀れみと覚えられ、事前に改心、改善され、社会、家庭に幾分にも、潤いをとり戻す目的で、師の化身、空海、円仁の御使命御指導に預かり、実現に邁進、精進に励んでおります。
此処に詣ずる人々は、御本尊様へ合掌祈願申し上げると共に、祖先、祖師へ、報恩の心の法灯を再び燃やし、陰徳、御遺徳を偲び、蘇らせる、感謝の心が未来の幸福の門出になると教えておられます。 尚、今日様々な様々な、奇怪な出来事、不幸、不祥事は祖先、祖師が永い間永い間、積み重ねた、陰徳、御遺徳の御陰で、物の豊かさの中、心の貧しさと感謝の心の法灯が消えた要因である事に気付き、祖先、祖師は、我々を哀れみ、改心、改善を促す慈悲の御心を覚り、謙虚に受け止め、各々真剣に考慮する必要に直面しております。
祖先、祖師の御遺徳に感謝のない、日常の生活に功徳の泉は湧かず、日々の感謝、報恩の心構えは必ず、未来の光明な生活を与え下さることを、約束され何時も、身近において教えて下さいます。
第四十五代聖武帝、光明皇后は、偽政者の陰謀と讒言により、優秀な左大臣長屋王、吉備内親王を失い、行基法師に従い修行することを許し、聖武帝、光明皇后は仏道に帰依せられ、聖武帝は「七四八」天平勝宝十年、管原寺に行幸せられ、得度一〇〇人賜い、善光寺の号を賜った。「 七四九 」天平勝宝十一年初め、聖武帝、光明皇后、皇太后に菩薩戒を授けた。 これは我が国における、天皇出家受戒した最初でありました。この時大僧正行基法師を改め、大菩薩の号を授けられた。
行基菩薩は同年二月二日、菅原寺東南院に於いて没した「 八十一才 」生駒郡有吉村竹林寺に埋葬した「 奈良近鉄線一分駅下車徒歩十五分 」
有縁建立者 東京都杉並区桃井一丁目二十五の一
遺跡 ・保存 法要推進研究所
遺伝「 因縁 」と疾患の研究
西 原 康 隆 妻 のり子・長男 弘治・次男 功治
長女かよ・次女 久代・三男 崇創
延命寺本堂前で記念写真
越 智 孫 兵 衛 墓
翁は、元禄時代の縣 ( あがた ) 村庄屋で慈悲深く智慧すぐれ、郷土の発展、
福利増進に努力して大功あり、お上の表彰を受けた。その時代、松山藩の
農民は「 七公三民 」の重税に苦しんでいたが、翁の尽力により縣村だけは
「 六公四民 」に免下げしてもらえた。そのおかげで享保十七・八年の大飢
饉の時も餓死者が出なかった。
元文三年四月二日に亡くなられた時、特に延命寺境内に葬り、今日まで毎年
八月七日に感謝の慰霊祭を続けている。翁の顕彰碑は阿方公民館に建立され
ている。 阿方文化連盟
八宗綱要を著述した疑念の供養塔 ( 右 )
四国で2番目に古い真念法師のしるべ石
第五十五番札所 阿 弥 陀 堂 ( 廃堂 ) 延命寺に合祀
第五十五番札所 阿 弥 陀 堂
( 廃堂延命寺に合祀 )
本 尊 阿弥陀如来
住 所 〒794-00811
今治市阿方甲636
第五十四番延命寺から南光坊への遍路道の
途中にお堂が残っているが、本尊は延命寺に
合祀されている。
第五十四番延命寺から南光坊への遍路道から仁王門と梵鐘 ( 近見次郎 ) の風景
第五十五番札所 阿 弥 陀 堂跡 ( 廃堂延命寺に合祀 )
延命寺へ引き返す。
延命寺境内
梵鐘 ( 近見次郎 ) でお昼のお弁当をいただきます。
鐘楼のまわりには宝篋印塔や五輪塔の残欠が集められています。
よく歩いたのでとっても美味しく頂きました。
延命寺参道を散策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
仁王門をでる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
そろそろ集合時間、池の手前で折り返します。
仁王門
13 : 00 延命寺延命寺山門前左側奥の駐車場 ( トイレ完備 ) 前を出発。
13 : 10 大西支所到着。第3回 波方・波止浜他 ( 15ヶ寺 ) の巡拝終了。
令和3年3月11日「野間郡 新四国八十八ヶ所めぐり」
の冊子と「 般若心経・本尊の真言」の写しを手にして、
第1回 第八十一番札 所明専から大西地区他15ヶ寺参拝。
第2回 4月8日、 第八十五番 長本寺 から菊間地区の13ヶ
寺を参拝。
今回 第3回 5月6日の波方・波止浜地区他 15ヶ寺参拝
で「野間郡 新四国八十八ヶ所めぐり」( ウォークラリー )
の目的を果すことが出来ました。
~コロナ過の中何事もなくお参りが出来たことに感謝~