第11回 西国三十三観音巡り 第二十七番 書寫山 圓教寺

     西国三十三観音巡り第 二十七番 書寫山 圓教寺 ( 2016-02-10 ) 


   
    書寫山 圓教寺
  九州の霧島山で修行した性空上人は霊地を求め、この地にきたところ、紫雲が
  かかっている書写山を見て、この山に入り康保3年 ( 966年 ) に草庵を開いたと
  されている。  性空上人の徳はこの地方のみならず、広く都にまで知れ渡り、
  花山法皇は二度もここを訪れ、圓教寺の名を賜ったという。
  後白河法皇後醍醐天皇もこの寺を訪れたといわれている。また、武将の信仰も
  厚かったようで、本多、松平、榊原の姫路城主の墓もここに残されている。
  それだけに、寺の格式も高く、天台宗の三大修行道場の一つに数えられている


   
9時45分発のロープウェイで山頂展望台へ。


          
          山上展望台。
   書寫山 ロープウェイ。 長さ・・・781.09 m 。 高低差・・・210.87 m。


    
約3分50秒の空中散歩の後 山上駅から圓教寺摩尼殿まで、山道を0.8km
ほど歩く。有料マイクロバスを利用することもできます。


   
   左、鐘楼堂 ( 慈悲の鐘 ) と参道口。


    
    石彫。


      
       石彫 ⇒ 「 風の声がきこえますか 」 制作意図 拡大


   
第一番 那智山 青岸渡寺 六臂如意輪観世音菩薩。 第二番 紀三井山 金剛宝寺 十一面観世音菩薩


   
第三番 風猛山 粉河寺 千手千眼観世音菩薩。   第四番 槇尾山 施福寺 千手千眼観世音菩薩


      
      第5番 紫雲山 葛井寺 千手千眼観世音菩薩。


   
第六番 壷阪山 南法華寺 十一面千手千眼観世音菩薩


   
第八番 豊山 長谷寺 十一面観音菩薩。    第九番 興福寺南円堂 不空羂索観世音菩薩


   
第十番 明星山 三室戸寺 千手観世音菩薩。   第十一番 御幸山 醍醐寺 准胝観世音菩薩


   
第十二番 岩間山 正法寺 千手観世音菩薩。   第十三番 石光山 石山寺 如意輪観世音菩薩


   
第十四番 長等山 三井寺 如意輪観世音菩薩。 第十五番 新那智山 観音寺 十一面観世音菩薩


   
                第十六番 音羽山 清水寺 十一面千手千眼観世音菩薩


   
第十七番 補陀落山 六波羅蜜寺 十一面観世音菩薩第十八番 紫雲山 頂法寺 如意輪観世音菩薩


   
   参道からの風景。


   
第十九番 霊麀山 行願寺 千手観世音菩薩。  第二十番 西山 善峯寺 十一面千手観世音菩薩


   
第二十一番 菩提山 穴太寺 聖観世音菩薩第二十二番 補陀落山 総持寺 千手千眼観世音菩薩


   
第二十三番 応頂山 勝尾寺 十一面千手観世音菩薩。 


   
第二十四番 紫雲山 中山寺 十一面観世音菩薩第二十五番 御嶽山 清水寺 十一面千手観世音菩薩。 


   
第二十六番 法華山 一乗寺 聖観世音菩薩。  第二十八番 相成山 相成寺 聖観世音菩薩


   
第二十九番 青葉山 松尾寺 馬頭観世音菩薩。  第三十番 竹生島 宝厳寺 千手千眼観世音菩薩


    
参道口より参道の両側に立つ 第一番札所から 一体 々 の観音さまに手を合わせ
ここまで来ましたが・・・・・・・・・何故か、第七番 東光山 岡寺 如意輪観世音菩薩と
ここ、第二十七番 書写山 圓教寺の 如意輪観世音菩薩の写真がありません?
圓教寺の 如意輪観世音菩薩は参道口の一番最初に立っておられたようです。


   


   
第三十一番 姨綺耶山 長命寺 千手十一面観世音菩第三十二番 繖山 観音正寺 千手千眼観世音菩薩


           
           第三十三番 谷汲山 華厳寺 十一面観世音菩薩


   
   仁王門 。
  切妻造、本瓦葺、桁行(正面)3間、梁間(側面)2間。三間一戸の八脚門。
  江戸時代初期、元和3年( 1617年 )再建。県指定文化財
  安置する木造金剛力士像( 仁王像 )2体は室町時代の作で、市指定文化財


   
   山門を入るとその先に樹齢何百年もの木々の薄暗い参道が続きます。


          


   
 寿量院。ここでは予約をすれば精進料理を食べることが出来るそうです。


    


    
左手に圓教寺会館 ( 宿坊 ) 姫路市内の小学校の林間学校にも使われているそうです。


   
   右手に、十妙院唐門。
天正七年 ( 1579年 ) 正親町天皇により「 松岡院 」 の勅号を賜った。
これは、赤松満祐が、わずか 16歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てられた
ものとされる。圓教寺 第百六世 長更寛祐の住坊となり 寛祐を中興の一世とする。
その後、同じく正親帝より 「 十妙院 」 の勅号を賜った。塔頭寿量院とは左右
逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である。
                 十妙院唐門下の説明板より  


           
       本堂まで100 m。参道は「権現坂」と称する下りの階段に。


           
           護法石(弁慶のお手玉石)。
摩尼殿の手前にある直径約1 mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)
毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝えられる。また、弁慶が
お手玉にしたともいわれる。    護法石(弁慶のお手玉石)前説明板より


   
   湯屋橋。
「権現坂」を下りきると、元和3年(1617年)に姫路城主となった本多忠政が
 寄進した湯屋橋という小さな石橋。


 
 摩尼殿
 西國 ( さいごく ) 二十七番 観音霊( かんのんれいじょう )  摩尼殿 ( 如意輪堂 )
 本尊:六臂如意輪観世音菩薩
 元禄元年 ( 870年 ) 創建。昔この地に桜あり、天人が舞い降り、稽首生木如意輪と
 言葉を唱 ( とな ) えて礼拝 しているのを見て、性空上人 ( しょうくうしょうにん )
 その生木に如意輪観世音を刻 ( きざ ) まれた。これが本尊 となり安置する。
 本堂をその上に築いた。そのため、岩山 ( いわやま ) によりかかった掛 ( か )
 作 ( づく ) りとなった。大正末 ( たいしょうまつ ) に失火 ( しっか ) のため全焼し、
 昭和八年 ( 1933年 ) 再建されたのが現在の堂である。
 西国二十七番の札所としてふさわしく香華 ( こうか )が絶 ( た ) えない。
 重要文化財四天王も併せ祀 ( まつ ) られている。輪 ( りん ) :法輪 ( ほうりん:
 仏の教え、仏法 ) 、稽首 ( けいしゅ ) :首が地につくまで体を屈 ( くっ ) して
 拝 ( はい ) すること。
 ※  「 稽首生木如意輪 ( けいしゅ せいぼく にょいりん ) 」 の意味は 「 桜の木に
 宿っていらっしゃる如意輪観音 ( にょいりかんのんさま ) に帰依 ( きえ ) し、
 心から礼拝 ( らいはい ) いたします 」 というような意味でしょうか。  
 帰依:神、仏などすぐれた者に服従し、すがること。    摩尼殿説明板より


           
        書寫山 圓教寺 寺標。左は摩尼殿上り口、右に三十三所堂。


   


           
           手水舎。


      


   


   
   はづき茶屋。        摩尼殿からの眺め。
 はづき(端月)の名は、性空
     「 冥きより冥き道にぞ入りぬべき
                遙かに照らせ山の端の月 」
からとられた。


   


           
              本尊・・・六臂如意輪観世音菩薩


    
 

  本尊御真言・・・・・・・・おんはんどめい しんたまに じんばら うん



 札所等・・・西国三十三観音霊場 第二十七番札所
 名称・・・書寫山 圓教寺( しょしゃざん えんぎょうじ ) 
 本尊・・・六臂如意輪観世音菩薩
 宗派・・・天台宗
 開基・・・性空上人
 創建・・・康保 3 ( 966 ) 年
 所在地・・・兵庫県姫路市書寫2968
 圓教寺  散華     TEL・・・050-3532-2379


   


   
   お勤め。


   
摩尼殿の裏手から西へ。             摩尼殿の裏の扉。


          


   


       


   
   大仏。
  銅製の坐像で石を積みあげ、金属製の台座の上に安置されています。


          


       


   
   姫路城主・本多家の墓所
 5棟の堂は本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と
中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠邦の3人が姫路城主です。
 忠政は、池田家の後をうけて 元和3年 ( 1617 ) 、桑名より姫路へ移り、城を整備
したり、船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で、あとを継ぎました。
 忠国は2度目の本多家の姫路城主で、天和2年 ( 1682 ) に福島より入封しました。
 忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕えた徳川四天王の一人、政長は
政朝の子で、大和郡山城主となりました。堂のない大きな2基の五輪塔は、忠政の子・
忠刻 ( ただとき ) と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪城落城後の千姫と結婚し、姫路で
暮らしましたが、幸千代が3歳で死去、忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。
忠刻の墓の後ろには、宮本三木之助と岩原牛之助、三木之助に殉死した宮田角兵衛の
墓が並んでいます。 5棟の墓は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で、
昭和45年に兵庫県指定文化財となつています。    姫路城主・本多家の墓所説明版より      


    


 
 右、大講堂。
白砂の広場を囲んで、右( 北 )に大講堂、正面( 西 )に食堂、左( 南 )に
常行堂の3棟が「コ」の字形に並ぶ、中世の寺院景観を現在に伝えており、
これら3棟を総称して「三之堂(みつのどう)」と呼ばれています。
堂の前に立つと圧倒されそうです。雄大さの中に凛とした静寂の世界に感動。


 
 中央、食堂(じきどう)。


 
 左、常行堂


 
 大講堂( 重要文化財 )
北側に位置する大講堂は、2重1階、入母屋造、本瓦葺。桁行( 正面 )7間、
梁間( 側面 )6間。下層は永享12年( 1440 )に、上層は寛正3年( 1462 )
に建造され、文明年間( 1469-1487年 )に全体が整備されたと考えられる。
元和8年( 1622年 )、藩主本多忠政により修復。
昭和26 年 ( 1951 ) 〜 昭和31年 ( 1956 ) に解体修理。
もともとは寛和 2年( 986 )に参詣した花山法皇の勅願により、3間四方の
講堂として建立。内陣には釈迦如来および両脇侍( 文殊菩薩普賢菩薩 )像を
安置する。


   
   大講堂 外陣。


     
     大講堂の釈迦三尊像
    ゴールデンウイークの新録まつりと、12月14日〜16日のみ特別公開。


 
 常行堂
その昔、大講堂と対面している常行堂の舞台では奉納の舞楽が演じられたと伝え
られています。近年も1991年の宗次郎のコンサートをきっかけに演劇や能が奉納
されるようになりました。映画・ラストサムライのロケ地にこの三つの堂が登場。
NHK大河ドラマ・武蔵( 2003年 )や軍師官兵衛( 2014年 )のロケ地にも
なりました。


   
   食堂 ( じきどう )  重要文化財
 別名・長堂。古くは三宝院と称された。2階の屋根は隣の常行堂の屋根に接し
ている。桁行(正面)15間、梁間(側面)4間、入母屋造、本瓦葺。総2階建の
長大な仏堂である。日本の近世以前の仏堂建築で、このように長大かつ総2階と
するものは他に例がない。
承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、教興坊と称された。
暦応元年(1338)に再建、貞和4年(1348)落慶というが、現在の建物は、様式
などにより室町時代中期のものと考えられる。1階は柱間15間のうち、北寄りの
1間を引戸とするほかはすべて蔀戸(しとみど)とし、腰壁を設け、内部は円柱が
並ぶ広大な1室とするなど、他に例を見ない構成になっている。
1959年(昭和34年)より解体修理された。
2階はガラスケースを設置して宝物館としており、食堂の本尊となる僧形文殊菩薩
のほか、寺内の諸堂にあった仏像などがここに移されている。
堂内は仏像や絵画などの寺宝が展示されている。
僧形文殊菩薩坐像 、木造、像高84.5 cm。江戸時代(1700年)。
食堂には、本尊を安置する須弥壇はないが、「聖僧」として僧形の文殊菩薩坐像が
置かれた。


           
           宝物館 食堂 ( じきどう )


   
   宝物館 食堂へ入館。


  
      2階食堂より姫路城主・本多家の墓所を望む。


   


           
                大日如来坐像。


   
食堂本尊 僧形文殊菩薩像。        江戸時代作 ( 元禄13年 1700年 )
 食堂は仏堂ではなく、各地から集まった若い僧侶たちの寮であつた。修行僧の
食事だけではなく宿泊や学問所として建立された。その為、本尊を祀る須弥壇
ない。しかし、常に修行僧を指導くださる 僧形文殊菩薩像を安置し、若い僧侶は
修行に励んだ。主に天台宗寺院で信仰されてきたが、現代に伝わるものは少ない。


   


   


   
   食堂2階より。


   
   法華堂。
   本尊・普賢菩薩。法華三昧堂といい、創建は寛和3年 ( 985 ) 。
   播磨国司藤原季孝によつて建立された。もとは、桧皮葺であつた。
   現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。   法華堂前説明板より 


     
     鐘楼。( 重要文化財
 入母屋造、本瓦葺。桁行3間、梁間2間。様式は袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼
である。鎌倉時代、寺記によれば元亨4年(1324)に鐘を再度鋳造したとあり鐘楼は
元徳3年・元弘元年(1331)に焼失、元徳4年・元弘2年(1332)に再建されたという。
構造からも14世紀前半に建立されたものと考えられるが、15世紀中頃に修理された跡
も見られる。


   
   姫路城主・榊原家の墓所
 榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主となりました。
 前期 榊原忠次・政房   慶安2年 ( 1649 ) 〜 寛文7年 ( 1667 )
 後期 榊原正邦・政祐 ( すけ ) ・政岑 ( みね ) ・政永 
    宝永1年 ( 1704 ) 〜寛保1年 ( 1741 )
  この墓所には、上の城主のうち、政房と政祐の2人の墓碑が並んでいます。
 政房は寛文5年 ( 1665 ) 父忠次のあとをつぎましたが、わすか2年後に27歳で
 なくなのました。墓碑には故刑部大輔従四位下朝臣と刻んであります。
 政祐は享保11年 ( 1726 ) 父正邦のあとをついで5年余り、28歳で亡くなりました。
 墓碑には故式部大輔従四位下朝臣と刻んであります。
 両墓碑とも政祐の養子政岑が、享保19年 ( 1734 ) に建てました。忠次・正邦の
 墓所姫路市内の増位山にあります。  姫路城主・榊原家の墓所前説明板より 


     
     薬師堂。
  兵庫県指定重要有形文化財 ( 昭和四十年三月十六日指定 )
  構造形式:正面一間、側面二間、宝形造、本瓦葺
  根本堂とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を
  性空上人が三間四面の堂に造り変えたのが始まりと伝わる。
  寺記によると延慶元年 ( 1308 ) に焼失し、現在の建物は元応元年 ( 1319 )に
  再建された。幾度か改修されており当初の形は明らかではないが、もと方一間の
  堂に一間の礼堂 ( 外陣 ) を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が
  みられ、組物や虹梁に当時の特徴が残る。本尊 ( 薬師如来 ) 等は、現在食堂に
  安置されている。  なお、昭和五三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土
  しており、この地には圓教寺創建以前、すでに何らかの宗教施設があったと推定
  されている。           平成二十六年三月  姫路市教育委員会
                        薬師堂前駒札より


   
   姫路城主・松平直基 ( なおもと ) の墓所
 松平直基は、徳川家康の孫にあたります ( 家康二男秀康の五子 ) もと出羽国
山形城にいましたが 慶安1年 ( 1648年 ) 西国探第職として播磨国の姫路城主に
命じられました。 しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城へ
はいらずなくなり、遺骨は相模国 神奈川県の最乗寺に葬られました。
 のちになつて、直基の子・直矩が姫路城主になってから寛文10年 ( 1670 ) に
分骨し、ここ書写山墓所を作りました。   姫路城主・松平直基の墓所前説明板より 


   
 10時50分、開山堂・奥の院へもお参りがしたいのですが時間がありません
 摩尼殿の下に出る山道へ下りる。


          
          大黒天。
   圓教寺の参道脇に建っている切妻、妻入、本瓦葺、桁行1間 の 大黒天を
   お祀りする 小さなお堂でです。


   
   瑞光院。
  創建年代は不明だが、現存する圓教寺塔頭六院の一つであり、信者の組織である
  網千観音講宿院でもある。摩尼殿のある中谷から三つの堂のある西谷に向かう
  途次にあり紅葉の名所として知られ、向かいに大黒堂歌人初井しずゑの歌碑が
  ある。      平成二十七年二月 姫路市教育委員会    瑞光院前駒札より  


      
      高浜年尾 句碑。

      

   
      
      初井しずゑ 歌碑。      

      


   
オカメザサ。


   


         


   


   
 摩尼殿下右側の石段を上り、約55分 ぐるーっと回って摩尼殿下に戻りました。


         


    
    三十三所堂。
 西國三十三観音をまつる堂である。西國三十三所観音霊場が広く庶民の
あいだで行われるようになったのは、江戸時代である。
 社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、
各地に「 うつし霊場 」 ができた。
 有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも 「 播磨西国霊場 無 がある。
他にも全国各地にこのような霊場があり、このような 「 うつし霊場 」 を
さらに ミニチュア化したものが、この三十三所堂の発生であると考えられる。  
   平成二十六年三月 姫路市教育委員会       三十三所堂前駒札より 
 

   
   はづき茶屋て孫にお土産を。


   
   11時15分発のロープウェイで山頂駅より下山。
   お勤めを入れて、わずか1時間30分弱、スケールが大な霊場なので時間不足。
   忘れないように写真を撮るのが精一杯でした。
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