③ 紅葉の 佛通寺
最後は美しい紅葉の参道 ( 県道55号 ・本郷久井線 )佛通寺川沿いを歩き巨蠎橋 ( きょもう
はし ) を渡って境内の聖域へ。禅寺独特の整然とした庭園に魅せられました。
14 : 45 佛通寺 第2駐車場に到着。
紅葉の参道 ( 県道55号 ・本郷久井線 )
岸壁大文字彫刻 「 尊皇 」
・杉本五郎氏の遺言を大書された文字「 尊皇 」の二文字を ほぼ垂直に切り立った
岸壁に彫刻する。
・上から足場を吊り下げ、そのうえで作業したそうです。7月中旬の猛暑の中、岸壁
の岩が焼け大変であったそうです。
・また、岩に移した文字が、ノミを振るって彫り込むと、表面がバラバラと剥がれ、
その度に、また 字を写し直して掘り始めると言うように苦労もあったようです。
このようにして掘った文字の深さは 太さの約六分程度で「 尊 」の寸の点の中で小柄な
職人が雨宿りに入れたと伝え聞いています。
昭和14年10月10日 1か月余りを要して完成し現在に至っています。
飛猿橋 ( とびざるはし )
含揮坂 ( がんきざか )
開山道への参道。二百段近い石段が続きます。
輪蔵 ( りんぞう )
経蔵、回転式書架には明版大蔵経を収めています。
石燈籠の向うに山頭火句碑 ( さんとうかくひ )
「 あけはなつや満山のみどり」。佛通寺で吟じた句
崑崗池 ( こんこういけ )
放生池。大通禅師の詩「 護法の銀の龍 ( 滝のこと ) 九天より下りる。崑崗の玉を
砕いて飛泉となす」より名づけられた。
三安観音と羅漢像
三安観音 ( みやすかんのん )
家安かれ、身安かれ、子安かれ。過去 現在 未来の
三世の平安無事を祈願。
広島県天然記念物 佛 通 寺 の イ ヌ マ キ
昭和三十六年十一月一日指定
佛通寺の本堂に渡る木橋の手前左手にある大木で、通称ラカンマキと呼ばれている。
根回り周囲 四 . 五〇 米、胸高幹囲 三 . 五二 米、眼通り 幹回三 . 五六 米で、地上約
四〇〇 米のところで、東西の二大支幹にわかれる。
約五〇〇 米の高さで東西の大幹は更に、四大枝に、西方のものは五大枝にわかれる。
更に上方三五米で、両支幹は多数の小枝をわけてほうき状に展開し、短だ円状の樹冠
をつくっている。
イヌマキは、本州中部以南の暖地に生育する喬木で、五~六〇年前には幹廻三.〇〇米
以上の大木は諸所に生育していたようであるが現在ではきわめて少ない。 また雌雄
異株 ( いしゅ ) の樹種であるが、佛通寺のこれは雌株である。
イヌマキ科・学名 Podocarpus macrophyllus(Thunb.)D.Don
佛通寺の開山・愚中禅師が植えたものであると伝えられ、県下有数のイヌマキの巨木
である。 三原教育委員会
巨蠎橋 ( きょもうきょう )
境内結界の聖域としての活龍水 ( 佛通寺川 ) に架かる鞘橋 ( 屋根付きの橋 ) 。文政六年
以来、水害のため、たびたび再建。
佛通寺川
山門
臨済宗佛通寺派 大本山 佛 通 寺
佛通寺は応永四 ( 一三九四 ) 年 沼田荘地頭 小早川春平公が愚中周及 ( 大通 ) 禅師を
紹請して開いた臨済宗佛通寺派の大本山で、寺号は大通禅師の師、中国金山寺即休契
了禅師の諡号佛通禅師による。小早川一族の帰依を受けて寺勢は隆盛し、最盛期には
山内塔頭八十八ヶ寺、全国に末寺三千ヶ寺を数えた。
応仁の乱後、数度の戦乱にまきこまれ、小早川隆景公の治世に一時復活したものの、
福島氏による寺領の没収などにより存亡の危機に立たされた。後に広島藩主浅野氏の
外護のもと、再建修繕が行われたが、永亨の大火、さらに、明治初年には廃仏棄釈など
により苦境が続いた。
明治三十八年、香川寛量和尚を初代館長として紹請し、臨済宗十四本山の一つとして
独立。専門道場を備えた京都以西で随一の臨済宗の大本山として、法灯はおおいに挽回
された。境内の景観堂宇、収蔵文化財、中国金山寺式の経文の特殊な誦み方など、数多
くの文化遺産が伝えられている。 佛通寺の沿革と由来より
手水舎
鐘楼堂
大万丈
本堂
大玄関
伊万里圓通寺臥龍窟老師彫刻寄進による樟の一本彫り座禅達磨大師像を奉安。
本堂で御法話が始まるようです。
御法話のあと教えてもらったお焼香の実践・・・・・・
おかげさまで楽しい二日間のばあちゃん孝行の旅をありがとうございました。
~ 感 謝 ~