西条 ・ 神戸地域歴史探訪 ( 西条史談会 ) H29・10・28 ( 土 )
只今台風22号が四国地方に接近中‥‥‥‥2週連続で日曜日に台風襲来 !!
午後から 周辺歴史探訪 ( 西条・神戸地域 ) は西条史談会の方々のガイドで
( 伊曽乃神社 ⇒ 保国禅寺 ⇒ 土居構跡 ⇒ 金剛院 ⇒ 西条市考古歴史館 ) の
コースを、丁寧に解説して下さいました。
大西史談会 村上会長の資料 ( 歴史探訪・西条市 ) を参考にお勉強。
13:45 伊曽乃神社駐車場 到着。
( 大鳥居から参道を歩く予定でしたが雨の為直接駐車場へ )
神戸の地名〜伊曽乃神社に起因
伊曽乃神社は元は加茂郷であつたが、天平真護元年 ( 765 ) 同二年間に、
その内の土地15烟を神戸 ( 神封、封戸田 ) として与えられたので、神戸郷
になったといわれている。
伊曽乃台地〜古代文化の発祥地
伊曽乃神社の鎮座する伊曽乃台地は洪積層で東南方に緩傾斜した河岸段丘
上にあり、西条地方の古代文化の発祥地で、成務天皇七年 ( 137 ) に創建
されたと伝えられる伊曽乃神社をはじめ、神社の南方には釜の口遺跡があり
弥生式土器、須恵器、青銅和鏡等も出土し壮大な古墳も築造されていた。
また、神社の下方河岸段丘には、釜の口から須之内東原にかけて経塚が
分布するが、現在多くは破壊されているものの残存しており、下福経塚、
五輪塔などがある。
神社の西方には、聖武天皇の勅願寺であったという古刹保国寺があり、
その周辺は弥生時代から古墳時代にかけての文化の開けたことを証する
遺物の出土地である。
また、保国寺下方には奈良時代創建の真導寺があり、寺院跡の発掘調査
により縄文早期押型文土器が出土し、7000〜8000年前の先人の生をして
いたことがわかった。
その下には史跡「 土居講跡 」があり、戦国時代の武将の居館跡を今に残し
ている。更に、寺の背後には南北朝時代の正平年間 河野通直築城にかかる
高峠城があり、中世攻防の繰り返された所で、讃岐の細川氏と伊予の河野氏
角遂の場となり、攻防が繰り返された。 その後当地方は細川氏の支配する
ところとなり、高峠城には代官石川氏が入り新居・宇摩二郡の旗頭として
君臨したが、戦国末期に至り豊臣秀吉の一環として四国経路にあたり、天正
十三年 ( 1585 ) 郷土の将兵は土佐長宗我部元親との盟約を守り、侵攻軍
中国勢と勇戦奮闘しこれに準じた。
西条史談会 ( 西条・神戸地域歴史探訪 )資料より
神門前の狛犬も雨に濡れて黒く光っています。
御祭神伊曽乃神 【 天照大神(あまてらすおおみかみ)の荒魂・武國凝別命 】
由緒
第十二代景行天皇の皇子の武國凝別命(たけくにこりわけのみこと)は、国土開発
の大任をおび伊予の地に封ぜられ、皇祖天照皇大御神を奉斎し人々を愛撫し
皇威を弘められました。命の御子孫は伊予三村別(みむらわけ)氏としてこの
地方にひろがり栄え、天照皇大神に始祖武國凝別命をあわせ祀りました。
これが当社の創祀であります。奈良時代には伊予国第一の大社として皇室の
御崇敬もあつく、淳仁天皇の御代には新羅遠征に対する祈願がなされ、その
後も南海道の海賊平定祈願等たびたびの奉幣祈願がなされました。
称徳天皇の御代には神戸十烟を、更に翌年五烟を奉り従四位下に叙せられま
した。これはわが国における神位奉授の始めであります。延喜式内の名神大社
であり、その後正一位に極位致しました。崇徳天皇の御祈願と共に勅額を賜り、
その後も国司領主等による社地神田の寄進及び社殿の建立等が続きました。
昭和十五年国幣中社に列格し、昭和五十七年には浩宮様(現皇太子殿下)も
御参拝されました。
神社本殿は神明造り、桁行約 7 m、梁間約 47 m で屋根は切妻銅板葺き、
千木の先端は水平に切られている。堅魚木は10本て棟を押さえている。
屋根は俗に「 かね勾配 」といい、45度の勾配をもつ。正面入り口は平入りで
一軒二枚の両開きの板戸が取り付けられている。柱はすべて丸柱で総檜である。
拝殿内にて、宮司さんより伊曽乃神社の歴史等の説明を聞くことが出来ました。
木花開耶姫命ブロンズ像
大山祇 (おおやまづみの) 神 (かみ) の女 (むすめ) 容色婉 (えん) 美 (び )にして
皇孫邇邇 (にに) 芸 (ぎの) 命 (みこと) の妃神である。
燃えさかる産屋の中で火照命(海幸彦)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦)の
三皇子を生み給うた 火の勢いに打ち克った故に水の神としての信仰もあり
又安産の神様として名高い。
木花開耶姫命は、初代天皇である神武天皇の曽祖母にあたる。
奉納 今治造船株式会 会長 桧垣俊幸
制作 日本芸術院会員 文化勲章受章 中村晋也
平成二十五年三月吉日
宝物館
平成7年10月オープンの宝物館には国の重要文化財、『与州新居系図』を
はじめとする神宝類約130点、故大倉粂馬氏奉献の古文書等の蔵書約1万冊を
収蔵しており、展示物は随時入れ替えいるそうです。
素晴らしい絵画の数々にも感動しました。
『与州新居系図一巻』国指定重要文化財
凝然大徳(示観国師)作
わが国三大古系図のひとつ。古代より中世に
かけて当地方に栄えた新居氏一族の系図。
平安時代中期より鎌倉時代末期までのおよそ
300年間、数百人の人名が記されています。
浩宮様 ( 現皇太子殿下 ) も当社をご親拝なされ、研究の一環としてこの
系図をご覧になられたそうです。
『 伊曽乃大社祭禮絵巻 』 作者不詳 市指定有形文化財
長さ26.7メートル、幅35センチ。江戸時代後期の当社祭礼を極彩色も鮮やかに
描いた絵巻物。製作年代は天保時代前後(1840年代頃)、西條藩絵師によって
画かれたものと推定され、当時の祭礼の様子が細部まで丁寧に描かれており
西条まつり研究の根本史料とされています。
神 額 磯 野 宮 傳 宗徳上皇御宸筆
神 典 翼 皇 典 翼 遺 稿 矢 野 玄 道 翁 ( 大洲平野出身 )
帰りに社務所にて宝物館の入館料を。
雨の中宮司さんがお見送りくださいました。
「石鎚神社の投石」
昔、石鎚の男神と伊曽乃の女神が加茂川のほとりで出会い、恋仲となり女神は
結婚を迫るのですが男神は石鎚山での修業があるため断ります。石鎚山は女人
禁制のため同行はできず。そこで男神は「山頂から三つの大石を投げるので、
真ん中の石が落ちたところに館を建てて待つように」と言って山に登ります。
その後三つの石が飛んできて、真ん中の石が落ちたところに建てられた館が
伊曽乃神社の始まりであると。 それから男神は修業を終えて、無事に女神と
結婚したのだそうです。 修業中、「 もしも女神がこの山にのぼってきたら
どうしよう 」と気が気でなかった男神は天に逃げ登ろうとして思わず右足を
あげてしまったので、石鎚大権現の像は右足をあげているのだと言い伝えられ
ています。
保国寺は萬年山金光院と号し、東福寺派の臨済宗の禅寺です。
本尊は阿弥陀如来で、寺伝では奈良時代 聖武天皇の神亀四年 ( 727 ) の
建立とされ、当時は大きな寺であったとされる。
仏通禅師によつて天台宗から臨済宗に改められたので、保国禅寺中興の
祖とされる。仏通禅師の木像が残されていて国重要文化財となっている。
室町時代になり、足利氏により官寺とされ、十三堂塔が建ち並ぶ大きな
寺となっていたが、天正の陣によって焼失する。
江戸時代となって、久嶽禅師が再興を図り、宝暦二年 ( 1752 ) 頃現在の
状況に近い形になったものと思われる。天保十三年 ( 1752 ) に日野和照が
著した「 西条誌 」に絵図がみられる。 保国寺案内より
保国禅寺は、聖武天皇 ( しょうむてんのう ) の勅願寺であったという古刹で
萬年山金光院と号し臨済宗東福寺派。本尊は阿弥陀如来。創建は奈良時代。
最初は天台宗であったが、仏通禅師により臨済宗に改宗された。足利氏や
細川氏の帰依によって興隆する。
天正十三年 ( 1585 ) の秀吉の四国侵攻 ( 天正の陣 ) の兵火や文禄四年
( 1593 ) の洪水などで壌滅したが、先人の努力により復興し今日に至る。
特に萱葺きの本堂寛延3年 ( 1750 ) は貴重な建造物である。
本堂前には西条市の名木50選のソテツが樹勢を増し、すぐ隣の高さ約3mの
堂々とした宝篋印塔とうまく調和しほどよい景観をみせる。
西条史談会・資料より
宝篋印塔
この宝篋印塔は保国禅寺の大壇那 ( おおだんな ) であった久門家十軒家
一類が、寛政五年 ( 1793 ) に先祖の供養のため建立したもの。
御本尊 阿弥陀如来
木像 仏通禅師坐像 ( 国指定 有形文化財 )
像高 78.3 cm の木像で、正和元年 ( 1312 ) 仏通禅師の没後すぐに造像
されたと思われる。仏通禅師は、比叡山で天台宗を学ぶが、後に聖一国師に
ついて臨済宗に帰し、その高弟になった僧である。
像はもともと京都・東福寺に安置されていたが、仏通禅師が保国寺中興開山
( 寺を復興させた僧 ) であったため、江戸末期に乞われれてここに移されたと
いわれている。像の肌は黒光りをしており「 黒仏さん 」と呼ばれている。
堂々たる容姿と重厚な顔立ちは、東福寺の館長であった傑僧の風格をよく
再現している。昭和45年11月には日本の仏像の代表としてアメリカのボス
トン美術館に出展されました。さらに、平成19年7月〜9月東京国立博物館、
平成20年1月〜2月九州国立博物館にそれぞれ出品された。禅師は安養寺で
亡くなったが、その際の遺文が京都・願成寺に抄造されており、昭和50年に
重要文化財に指定された。 西条史談会 ( 西条・神戸地域歴史探訪 )資料より
保国寺庭園は 池泉鑑賞式 ( 書院など室内から見て楽しむ方式 ) の庭園。
国指定名勝 保国寺庭園 昭和50年10月16日指定
保国寺本堂の裏手にある庭園で、正面築山上に三尊石があり、その下に
枯滝の石組みを構え、左右の山畔から池辺にわたって多数の石を配し、
池中に亀島を置く。その石の大半は「 伊予の青石 」を用いている。
この庭園は第四世大愚和尚のとき ( 1430年頃 ) の築造とされている。
830平方メートル位の小規模の庭園ではあるが四国では最古のものである。
その後、宝暦2年 ( 1752 ) に現在の本堂等が再建されたとき、旧庭の
池の北部及び東部が建築敷地にあてられたといわれている。しかし、池の
構成上最も重要な中心部の地割は昔の形態を残しており、特に傑出した
石組みには室町時代特有の手法をみることができる、庭園文化史上極めて
価値が高いものとされている。
現代造園芸術の権威者である重森三玲氏は「 本庭園は四国にある古庭園
のうちでも屈指のものであり、同年代の庭園作品に比べても、いささかの
遜色もない 」と激賞した。 西条史談会 ( 西条・神戸地域歴史探訪 )資料より
金剛力士石像。
土居構跡 県指定 記念物 ( 史跡 ) 昭和23年10月28日
この城館跡は、高峠城の東北約1.5Km の位置にある。高峠城は室町時代
初期以来河野氏の居城であったが、その後讃岐の細川氏の支配下となり、その
代官である石川氏が拠った。高峠城には、城主の居館として「 東之館 」と
「 西之館 」があつたといわれ、「 東之館 」の遺構が土居構跡とよばれている。
「 西之館 」は高峠城の北麓にあつたといわれているが、洲之内・奥之内あたり
にあつたのであろうが、その場所ははっきりしない。
土居構の南には、風呂ヶ谷川を利用した堀があり、北側と東側は野面整層積の
石垣に囲まれ、幅2mの犬走りがみられる。また、中世の城郭と居館が一体と
なって現存するのは極めて珍しい。 また、寛文年間 ( 1661〜1673 ) の作と
される庭園も日本に伝わる民家庭園の代表といわれている。
中野村庄屋( 久門家 ) 指定外有形文化財 ( 建造物 ) 寛文年間の建築
寛永十九年 ( 1642 ) 土居講跡に久門政武が中野庄屋として住みつき、以来
久門家の住居として現在に至っている。家伝によると二代目が家を建てるため
に用意した木材は、西条藩初代藩主松平頼純の御殿の建築に使われ、後に
紀州から届いた木材で、寛文10年 ( 1670 ) に家を建てたもので、建築以来
約360年が経ったことになる。
屋根は萱葺き ( トタン板をかぶせている ) 下家は瓦葺き、主家は桁行き
約 15 m、梁行 約 9 m に裏座を半間延ばして 約 10 mで柱をはしめ用材の
木割がが 約 15〜16 mと太く、大きさも統一され、しっかりとした造りになって
いる。主屋の居室部の間取りは、棟通りに並行して表向きの部屋 ( まえ・仏間 )
と内向きの部屋 ( 台所・納戸 ) に二分されており、当時の上層農家の典型的な
例といえる。西条藩主がしばしば訪れたという由緒ある家柄である。
西条史談会 ( 西条・神戸地域歴史探訪 )資料より
藩主来訪時に使用された御成門。
ハナシュクシャ(花縮紗) の香りでした。
こちら側が台所だそうです。しばらくお話をさせていただきました。
仏生山 光明寺 金剛院は、平安初期保元年間( 1156〜1158 )に創建され
たと伝えられ、はじめ八堂山にあり、七堂伽藍の上に本尊不動明王を祀る
不動堂を建てたことによって「 八堂山 」の名が生まれたと伝えられている。
天正13年 ( 1585 ) の兵火で全焼。万治2年 ( 1659 ) 第3代西条藩主
一柳直興公により本堂が再建され現在に至る。西条市民の森の登り口にある。
市指定 建造物 金剛院の山門
約三百年ほど前の 万治・寛文の頃建てられたものと推定せられる。
建築様式は和洋を主とした単層入母屋造り、一軒、半繁垂木、本瓦葺の
四脚門である。桁から上及び垂木は松材を使っていたが、その他はすべて
欅材である。山門の扉も欅でよく保存されている。輪違い紋をはじめ装飾も
多く美しい。正面軒には小松藩三代藩主一柳頼徳公の筆になる「 佛生山 」
の扁額がかかっている。( 一柳氏は河野氏の出で本性は越智氏、頼徳は直泰
ともいう )
この門の美しさは均整がとれた簡素で、端正な風格をもったその姿にある。
昭和五十五年九月九日指定 西条市教育委員 説明板より
県 指 定 石 像 美 術 七 重 石 塔
源 実朝は承久元年 ( 1219 ) 非業の最期を遂げた。後室北の方は落飾して
京都遍照心院を建立し本覚尼となり亡父の菩提を弔った。
文永七年 ( 1270 ) 実朝の五十年忌にあたり供養の本覚尼がこの塔を建立
せられたものという。
総高 322 センチメートル の 均整のとれた美しい石像美術である。
本堂南側にある石段を登ったところにある。
昭和二十九年十一月二十四日指定 西条市教育委員 説明板より
右側は、高橋貞次( 大町常心生まれ、刀鍛冶人間国宝 )の墓。
16:37 西条市考古歴史館 到着。
全国でも数少ない弥生時代後期の高地性集落遺跡として知られる八堂山
( 標高196.5m ) の中腹に、歴史考古館の学習拠点として平成3年 ( 1991 )
に開館した。館内には八堂山遺跡出土品を中心に、そのほか西条市内にある
天神山遺跡や平田山遺跡、氷見経塚古墳・祭ヶ丘古墳からの出土品が展示
されている。また各種体験コーナー・映像コーナー・展示コーナーなどが
設けられている。考古歴史館から220mほど山道をいくと、山頂に八堂山
遺跡がある。 弥生時代中期から後期中葉 ( 2〜3世紀 ) の高地性集落の
遺跡で竪穴式住居と高床式円形倉庫が復元されている。
西条市考古歴史館玄関正面のエレベーターで3階へ。
晴れていると加茂川の美しい風景を眺めることができるのですが‥‥ !!
16:52 西条市考古歴史館 出発。