大西町歩こう会・高仙山城址 Ⅰ
高仙山は今治市の最西端、菊間町にそびえるきれいな円錐形を描く岩山です。
8月の歩こう会は菊間・高仙山ですが、お盆前あれもこれもと気持ちは
焦るも今年の異常な暑さも手伝い何も手につかない状態です !!
今月はお休みにしょうかと、ついつい怠け心が頭をもたげてきますが、思い
直し、お墓掃除を済ませてから大西支所へ。
広域農道からは舗装された車道が山頂直下まで続き広い駐車場と公園が
設置されおり、高仙山展望台からは菊間沖・斎灘の風景を一望することが
できます。暑さも忘れ眺めていました ( 夕日も素敵でしょうね・・・・・ )
9:23 菊間町へ。
高仙山 圓成寺
こちらは ⇒ 2012年1月29日、野間郡 四国八十八ヶ所 一番札所 圓成寺へ参拝
最近、野間郡 四国八十八ヶ所参拝を満願された青井三郎前大西町史談会
会長の高仙山と圓成寺の関りについての説明がありました。
境内の沿革。
円成寺は山号を高仙山と称して、高仙山とは最も深い慣例にある。
一三七九年 ( 六一七年前 ) 伊予の名門、河野一族の池原近江守通去の
居城として、高仙城を築城する。 同時に高仙山麓に、本堂 伽藍等
七坊を持つ霊巖山石城寺を建立したが、土佐の長曽我部一族の責めにあい
山麓の寺社ともども兵火にかかり炎上してしまった。
応永五年 ( 一三九八年 ) 本堂を再建したが、これも兵乱のため焼失して
しまった。その後、文明十一年 ( 一四八〇年 ) 高仙城主河野兵衛少輔通生
の手によって再建され、約百年に亘り、高仙城とともに石城寺も全盛期で、
平和な時代であったが、これも又、天正十三年七月二十四日( 一六八六年 )
豊臣秀吉の四国平定の命を受けた小早川隆景の軍勢に攻め破られ、当寺も
その難を受けて、伽藍はすべて焼失してしまった。
この戦いは特に激しく、大門付近まで打って出て死者二千を数へたと云わ
れている。この時、高仙城主の守り本尊であった石城寺の十一面観音像を、
村人が背に負い円福寺に預けたと云われるのである。この戦によって高仙城
は堕ち、河野氏も滅んでしまったのであるが、石城寺も又細々とした庵寺と
変わり、高仙城一族の霊を弔いながら、名も高仙山寺とか、種子山寺として
僅かに焼香を漂わせていた。
その後約二百六十年を経て嘉永二年 ( 一八四九年 ) 高仙山 円成寺と改める。
当山は本尊に阿弥陀如来をお迎えし檀信徒の篤い信仰に支えられ、また歴代
住職の辛苦によって、今日まで種部落の祈祷寺ならびに先祖供養の寺として
寺門が守られて来た。 ( 境内の石碑沿革より )
昨日、御手洗稔 歩こう会会長・青井三郎前史談会会長のお二人で
事前にルートの下調べに高仙山に来られたそうです。
大西町歩こう会は、諸先輩役員方のこうした努力により継続しています。
左に小さな 臍 ( へそ ) 島 、右端には怪 ( け ) 島。
神社左を上がると頂上、高仙山城址に出ます。
高仙山城跡の説明碑
高仙山城跡
寛治四年 ( 一〇九〇年 ) 此ノ地ニ加茂別雷神社、貴布祢神社ガ祀ラレテアッ
タガ、数度ノ遷座の末、加茂神社ハ菊間へ、貴布祢神社は岩谷へウツサレル。
現在ノ高仙神社ニハ加茂別雷神社ト貴布祢神社ガ祀ラレ、池原神社ニハ城主
池原兵部通成以下将兵ヲ祀る。正平年間( 一三四六年頃 )伊予ノ名門河野一族
デアル池原近江守通去ガ山城を築キ居城トスル。 永禄年間( 一五五八年頃 )
池原兵部通吉ガ城主トナル。天正13年7月 ( 一五八六 ) 豊臣秀吉ガ天下統一ノ
タメ小早川隆景ニ命ジテ四国平定ノ軍ヲ起ス。 隆景ハ数万ノ大軍ヲ率イ、
来島通総ヲ先兵トシテ新居浜ニ上陸。連戦連勝破竹ノ勢デ東予ノ諸城ヲ陥シ
入レ、重茂城、無宗天城ヲ降伏サセテ高仙城ヲ攻メル。 時ノ城主池原兵部
通成ハ、2百余名ノ兵ヲ率イテ大門大松山( 伊予亀岡駅付近 )ニ迎エテ防戦ニ
ツトメタガ多勢ニ無勢、大門大松山ハ破ラレ(今モ此ノ地ニ当時ノ戦死者ヲ
祀ル千人塚アリ )長谷ノ山崎ノ砦モ落サレテ残兵ワズカ十九名ト共ニ城ニ
引揚ゲル。高仙城デハ決死ノ攻防ガ続ケラレタガ、遂ニ刀折レ、矢ハ尽キハテ、
谷ニ充満スル大軍ヲ眺メナガラ若干十九歳ノ勇将通成自刃シ、高仙城ト共ニ
生涯ヲ終エル。
時、天正十三年七月十三日、真ッ赤ナ夕日ガ西ノ海ニ沈ム頃デアッタ。
平成四年四月吉日 種部落 ( 高仙山城跡の説明碑より )
最後の、真っ赤な夕日が西の海に沈む頃であった。の表現については、
なんとも言えない美しい心象風景で結んでいます。
頂上の高仙神社と展望台前の神社はよく似た造りですが、
正確な神社の名はわかりません。
菊間町 池原小ヶ丸広場公園。