大西町歩こう会・藤山公園 ( 大井八幡大神社・妙見山古墳他 )

   宮脇地区・藤山公園 ( 大井八幡大神社・妙見山古墳他 ) 2017-01-14


 
 平成29年度 第1回、大西町歩こう会は 宮脇地区・藤山公園 ( 大井八幡大神社・
妙見山古墳 ) 〜丸山墓地へ 今日の綿織物タオル染色縫製等繊維産業の基礎を築い
た宮脇出身 矢野七三郎の墓や貧しい百姓を少しでも助けようと畑に綿作りをすす
めた山本九郎兵衛の墓 ( 指切地蔵 ) など、先人の偉業に心打たれた新年の歩こう
会でした。


         
          【 藤山健康文化公園 】
  大西の中心にあるシンボル的な公園で、広さは 約 13.6ヘクタールあります。
 国道196号線からは船のプロペラが目印になります。公園に入ると煉瓦の大きな
 水道橋があり、正面の丘の上に妙見山古墳を見る事が出来ます。水道橋を入ると
 全面芝の多目的広場、アスレチック遊具などがあります。梅、桜、藤と季節の花が
 咲き花の名所になっています。  また公園内には妙見山古墳、藤山古墳があり、
 妙見山古墳の丘からは大西の町が一望できます。これら古墳群からの出土品は
 園内の藤山歴史資料館に展示されています。


   
   14:00  藤山健康文化公園北駐車場集合。
 出席を取り、資料 ( 妙見山古墳、大井八幡大神社由来、大井八幡大神社樹種の
 位図など ) の配布。


    
    井手上先生の挨拶とコースの説明。


   
   準備体操。


   
   14:06  出発。公園を出て大井八幡大神社へ。


   


   
   【 大井八幡大神社 】
由 緒   社伝によれば、第四十二代 文武 ( もんむ ) 天皇詔勅によって大宝二年
( 702 ) 乎智宿祢玉純 ( おちすくねたまずみ ) が奉行となって神殿を建営し、風早の 
国造 ( くにのみやつこ ) であった阿佐利と怒麻の国造若弥尾の命の2柱を崇祀して
大井宮とした。 後に第五十六代清和天皇貞観元年 ( 859 ) に宇佐八幡大神
山城国 ( 京都 ) 男山に観請の時、航路にあたる当郷の弓津恵 ( ゆづえ ) 島に船泊
した時、八幡神の御神託があり、河野探躬 ( こうのたんきゅう ) が垂跡 ( すいじゃく )
地に八幡宮を勧請し、仮神殿を建立奉斎した。
 寛平二年 ( 890 ) 大井宮に八幡宮を合祀し、大井八幡宮と称した。
 延元三年 ( 1338 ) 後醍醐天皇の皇子尊真親王がこの郷で薨去され、御霊を当社
 に合祀した。
 天正十三年 ( 1595 ) 河野氏滅亡後、府中 ( 今治 ) 城主となった福島正則神領
 召し上げられたが、その後藤堂高虎社領を復し、松山領になってから、初代松山
 藩主松平定行公 野間郡の3大社の1つに定められ、毎年、元旦には武運長久、
 五穀成就の大越年祭勤行は年中行事中最重なる神事となっている。


     
 明日15日は小正月 ( こしょうがつ ) 、「 お焚き上げ 」行事の用意をしていました。
 お焚き上げ ( どんど焼き ) とは、 正月の松飾り、書き初め、注連縄 ( しめなわ )
 お守り、破魔矢、祈願成就した 「 だるま 」 などを持ち寄って焼き、その火に
 あたり餅を焼いて食べ 無病息災を願うものです。
   こちらは ⇒ 2011年1月15日、小正月・お焚き上げの様子です。クリック。  
   こちらは ⇒ 昨年 1月15日、小正月・どんど焼きの様子です。クリック。

 
   
   石段。
宮脇、新町、大井浜の氏神で旧村社。幅4m 弱の 一枚石を使った八十五段の石段は
大井八幡大神社のシンボルになっており、5月の大祭には継獅子が行われ、獅子、奴、
神輿などが下りて来ます。
   こちらは ⇒ 2012年5月19日、大井八幡大神社春祭りの様子ですクリック。 


   
   大井八幡大神社拝殿。


    
    拝礼の作法 ( 二拝 ( 再拝 )、 二拍手、 一拝 )


    


   


     
     手水舎。


   
クチナシの木。                  クチナシの実。
実は、栗キントン等を作るときの着色材となります。自然染料なので草木染めなど
にも使われています。


    
 資料 ( 大井八幡大神社の樹種名 ) によると、 51種類もの樹木で覆われています。


   
   大井八幡大神社神殿。


   
   神殿の裏には、稲荷大明神があります。


    
    大井八幡大神社裏の茂みを抜けて・・・・・・・・
   
   
藤山健康文化公園へ出ます。         冒険斜面園地横を下ります。


 
 多目的芝生広場より、大井八幡大神社の森を眺める。


    


   


   
   正面は藤山歴史資料館です。


   
   北側登り道。


   
   しょうぶ園を左に眺めながら・・・・・・・・・・


    
     恋の池。
 皆廻池の水をボンプで汲み上げ 水路を流れた水は又皆廻池へと流れ込む
 循環式です。 ( なぜ恋の池と名付けたのか定かではありません )


   


   


    


   


   


   
   ヤマモモの 2号墳へ。


   


   
   2号墳を抜けると妙見山古墳1号墳です。

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    妙見山古墳4つの特徴 】
1、墳丘 : 前方後円墳だけど、前方部が短い。
2、埋葬施設 : 荒々しい竪穴式石郎 + くり
          ぬき式木棺。
3、副葬品 : 銅鏡1枚、 ( 中国鏡 ) ← 儀式と
          して割られる。
4、まつり : 墳丘からは飲食土器 + 伊予型特殊器台 + 壷。
・ 妙見山古墳は瀬戸内に前方後円墳が広まった古墳初期のもの。
・ 伊予型特殊器台は、松山平野の大型器台にルーツ 当時の大西平野は、今治平野
  以東の燧灘 ( 中部瀬戸内 ) ではなく、松山平野と同じ斎灘 ( 西部瀬戸内 ) の勢力
  に含まれる。
  愛媛県の古墳の見どころ ( 国史跡の古墳は愛媛では3ヶ所だけ ! )
  妙見山古墳 ( 大西 ) : 古墳時代初期の前方後円墳 ( 竪穴 )  2010-08-05、国史
  葉佐池古墳 ( 松山 ) : 古墳時代後期の楕円形墳 ( 横穴 ) 2011-02-07、国史
  宇摩向山古墳 ( 川之江 ) : 古墳時代終末期の長方形墳 ( 横穴 ) 2011-09-21、国史
                    本日の資料 妙見山古墳より

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   妙見山古墳 ( 国指定史跡 )
 藤山健康文化公園の丘の上に3基からなる古墳群があります。最も高い位置にある
妙見山古墳 ( 一号墳 ) は古墳時代の初期、約 1700年前に造られた前方後円墳です。
西瀬戸地域の古墳の中でも大型なことから、この一帯に関係の深い首長のお墓と考え
られています。平成2年から6年にかけて旧大西町と愛媛大学考古学研究室によって
発掘調査が行われ、その後復元整備され、平成22年に国の史跡に指定されました。
現在はきれいに芝が植えられ遊歩道が出来ています。 時間を限って内部の見学も
出来ます。埋葬物などは、藤山歴史資料館に展示されています。
                    今治市大西支所町誌 「 大西探訪 」より


   
   2号墳。


   


   


    


   


   
   標高80mの丘陵にある古墳の上からは大西平野や瀬戸内海( 斎灘 ) の
   美しい島々を見渡すことが出来ます。


   
   太陽の当たる場所 ( 雲の動き切れ目 )によって海の色が変化しています。
   

   
   1号墳埋葬施設。


    
 埋葬施設内部です。これは2015年7月30日に撮った写真です。
 今日は結露で展示窓が曇り内部がよく見えませんでした。


   


    


   
   エメラルドグリーンに光る海。


   


   
   1号分墳より、左2号墳、その右ヤマモモの茂みの奥に3号墳があります。


   


        
          

   


    


   


   


   
   妙見山古墳西寄せ山道口へ下りる。


   
   古墳の階段から妙見山古墳西寄せ山道口まで 248段。


   
   下りる途中の 右側に妙見神社があります。


   
   妙見神社は、妙見山古墳西上り口途中の東屋 ( 休憩所 ) の奥にあります。


            
            妙見神社。小さな祠に祀られています。


   


    
     妙見山古墳 竪穴式石郭 天井石 展示施設。
  妙見山古墳の埋葬施設である竪穴式石郭は、後円部と前方部の2ヶ所で
 発見されました。
  天井石は、この竪穴式石郭に蓋をするために置かれた石です。
  二つのうち、大きいものが1号 竪穴式石郭 ( 後円部 ) 、小さめのものが
 2号 竪穴式石郭 ( 前方部 ) に置かれていた天井石 ( 実物 ) です。
  当古墳の天井石の置き方には特色がみられ、まず長い軸に交わるように、
 大きな細長い石を間隔をあけて置いていき、その間に少し小さめの平らな石を
 両側から合掌風に置いています。     
               妙見山古墳 竪穴式石郭 天井石 展示施設説明板より


   


   
   山茶花の遊歩道に入ります。


   


   
   河津桜並木へ。


   
   河津桜の花が一厘だけ咲いていました。


   
   下斜面には蠟梅 ( ロウバイ ) の花が満開。


    
     タネはアズキくらいの大きさで焦げ茶色の実(�柬果)がなっています。
   庭に播き、5mmほど覆土しておくと、春分を過ぎてから生えてくるそうです。
     

   


   


     


   


   


   
   藤山健康文化公園西駐車場。


   
   皆廻池の土手を歩きます。


   


   


   


          
          忠霊塔。
    藤山健康文化公園に隣接する忠霊塔は 昭和33年に建立されました。
    日清戦争日露戦争、太平洋戦争で亡くなられた英霊285柱をお祀り
    しています。  今日は風が強くお花飛び散っていました、さっと直しに
    行かれました。


    


           


      
         かりふぉるにあ船長  住村博士像   久松定武 書  


 大正14年4月15日、越智郡大井村宮脇( 現大西町 )に生まれる。今治中学校
を経て神戸高等商船学校へ、昭和23年卒業、昭和28年甲種船長免許を修得し、
外国航路の船長を歴任する。同45年2月、第一中央汽船の 「 かりふぉるにあ丸 」
の船長としてロサンゼルスから鉱石を積んで和歌山に向かう途中、9日午後10時
ごろ、千葉県野島沖東方360キロメートルで暴風雨に遭い、船体に亀裂を生じて
浸水し、船体が傾斜し激浪に阻まれて、船員6人が波にのまれる。翌10日、救助の
外国船が到着し、残り22人と漂流中の2人が救助された。住村船長は脱出を断り
船橋から手を振りつつ、船と運命をともにした。その強い責任感は船員魂の権化と
たたえられた。昭和45年2月10日、44歳で死去。故郷宮脇に胸像が建てられました。


   


    
    尊真親王 ( たかざねしんのう ) 陵墓参考地

 
    
    尊真親王 ( たかざねしんのう ) 陵墓参考地
藤山健康文化公園 陽だまりの丘 ( 藤山古墳 ) の横に木々が生い茂っている一画が
あります。ここは後醍醐天皇の皇子 「 尊真親王 」 の墓とされており、宮内庁が管理
しています。
南北朝時代の初期、延元元年 ( 1336 ) 11月、後醍醐天皇の皇子 尊真 ( たかざね )
満良 ( みつなが ) ・ 懐良 ( かねなが ) の 三親王南朝の勢力拡大のため、大館氏明、
篠塚伊賀守ら40人余りを従えて大井浦に着きました。 伊予の国司河野道政は これを
お迎えし、大井寺を御座所としました。 しかし同年12月に北朝方の不意打ちにあい、
多くの将兵は討ち死にし、尊真親王も負傷しました。 尊真親王は大井寺において阿波、
讃岐の北朝の勢力を除こうとしましたが果たせず、延元3 ( 1338 ) 年3月8日に亡くなり、
藤山へ埋葬、みたまは大井八幡神社へ合祀されたといわれています。


    

   
    


    
    丸山墓地へ。


   


    
 お堂は倉庫のような建物ですが、野間郡四国八十八ヶ所 第七十番札所です。


     
     本尊・・・弘法大師
  ⇒ 2012年2月18日野間郡四国八十八ヶ所 第七十番札所丸山大師堂参拝 
   上、クリックして 比べてみてください時の流れを感じます。


    


              
              矢野七三郎の墓。
 矢野七三郎は今治タオルの元となる綿業、伊予ネルの創始者です。 今治城
敷地内に銅像かある事でも知られていますが、お墓は出身地である宮脇にあります。
安政2年( 1855 )生まれ ) 先進的な考えを持った人で 明治12年( 1879 )には
キリスト教に入信しています。  当時の今治地方の特産であった白木綿が衰退して
いるのを見て、今治の綿業発展のため和歌山のネル工場で技術を習得し、今治
共同で興修社 ( のちの興業舎 ) を 創立します。 度重なる難を経て、やっと順調に
生産、販売できるようになった矢先、明治22年( 1889 ) 凶刃に倒れました。
 35歳の若さでした。           今治市大西支所町誌 「 大西探訪 」より


    
 

    

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   今治城御金櫓前に建つ矢野七三郎像。

     
            ⇒ 今治綿業の父 矢野七三郎について 


 矢野七三郎は安政2(1855)年越智郡宮脇村(現在の大西町大字宮脇)に父節太
母美喜の長男として生まれた幼名は通正という、少年時代地域の学識者として名高
かった山本五左衛門の薫陶 ( くんとう ) を受け温厚篤実 ( おんこうとくじつ ) にしてしかも
進取の気象にに富んだ人柄を形成した青年期に入ると父親を援 ( たす ) けて家業の
海運業や酒の醸造業に努め事業家として幅広い経済知識を身につけた。
 明治12(1879)年に四国最初のキリスト教会が今治恵比須町に創立されたが
それを機会に七三郎はキリスト教に入信し新しい西欧思想を身につけた同志社大学
創始者新島襄や文豪徳富蘆花と知り合ったのもこの頃である。
とりわけ宣教師横井時雄とは親交が深く七三郎が事業家の素養を培 ( つち ) かった
のは この横井時雄と伯父の柳瀬義冨に負う所が大きい。
青年実業家矢野七三郎が最初に瞠目 ( どうもく ) したのは西洋における産業文明の
発達であって当時衰退していた織布 ( 家庭内職による小幅白木綿 ) を近代化し尚
かつ企業化することであった。
同志数名と共に紀州を始め先進企業地を見て研究し艱難辛苦 ( かんなんしんく ) の末
これを企業化することに成功した。
明治19(1886)年七三郎は伯父柳瀬義富の援助を得て興業舎を設立し伊予ネルの
生産を開始した。
多忙な日常業務のかたわら彼は後進の育成にも力を注いだためこの今治地方には
多数の織布工場が出現し今日の綿織物タオル染色縫製等繊維産業の基礎を築いた。
しかるに未来に向かって扉を押し開いたこの若者を天は惜しげもなく天上に召しかえし
たのである。  すなわち明治22( 1889 )年12月24日の深夜自宅で就寝中に突如
凶賊 ( きょうぞく ) に襲われ不運にも白刃 ( はくじん ) の犠牲となった。
享年 ( きょうねんは ) 35歳惜しんでも余りある青年実業家の夭折 ( ようせつ ) であった。
    今治産業の黎明期 ( れいめいき ) を築いた矢野七三郎
    彼の偉大なる業績は永遠に不滅である。
台座にある  「 首倡功 」  の意味は  「 首 ( はじめ ) て功 ( こう ) を倡 ( とな ) う 」 
読み偉大なる創始者に贈られる尊敬の言葉である。            
                  碑文・今治綿業の父 矢野七三郎像について より

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    山本九郎兵衛の墓 ( 指切地蔵 )
  宮脇村庄屋 山本家は重茂山城主高田左衛門尉通成の子孫で宮脇村に帰農し、
 江戸時代初期より代々庄屋をつとめている。九郎兵衛は慶長年間に生れ延宝
 年間77歳で亡くなるまで庄屋として村の人々のために尽くしている。 そして
 「 指切九郎兵衛さん 」 「 指切地蔵さん 」 と尊称されている。
  九郎兵衛は貧しい百姓貧を少しでも助けようと畑に綿作りをすすめた。当時、綿は
 百姓の衣料のすべてであり、余りは売ってお金になるので百姓は喜んで綿作りに
 精を出した。  その綿に検見の役人が税をかけようとした。  九郎兵衛は驚き
 「 何故課税するのか、今まで綿作に税はかかっていない。 」というと、「 それなら
 証拠があろう、それを出せ。 」 とせまつた。  困った九郎兵衛は台所に走り込み、
 指を切って知のしたたるその指を真っ白い紙にのせ、 「 これが証拠です。 」 と
 差し出した。  それを見て役人は 「 よしわかつた。 」 と引き下がったというので
 ある。        大西町教育委員会   山本九郎兵衛 ( 指切地蔵 ) の墓説明板より
 

    


    


    
    藤山健康文化公園北駐車場へ。


    
    15 : 25  藤山健康文化公園北駐車場到着。
           来月2月11日の歩こう会 山ノ内( 天神社・大河内神社他 )
           集合場所 ( 山ノ内集会所 ) の説明などの後解散。
           本日の歩いた距離・・・2.8m。  歩いた歩数・・・4500歩。