野間馬ハイランド ~ 藤山健康文化公園
市老連のハイキング 「 野間馬ハイランド ~ 藤山健康文化公園 」迄の約 3.8 km を
歩くコースに参加しました。参加者70名 ( 大西地区は30名参加 ) で野間馬ハイランドを
出発。国道196号線沿いの風景を眺めながら野間地区から大西地区の藤山健康文化
公園へ到着。藤山歴史資料館周辺で休憩の後、北側登り道より妙見山古墳頂上へ。
お天気も良く標高80mの丘陵にある古墳の上からは 斎灘の美しい島々を見渡すこ
とが出来1号墳埋葬施設見学の後 西側下り道を西駐車場へ。藤山歴史資料館前の
休憩所とその周辺の木陰でおしゃべりをしながら楽しくお弁当をいただきました。
集合場所は、国道196号線、能面道路 ( で愛ふれ愛ロード ) の入口交差点を入り
野間馬ハイランド一番下の駐車場です。
9: 40 野間馬ハイランド駐車場 到着 ( 大西・紺原地区は集会所で車に乗り合わせる )
参加者に、ゼッケン・お茶・お菓子が配られました。
参加者70名全員集合。
準備体操 ( それぞれ自由に準備運動 )
10 : 03 市老連 御手洗 稔 会長挨拶。
「 楽しく怪我をしないように歩きましょう オー ] 桧垣敏美 ( 大西地区老人クラブ )
若手委員長の掛け声でハイキング開始。
9:18 野間馬ハイランド 出発。
左側歩道へ横断。正面に見えるのは近見山です。
で愛ふれ愛ロードを下り左折、国道196号線へ。
国道196号線沿い BEMAC ( 旧 渦潮電機 ) 株 本社みらい工場前。
後ろの信号は宅間交差点です。
吉田橋の桜並木
品部川に架かる吉田橋 歩道橋
10:30 吉田橋を渡ると大西町紺原です。
左側に大池と瀬戸内バス停留所 ( 前のマイクロバスは救護車です )
大西クリニック前
道路の右側は A コープ アシスタ入口
左は、大西町新町の土岐氏の墓。
藤山健康文化公園 東駐車場入口へ左折。
右、荒神池は工事中です。
荒神社を過ぎると中池。
中池の横 東駐車場。
10 : 55 藤山健康文化公園 多目的芝生広場へ到着。
藤山歴史資料館
休憩。
11 : 13 妙見山案内板前に集合。
御手洗 会長の 国指定妙見山古墳について説明。
古墳案内図。 ↑ クリックすると拡大します。
11 : 18 北側登り道より出発。
菖蒲園
「 恋の池 」土手 あじさい園の上を登ります。
恋の池 を囲む あじさい園、茂みの向こうに造船所のクレーンや島々が・・・・・
恋の池 ( なぜ恋の池と名付けたのか定かではありません )
皆廻池の水をボンプで汲み上げ 水路を流れた水は又皆廻池へと流れ込む循環式です。
疲れた~ 休みながら一段々登ります。
階段は2号墳のこの切り株の手前まで続いています。
2号墳の横を通り1号墳へ。
【 妙見山古墳4つの特徴 】
1、墳丘 : 前方後円墳だけど、前方部が短い。
2、埋葬施設 : 荒々しい竪穴式石郎 + くりぬき式木棺。
3、副葬品 : 銅鏡1枚、 ( 中国鏡 ) ← 儀式として割られる。
4、まつり : 墳丘からは飲食土器 + 伊予型特殊器台 + 壷。
・ 妙見山古墳は瀬戸内に前方後円墳が広まった古墳初期のもの。
・ 伊予型特殊器台は、松山平野の大型器台にルーツ 当時の大西平野は、今治平野
以東の燧灘 ( 中部瀬戸内 ) ではなく、松山平野と同じ斎灘 ( 西部瀬戸内 ) の勢力
に含まれる。
愛媛県の古墳の見どころ ( 国史跡の古墳は愛媛では3ヶ所だけ ! )
妙見山古墳 ( 大西 ) : 古墳時代初期の前方後円墳 ( 竪穴 ) 2010-08-05、国史跡
葉佐池古墳 ( 松山 ) : 古墳時代後期の楕円形墳 ( 横穴 ) 2011-02-07、国史跡
宇摩向山古墳 ( 川之江 ) : 古墳時代終末期の長方形墳 ( 横穴 ) 2011-09-21、国史跡
11 : 28 妙見山古墳群1号墳へ。
妙見山古墳 ( 国指定史跡 )
藤山健康文化公園の丘の上に3基からなる古墳群があります。最も高い位置にある
妙見山古墳 ( 一号墳 ) は古墳時代の初期、約 1700年前に造られた前方後円墳です。
西瀬戸地域の古墳の中でも大型なことから、この一帯に関係の深い首長のお墓と考え
られています。平成2年から6年にかけて旧大西町と愛媛大学考古学研究室によって
発掘調査が行われ、その後復元整備され、平成22年に国の史跡に指定されました。
現在はきれいに芝が植えられ遊歩道が出来ています。 時間を限って内部の見学も
出来ます。埋葬物などは、藤山歴史資料館に展示されています。
1号墳登り口
1号墳より2号墳を ( 2017年3月頃はヤマモモの木が古墳を覆っていました
何故切ったのか、推測では木の根が張って地中の古墳を壊す恐れがあるから ? )
標高80mの丘陵にある古墳の上からは大西平野や瀬戸内海( 斎灘 ) の美しい島々を
見渡すことが出来ます。
大西小学校・体育館・右端に大西中学校 ( 写真をクリックすると拡大します )
最後に 1号墳埋葬施設見学。
1号墳埋葬施設。 復元された1号墳埋葬施設内部。
11 : 55 妙見山古墳出発。
妙見山古墳西寄せ山道口へ。
妙見山古墳 竪穴式石郭 天井石 展示施設。
妙見山古墳の埋葬施設である竪穴式石郭は、後円部と前方部の2ヶ所で
発見されました。
天井石は、この竪穴式石郭に蓋をするために置かれた石です。
二つのうち、大きいものが1号 竪穴式石郭 ( 後円部 ) 、小さめのものが
2号 竪穴式石郭 ( 前方部 ) に置かれていた天井石 ( 実物 ) です。
当古墳の天井石の置き方には特色がみられ、まず長い軸に交わるように、
大きな細長い石を間隔をあけて置いていき、その間に少し小さめの平らな
石を両側から合掌風に置いています。
妙見山古墳 竪穴式石郭 天井石 展示施設説明板より
西駐車場。
昼食・休憩
木陰で楽しくお弁当をいただきました。
13 : 03 陽だまりの丘へ。
尊真親王 ( たかざねしんのう ) 陵墓参考地
藤山健康文化公園 陽だまりの丘 ( 藤山古墳 ) の横に木々が生い茂っている一画が
あります。ここは後醍醐天皇の皇子 「 尊真親王 」 の墓とされており、宮内庁が管理
しています。
南北朝時代の初期、延元元年 ( 1336 ) 11月、後醍醐天皇の皇子 尊真 ( たかざね ) ・
満良 ( みつなが ) ・ 懐良 ( かねなが ) の 三親王は南朝の勢力拡大のため、大館氏明、
篠塚伊賀守ら40人余りを従えて大井浦に着きました。 伊予の国司河野道政は これを
お迎えし、大井寺を御座所としました。 しかし同年12月に北朝方の不意打ちにあい、
多くの将兵は討ち死にし、尊真親王も負傷しました。 尊真親王は大井寺において阿波、
讃岐の北朝の勢力を除こうとしましたが果たせず、延元3 ( 1338 ) 年3月8日に亡くなり、
藤山へ埋葬、みたまは大井八幡神社へ合祀されたといわれています。
右側に、大井 陵墓参考地(りょうぼさんこうち) 宮内庁の駒札
大井 陵墓参考地
一、みだりに 陵内に立ち入らぬこと
二、魚 鳥を取らぬこと
三、竹 木等を切らぬこと
宮内庁
( 大井 陵墓参考地前の駒札より )
大正14年4月15日、越智郡大井村宮脇( 現大西町 )に生まれる。今治中学校
を経て神戸高等商船学校へ、昭和23年卒業、昭和28年甲種船長免許を修得し、
外国航路の船長を歴任する。同45年2月、第一中央汽船の 「 かりふぉるにあ丸 」
の船長としてロサンゼルスから鉱石を積んで和歌山に向かう途中、9日午後10時
ごろ、千葉県野島沖東方360キロメートルで暴風雨に遭い、船体に亀裂を生じて
浸水し、船体が傾斜し激浪に阻まれて、船員6人が波にのまれる。翌10日、救助の
外国船が到着し、残り22人と漂流中の2人が救助された。住村船長は脱出を断り
船橋から手を振りつつ、船と運命をともにした。その強い責任感は船員魂の権化と
たたえられた。昭和45年2月10日、44歳で死去。故郷宮脇に胸像が建てられました。
13 : 20 藤山健康文化公園 北駐車場へ。
13 : 25 閉会の挨拶
マイクロバスで自家用車の運転手さんを野間馬ハイランドへ搬送。
( 乗用車の運転手さんは藤山健康文化公園へ同乗者を迎えに行く )
マイクロバスは藤山文化公園に帰って島嶼部の参加者を搬送する。
13 : 28 マイクロバス野間馬ハイランドへ出発。
13 : 43 マイクロバス・乗用車 藤山健康文化公園北駐車場到着。
( 私達は乗用車に乗り合わせて集合場であった紺原集会所へ )
本日の歩いた距離・・・・・約 7. 5 歩いた歩数・・・・・10715 歩でした。