第12回 西国三十三観音巡り 第十七 番 補陀洛山 六波羅蜜寺

    第12回 西国三十三観音巡り 第十七 番 補陀洛山 六波羅蜜寺


    
    六波羅蜜寺
  天暦5年 ( 951 ) 、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派
 寺院で、西国三十三観音霊場の第十七番札所として古くから信仰を集めている。
 空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像 ( 国宝 ) を本尊とする。
  空也上人は醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を
 唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。
 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の
 史跡の中心でもある。宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也
 上人立像、平清盛坐像、長快作の弘法大師など数多くの重要文化財を安置し、
 境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られて
 いたという運慶・湛慶坐像も所蔵している。
 年中行事として、正月三が日の皇服茶、八月の萬燈会、かくれ念仏として知られる
 十二月の空也踊躍念仏 ( 国の重要無形民俗文化財 ) が有名である。  京都市
                                      六波羅蜜寺駒札より


    
 本堂正面の 鉄門、鉄の扉は通常締まっています。少し離れた入口から境内へ。
伽藍は江戸時代までは大伽藍を連ねたが、明治維新廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を
縮小した。現在、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、主な建物は本堂( 南北朝時代
重文 )と弁財天堂、宝物収蔵庫のみである。
本堂は、外陣を板敷きとし、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式
建築で貞治2年(1363年)の再建である。


    
一願石。                      十一面観音立像。
一願石 「 祈りをこめて 金文字から 手前に三回お回しください 」 と書いてあります。


     


    


    


           
             本尊・・・十一面観世音菩薩 ( お前立 )
 

    


       本尊御真言・・・・・・・・・おん まかきゃろにか そわか



 札所等・・・西国三十三観音霊場 第十七番札所
 名称・・・補陀洛山 六波羅蜜寺 
 本尊・・・十一面観世音菩薩
 宗派・・・真言宗智山派
 開基・・・空也上人
 創建・・・天暦 5 ( 951 ) 年
 所在地・・・京都府京都市東山区松原通大和大路東入

 六波羅蜜寺 散華      TEL・・・075-561-6980


   


                        開山の空也上人
  第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り
 苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。
 再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に
 一切経をひもとき、教義の奥義を極める。
 天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の
 称号を受けた。
 森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日
 ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。
 上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので 人々は
 親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。
 上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が
 射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭に
 つけて生涯我が身から離さなかったという。 定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子と
 なり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。
 定盛は上人の遺風を伝えて茶筌を作り、これを世に広め、子孫は有髪の姿に黒衣を
 まとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて市中を徘徊した。 これが今六斎念仏として
 伝わっている。当山の空也踊躍念仏はさらにその源流である。
  運慶の四男・康勝の作による彫像の空也上人は、胸に金鼓を右手に撞木を、左手に
 鹿の杖をつき、膝もあらわにぞうりを履いている。さらに6体の阿弥陀を口から吐く姿は
 異様にも感ぜられるのだが、これは「南・無・阿・弥・陀・仏」の六文字を象徴しているという。
  (上:重要文化財空也上人像)      ひとたびも 南無阿弥陀仏と いふ人の
                   蓮(はちす)の上に のぼらぬはなし     
空也


   
   阿古屋塚。
   阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す。
   石造宝塔は鎌倉時代の作で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を
   もちいている。
         歌 舞 伎  壇 浦 兜 軍 記  「 阿 古 屋 」
   平家の残党 悪七兵衛景清の行方を探すため、想い人で五条坂に住む
   白拍子阿古屋を捕え、代官秩父庄司重忠は阿古屋に景清の所在を問い質す。
   阿古屋は知らぬと申し開きするが、詮議のために弾かせた琴、三味線、胡弓
   などの調べに一点の乱れのないことに感動した重忠は阿古屋が景清の所在を
   知らぬことが真実であると知り釈放する。「 阿古屋の琴責め 」 とも称される。
   平家物語の裏面に隠された 「 阿古屋 」 の悲恋を語り伝えるためにこれを記す。
    平成二十三年十一月吉日   五代目 坂東 玉三郎 ・ 第六十五世 山王 純性


           
           平清盛公乃塚。



 六波羅は御所から見て南東の方向、四条以南・鴨川の
東側一帯を指す。かの地は歴史的に 「 平清盛 」 の出世
物語と密接な関係を持つ。 1118年誕生の平家の頭領・
清盛が30歳過ぎから頭角を現すにつれ、それまで芦荻が
茂る湿地帯であった六波羅は平家一族郎党の住まいと
して開拓され、年を追うごとに拡大していった。
その最盛期には広大な境域に5200余の邸館が並んだと
いう。平家が木曽義仲によって追い落とされ、鎌倉の世となった後も頼朝はここに
六波羅探題を置き都の治安を監視したのだが、その後も時の為政者にとってこの
地は重要な戦略的拠点となった。


   


    


    


   
   弁財天堂 ( 日本最古 都七福神ノ一 )


    


   
   福寿 弁財天。


            
            銭洗い弁財天。
 七福神のなかで唯一の女神である弁天様は、水を神格化した神さまで、学問と
技芸の神。仏教では人々に財宝を与え、障害を取り除く誓願が加えられ、お祈り
すれば財布のなかが豊かになる。
「 お金をザルに入れ柄杓一ぱいのお水を三回に分け清め清めたお金はお蓄え
下さい 」と書いてあります。


    
水掛け不動尊。               水子地蔵尊


    
 総受付 ( 重要文化財宝物館拝観受付 ) 宝物館へ・・・・・・でも時間の余裕なし。


   
 六波羅蜜寺のすぐ左側の駐車場で待つているタクシーに乗り本日最後の札所へ。


   
   みおぼえのある大谷本廟の横を通過、第十五番 音羽山 清水寺へ。

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