後2日で無事満願 2日目 ( 2012-07-09 )

    
二日目の朝、まだ暗いうちに目覚め、今日最初の札所 第七十八番 郷照寺へは
午前7時頃出発する予定で6時過ぎに朝食を戴き、7時になっても中々出発の気配
なし ・・・・・・・・・・・ もう直ぐ終わるからと ・・・・・・・・・・・・ 嬉しそうに全米オープン
テレビ観戦中の、おふたりさんで〜す。


    
午前7時15分、Takata 家を出発、本日最初の札所 四国霊場 第七十八番 郷照寺
向かう。 7時40分高松中央IC〜7時55分坂出ICで降り国道〜県道を経由、
カーナビは途中で迷い 少し逆戻りを 看板に沿って郷照寺へ。

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         四国八十八ヶ所 第七十八番札所 郷照寺

奈良時代行基が「道場寺」の名で開創した古刹で、後に弘法大師が42歳の時、自作の
尊像を刻み、厄除けの誓願をしたことから 「 厄除けふだつ大師 」 として信仰を集めて
います。

     
    
町並みより少し小高い位置に ある 「山門」 を上り 「駐車場」へ。 じいちゃんは 今日
最初の鐘を撞きます。  一段高い位置にある「2層屋根の本堂」 美しい「天井画」 、 
更に本堂横の石段を上ると、厄除うだつ大師で知られる「大師堂」 、 「万体観音洞」
にも入ってみました。 広々とした「境内」 地形を巧く取り入れた 「庭園」等、
お手入れの行き届いたとっても気持ちの良いお寺さんでした参拝の後は「納経所」へ。


         
         優しく微笑むみかけている様な 観世音菩薩像。

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          四国八十八ヶ所 第七十九番札所 天皇寺

開基は行基菩薩で、この地を訪れた弘法大師日本武尊ゆかの弥蘇場の泉脇の木で
十一面観世音菩薩を彫り、堂を中興。保元の乱で破れ讃岐へ配流後、この地で崩御した
崇徳天皇の棺を、都から指示があるまでこの寺で安置した。
境内には天皇寺崇徳天皇が奉られた白峰宮が建っています。

    
赤い鳥居から「白峰宮」に続く石畳の参道を挟んで、左側に本堂と大師堂。右側に
駐車場があり その奥に納経所。本堂へは 小さな門を 潜って 白峰宮参道を横切り、
天皇寺境内に 江戸時代に再建された 「本堂」、  本堂と棟続きで建つ「大師堂」 
その奥に「観音堂」が建つ

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          四国八十八ヶ所 第八十番札所 国分寺

天平13年(741)、聖武天皇の勅願により全国に建立された国分寺の1つ。行基が開基し
その後弘法大師が補修、霊場に定めた。当時は東西220m、南北240mの広大な寺域に
数々の堂宇が建つ大寺院だってそうです。 境内には国の重要文化財や史跡である
本堂や金堂跡を示す礎石が残っています。


    
仁王門左側に寺の「縁起略記」が立ち仁王門を入ると本堂まで一直線にのびる参道の両側には 「ミニ四国八十八ヶ所」や 伝説の残る「梵鐘」その前には釣鐘 ( ぼんしょう) 
案内板。  「金堂跡を示す礎石」や 「七重の塔跡礎石」等の「国分寺由来の案内板」
当時が偲ばれ想像が膨らみます。 「本堂」 は 国指定の重要文化財です。   
ここにも「本堂の案内板」があり参考になります。


         
          国分寺御本尊は、十一面千手観世音菩薩
広い境内には、 「さぬき七福神」 赤い鳥居の 「良縁結び」  「納経所と大師堂」 「北向地蔵堂」 の前では ご近所の老婦人も お参りに。  

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           四国八十八ヶ所 第八十一番札所 白峯寺

五色台の1つ、標高377mの白峰山にあり、保元の乱で讃岐に配流となった崇徳上皇
ゆかりの寺。本堂、大師堂は100段の石段を登った先に佇む。広大な境内には、
崇徳上皇の御廟所である頓証寺殿や御霊を奉る白峰御陵、御陵を詣でた西行法師に
まつわる石碑など史跡も多く見られます。


    
七棟門を入ると参道の正面に 「護摩堂・納経所」紫陽花の咲く参道 を左に進むと
「勅使門」、 「頓証寺殿」 勅使門手前の100段の石段の先に 「本堂」「大師堂」 が佇む。まだ石段の途中には 「鐘楼」「金堂」「阿弥陀堂」 が建っています。


     
特に紫陽花は美しく心 の片隅にそっとしまっておきましょう。紫陽花1、  紫陽花2


    


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          四国八十八ヶ所 第八十二番札所 根香寺


五色台の青峰山中にある寺。入唐前の弘法大師五大明王を祀って花蔵院を建立した
のが始まりで、後に大師の甥 智証大師が霊木で千手観音を刻み、千手院をひらいた。
この2院を総称して「根香寺」と号した。青峰の怪物「牛鬼伝説」や紅葉のスポットと
しても知られています。

    
仁王門前駐車場への道路を工事中のため、脇道から参道へ。  「仁王門」まで引き返し
あらためて一礼を石段の続く参道へ。参道左側には 水かけ地蔵、右側に 役の行者像 
更に上ると左に納経所、右に朱塗りの大師堂、 延命地蔵(六角堂)もう一息最後の
石段の先に 「香堂」 本堂へは 左から回廊を入り、  本堂 拝殿で参拝、 帰りは右側の
回廊をでます。


       
       本堂参拝を終えて右側 回廊途中の祭壇、厨子に佇む


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          四国別格二十霊場 第十九番 香西寺

奈良時代 行基により開創され、最初勝賀山の麓にあり勝賀寺といった。 平安時代
空海 ( 弘法大師 ) が再建し現地に移した。 嵯峨天皇の勅願所に選ばれ、寺緑千貫文を
賜り、朱雀天皇のとき、談議所( 僧徒学問所 ) に選定される。鎌倉時代、この地の豪族
香西左近将鑑資村 ( 香西氏の祖 ) が幕命を受け堂塔を再建し香西寺と改称す。

    
香西寺「仁王門」手前に お迎え「毘沙門天像」仁王門から緩やかな参道 石段の先
本堂を望む。 参道の途中 左側に「納経所」 、 右側には 「水掛地蔵尊」 。参道の先に
は広い境内の中に佇む「本堂」その隣に 四国三十三観音霊場第三十三番結願所です。 
その右側に「毘沙門天堂」さらに「大師堂」へと続きます。境内には様々な石仏が並び、
ひときわ高く「厄除弘法大師像」  「目治し地蔵菩薩」 少し離れた場所にある、耳直し
如意輪観音さまは時間の都合でお参り出来ず。


         
         時が経ち迫力を増した愛染明王


   
四国観音霊場 御本尊 灑水 ( しゃすい ) 観音。   目治し地蔵菩薩


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     四国三十六不動霊場 第三十五番 厄除不動明王院 ( 厄除不動 )


略縁起 昭和三十年五月十一日午前六時五十三分 濃い霧に包まれた備讃瀬戸で修学
旅行生ら乗客四百六十一人、乗務員六十六人を乗せた紫雲丸と車両渡船第三宇高丸が
衝突。紫雲丸は沈没し百六十八人もの犠牲者が出ました。その亡き人々の供養にと、
当院主ほか同志の者が集まり昭和三十三年四月吉日開いたのがこの厄除けの寺
不動明王院です。その開眼供養を行ったのは総本山善通寺法主である亀谷宥英
大僧正です。岩肌を背に そり立つのは小倉右一郎氏が刻んだ高さ八メートルの
波切不動尊と呼ばれる四国一の立像です。又体内には犠牲者一人ひとりの霊を弔う
般若心経が納めてあります。


    
高松市の山の手 峰山公園下にあ寺院。じいちゃんは本堂下まで車で、私は石段を登ります


   
幾つもの きつい石段を登り、やっと境内にはいると金色のとてつもなくでっかい
波切不動尊が目前に現れました。疲れも吹っ飛ぶような感動・・・その時本堂の中から
老婦人が顔を出して、提げているカメラを見るなり「素人が仏像撮ったらいかん」と、
まるで監視をしている様です。本堂の参拝もしなくていいと言うので波切不動尊の前で
灯明とお線香をあげ、お参りをし 納経と胸飾りの童子玉をいただき、早々に退散。
結局撮ったのは寺の縁起のみ。 
これは ガイドブックに載っていた波切不動尊の写真です。


  

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         四国八十八ヶ所 第八十三番札所 一宮寺

高松市郊外の閑静な住宅街にある。歴史は古く、飛鳥時代に義淵僧正が法相宗
寺として創建。後に行基が堂宇を修築、田村神社別当寺となり、一宮寺と改めた。
その後弘法大師聖観音像を本尊として安置、真言宗に改宗。江戸時代に松平頼重
田村神社神仏分離させ、独立寺院となる。

    
午後2時23分、本堂横の駐車場に 車を止め、仁王門へ。門を入ると石畳の正面に本堂 大師堂では 大型バスで参拝のお遍路さんに 先達さんが説明をしていたので 私も一緒に
先達さんのお話に耳をかたむける。   大師堂には先祖供養、家内安全祈願の吊燈篭が並んでいます。


         
         水掛不動。


     
納経所では 添乗員さんが高く積まれた納経帳に 御影を一体々丁寧に挟んでいました     
納経所の方に、 どの位 かかりますかと尋ねると、どうぞと先に済ませて下さいました
小さな祠の様な薬師堂の前には人だかりが、後でお参りと思っていたら忘れちゃった !!
1991年4月4日宿坊に宿泊翌朝本堂で御勤め。2度目の参拝は 2009年6月14日でした


宿坊    本堂    堂大師    水屋     護摩堂     菩薩堂
一宮御陵 地蔵尊   般若心経記念碑  裏門 等、寺の配置はすっかり忘れていました

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        四国三十六不動霊場 第三十二番 天福寺・岡不動

略縁起によると不動明王は、太治年間に 覚叟上人の作であり、当山本尊薬師如来
衆生の病魔に冒されし者、諸厄にくるしむ者あらば、明王ただちに行きて身にも代え
悪魔降状さしむるべし」という法言本願に依つて身代わり不動とよばれています。 
行基によって開山され、聖武天皇の帰依をうけた行基は、日本地図最初の作成人でも
あり当地において その構想が ほぼ固まったと寺伝に伝えられているそうです。


    
仁王門を入ると 広大な境内です。仁王門の正面建つのは本堂?。立派な鐘楼が右側に
左の奥には鄙びたお堂が建つ。他に建物は見当たらないので一度門の外へ。


          


    
仁王門下の参道を入る。突き当たりの門は閉ざされ門の前には自動車が駐車、 門の右側ノウゼンカズラの花の下を潜り境内へ。木々に埋もれた大師堂かな?で お参り、
歴史を感じさせる内陣。  持仏堂の横に建つ 納経所では、御住職が待っていて
下さいました。   お庭には御住職の丹精を込めた松は、まるで鳥が羽を広げた様
( あまりにも長くて カメラに収まりません ) 。
3時29分、第三十二番天福寺を後に 今日最後の札所 第三十六番聖代寺へ向かいます。

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      四国三十六不動霊場第三十六番 札所 聖代寺 厄除不動

 
略縁起 僧西行 ( 俗名佐藤義清 ) は、その晩年かつて思いを寄せた旧主家徳大寺家の
姫君の忘れ形見、崇徳上皇の菩提を弔うため当地に一宇を建立しました。
( 崇上天皇保元の乱に破れて讃州に配流され1164年におかくれになった )。
後年、寿永四年 ( 1185年 ) 源平の合戦に破れた平氏の臣が当山において合戦に散った
将兵の霊を慰めたとも云われています。
当山不動明王は、弘法大師御敬刻の尊像を奉祀する大本山成田山新勝寺の御本尊の
分身像で、 古来より霊験あらたかな「身代わり厄除け不動尊」として知られている
そうです。


       
八島を背に建つ不動霊場結願所 第三十六番 厄除不動 成田山聖代寺石標の横を
車で不動尊下の駐車場へ。私は参道42段の石段を登り、厄除不動尊の前で参拝。
駐車場下の境内には十二支守り本尊、 鐘楼、 本堂を入った左側に納経所があり
納経と結願の証をお願いする。
あと2ヶ寺( 第三十三番 雷不動と三十四番 一事不動は明日参拝 ) 残っているので、
住所と名前を記入、結願証は後日郵送との事。


 
寺の少し下、溜め池越しに見える五剣山。 明日は朝一で四国霊場第八十四番 屋島寺
次に第八十五番八栗寺参拝、ケーブルカーで五剣山の中腹まで登る予定です。

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