卯建の町並 Ⅳ
この碑は手ずくり郷土賞を受賞してからも地元住民の歴史遺産に対する誇りや
保存・修復にかける熱い心ともてなしの心が評価された「 手ずくり郷土大賞 」の
受賞を記念して建立するものである
平成二十一年十月 美馬市 ( ふるさと「 手ずくり郷土大賞 」記念碑より )
愛媛県今治市から高速道路を乗継ぎ、祖谷の「 かずら橋 」・大歩危峡・
「 阿波の土柱 」と楽しく観光、最後は「 卯建 ( うだつ ) の町並 」を散策
とっても楽しい一日を過ごしました。
県道12号線を脇町サービスセンタ交差点を右折、大谷川に架かる南橋を左折。
ここから、「 うだつの町並 」に入ります。
15:30 「 手ずくり郷土大賞 」記念碑前へ。
卯建がある街並み
藍で栄えた幕末から明治期まで、南町通り ( うだつの町並み ) には藍商をはじめとする多くの商家が
建ち並び、人々で賑わっていました。
商家は、本瓦葺きに大壁づくりの重厚なたたずまいで、隣家と接する二階の壁に卯建をもうけています。
この卯建を作る費用が相当にかかったことから、店が繁盛しなてことを「 卯建があがらない 」といって
ことわざにもなつています。
今もこの通りには当時の商家が数多く残り、活気のあった頃の面影を伝えています。
昭和六十三年に全国で二十八ヶ所目の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
、
うだつ 「 卯 建 」
うだつ「 卯建 」は、二階の壁面から突き出した漆喰塗りの袖壁です。江戸時代は火よけとも
呼ばれ防火の役目をしていましたが、 明治時代になると防火よりも装飾に変わってきました。
裕福な商家は富の象徴として、この「 うだつ 」を争ってあげました。
ことわざ辞典にいつまでもぐずぐずして一向に出世できないことを「 うだつが上がらぬ 」と
記してある。
( 美馬市多言語音声ガイドシステム 7 卯建 より )
店先で腰を下ろしていた男性のお話によると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
向かいの家の鬼瓦は、卯建の街並みの中でも立派な鬼瓦だそうです。
補修工事をしているお家も。
15:38 お屋敷を一般公開しているので入ってみます。
藍商 「 佐直」由来
吉田直兵衛が寛政四 ( 1792 ) 年に創業した藍商です。屋号を「佐直 」としました。
藍商は藍染の原料を販売する商人で、幕末がら明治にかけて大いに繁盛しました。吉野川
流域は藍草の一大産地として発展しましたが、中流域以西では、その集散地として脇町が
中心となりました。佐直は、脇町で 一、二 の豪商であったと言います。
南町通り ( うだつの町並み ) に面する当家屋は、間口十一間、奥行き三十間の敷地を有し、
商家としてはかなり広いものでした。
中には、商談に使った店の間や帳場があり、使用人部屋や藍蔵、藍寝床なども残されて
います。裏手の雁木石段は、かって吉野川が近くを流れていたときの名残で、降りてすぐ
の所が舟着場になっていました。また「 卯建 」など、防火の工夫も見ることができます。
吉田家住宅は、平成十一年に旧脇町 ( 現美馬市 ) 指定の有形文化財になります。
藍の商い
藍商が各地の染業者 ( 紺屋 ) に販売していた藍染めの原料は粒状態の蒅 ( すくも ) か、それを
臼でつき固めた藍玉です。藍の葉からこれらを作るのは大変手間がかかる仕事で、その製造を
専門に行う業者は「 藍師 」と呼ばれました。
藍作農家から集めた葉藍 ( 藍の葉を細かく砕いて乾燥したもの ) を、寝床と呼ばれる作業場で
水をかけながら発行と撹拌を繰り返し行い、約八十日かけて蒅や藍玉に仕上げました。
藍商は藍師を兼ねることが多く、藍商佐直でもこうした藍の製造を行っていました。
ここで履物を脱いで上に上がります。
帳場が見える小窓
この小窓から、帳場の様子が覘き見る事が出来ます。
何のための小窓か想像してみてください。
箱階段
つなぎの間 ( 茶間の間 )
中庭 ( なかにわ )
普請時は身分の高い人物が鎮座する主座敷・次の間との外界を区別する結界であった。
個の庭の正面は御成玄関と主座敷を結ぶ通路側 ( 西側 ) である。
また当時の姿は不明であり、現在は鑑賞庭として造園されている。
御成玄関
控えの間
主座敷 【 王位戦の間 】
Kengisan が質蔵の前でお庭の写真を撮っています。
板の間
台所
「 ダイドコ ( 台所 ) 」の風景
主人や家族は居間や奥の間で、奉公人などは板の間で食事をとっていたと思われます。
一般に江戸後期から明治にかけての商家では、家族のものは折敷 ( おりしき ) や脚付を
膳にして食事をしていましたが、奉公人には各自に善付の箱膳があり、その中に椀、
飯茶碗、箸を仕舞っておき、食事の時に膳の上に出して使っていました。
食後は水で洗うような事はせず、布でぬぐう程度で箱膳に収めました。
また古い屋敷では食事を煮炊きする釜屋と配膳する所は別々に別れていました。
本屋敷でも板の間で配膳などが行われており、最盛期には、炊事係の「 お鍋どん 」と
呼ばれる女性や、「 権助 」とよばれる飯炊き係りの男性がいたと思われます。
釜屋は残念ながら保存されていません。
( 「 ダイドコロ (台所) 」の風景 説明板より )
井戸 ( 現在は使用されていません )
履き物を脱いで質蔵へ。
この駕籠は、江戸末期 当家三代目の嫁として来られた方が嫁入りに
使用されたものです。
四神之間 ⇒
郷土が生んだ巨匠 藤島博文画伯の名画
四神星宿之図 東 青龍 南 朱雀
西 白虎 北 玄武
奥の部屋へ
ここで行き止まり。向うの隅に階段らしき降り口が・・・・・・・ !!
階段は蔵の入口へ下りるようになっていました。
蔵を出て主屋二階へ。
「 写真機のご用意を 」座布団にお座り頂いて記念撮影でも・・・・・・と
書いていますが一人ではどうにもなりません。
かわりに外の景色でも撮っておきましょう。
16:11 約22分間かけて、やっと吉田家住宅見学終了。
あまりにも遅いので妹が心配して待っていてくれました。
お茶処茶里庵
田村家
宝永八 ( 1711 ) 年の棟札をもち、この通りで2番目に古いたてものである。うだつを
取り入れた建築様式以前のものであり、2階の部分が低く古風な構えを呈している。
敷地は表通りから当時の吉野川川岸まで占められていたと言われ、藍商を営む赤谷屋
のものであった。田村家は明治初期に入居し現在にいたる。
主屋の規模は桁行8間に梁間4間、裏に身舎 ( もや) 屋根をそのまま葺き下ろした1間半
の下屋がつく。 ( 美馬市多言語音声ガイドシステム 5 田村家より )
森 家
森 家
森家は天分年間 ( 16世紀半ば ) より脇町に居住し、弘化年間 ( 18世紀半ば ) から醸造業を
営んでいた。当家屋は明治13年に建て替えられたものである。
明治の郵便制度発足後、7代目当主が郵便局長を拝礼、郵便局として使用されていた当時の
窓口がそのままの形で残っている。
9代目当主が大正8年に当家で医院を開業し、昭和29年まで診療を続けていた。開業当時
の診療施設が、そのままの形で現在も保存されている。なお、当屋敷は中町通りまで裏庭を
隔てて貫通しており、裏に門屋敷・長屋門が現存している。
( 美馬市多言語音声ガイドシステム 4 森家より )
うだつや
可愛い小物がいっぱい。
将棋名人
小野五平翁の生家 ( 平田家 ) 、天保2年木屋五平 ( 宿屋 ) で生まれる。泊り客のさす将棋を
見たのが病みつきとなり、持って生まれた素質と熱心さのため 7~8歳の頃、すでに五平を
負かす者はなかった。
19歳の時江戸に出て名人 ( 天野宗歩 ) に弟子入りし、明治23年四国では唯一人第12世将
棋名人となった。大正11年91歳で没し、大工町安楽寺に葬られている。
( 美馬市多言語音声ガイドシステム 2 将棋名人より )
空間特性を現代に活かす 森 邸 うだつの町並み + 古民家 + サテライスオフィス
う だ つ
うだつ「 卯建 」は、二階の壁面から突き出した漆喰塗りの袖壁で、火よけ壁ともい呼ばれ
防火の役目をしていました。
江戸時代、裕福な商家は この「 うだつ 」をあげた立派な家を競って造りました。
ことわざ辞典にいつまでもぐずぐずして一向に出世できないことを「 うだつがあがらぬ 」
と記しており、この語源になったのではないかと思われます。
( 美馬市多言語音声ガイドシステム 1 うだつ より )
防火の工夫
商家の密集する市街地で、人々がもっとも恐れたのが火災でした。
江戸時代に入ってからたびたび大火に見舞われた脇町では、家屋の防火構造が重視され
卯建 ( うだつ ) や虫籠窓 ( むしこまど ) などがつくられていました。
卯建は、隣家と接する二階部分の妻壁から突き出した小さな壁で、延焼をくい止めます。
虫籠窓は、表面に練り土に漆喰を塗り込めて堅牢に固めた二階部分の窓で、窓から室内
へ火が移るのを防ぎます。
美馬市伝統工芸体験館
未来工房
明治32年 ( 1899年 ) に脇町税務署として建築され、その後、昭和27年 ( 1952年 ) に
税務署が移転し、昭和63年 ( 1988年 ) まで法務局、そして美馬市伝統工芸館「 美来工房」と
して現在に至っている。構造は鉄筋コンクリート造りではあるが、外見は税務署時代の擬洋風
デザインで、街並みに違和感なく溶け込んでいる。
館内は美馬市伝統工芸である和傘や竹工品の展示、観光案内所も併設され、観光情報発信や
ガイドの予約受け付けを行っている。
ドアの向こうには「 美馬和傘製作集団 」と書かれています。
美しい和傘に見とれてしまいました。
16:24 そろそろ帰り支度を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この先右折。
道の駅 藍蔵へ。
道の駅 藍蔵から見えるのは 徳島県美馬市指定文化財 吉田住宅 佐直 です。
道の駅 藍蔵 駐車場へ。
正面にトイレ左に駐車場が見えます。
本当に素晴らしい「 うだつの町並み 」でした。
文正元年 ( 一八一八 ) の脇町分間絵図
江戸時代、物資輸送の大動脈として重要な役割を果たしていた吉野川は、「 うだつの町並み 」の
すぐ南側まで流れ込んでいました。ここには舟着き場があり、水運を利用して藍製品が集出荷され
ていました。今も石垣やスロープが残されており、一部が「 舟着き場公園 」に整備され、繁栄して
いた往時がが偲ばれます。
( 舟着き場公園・文正元年 ( 一八一八 ) の脇町分間絵図 説明板より )
16:38 駐車場を後にします。
17:22 徳島ICへ入る。
18:43 高田家に到着 ( Kengisan車の運転お疲れ様でした )