おのぼりさん日記・1日目 ( 5 )  増上寺・その周辺

        増上寺・その周辺 ( 2017-11-03 ) 


      
 青山一丁目駅より芝公園駅で下り、東京タワーを眺めながら増上寺へ。
三解脱門を入り大殿 ( 本堂 ) へ続く参道は人の波です。何処からか透き
通った聞き覚えのある歌声が ・・・・・・‥‥‥ まさか岩崎宏美さん
大殿前は人だかりで見えるのは人の頭ばかり、歌声を耳にしながら境内を
散策、東京タワーへ。


 


      
     思い出に一枚と ( 写されてしまいました ) まあいいか。


  
  旧台徳院霊廟惣門
  この門は、、「ザ・プリンスパークタワー東京」の中にあります。
  門の両脇にはチャーミングな仁王像が立っています。


  
 台徳院霊廟惣門は、台徳院(2代将軍徳川秀忠)の霊廟の表門です。
 台徳院霊廟は、増上寺の本堂の南側に、寛永9年(1632)に造営された
 もので、2代将軍徳川秀忠の霊廟です。
 増上寺の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、地形の起伏を利用した
 壮麗な建築群を誇っていました。 しかし、昭和20年の戦災で、多くの
 建物が喪失して、焼失を免れたのは 惣門、勅額門、御成門、丁字門のみ
 でした。そのうちの惣門が現地に保存されています。
 それ以外の門は狭山不動寺(埼玉県)へと移築されて現存しています。

 
  
台徳院霊廟惣門の仁王像 ( 港区指定有形文化財 )
 彫刻 木造仁王像 二躯
 重要文化財『旧台徳院霊廟惣門』の左右に安置している寄木造り、砥粉地
(とのこじ)彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐(いわくら)の上に立って
います。 平成十六年から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が
発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村( 現在の川口市西立野 )の西福寺真言宗
仁王門に安置されていたもので、寛政元年( 一七八九 )、弘化三年( 一八四七 )
の二度にわたり修理が行われていることがわかりました。
さらに安政二年( 一八五五 )の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置か
れていたものを、昭和二十三年( 一九四八 )、同寺三重塔の修理と同時期に三度
目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。
その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門
に安置されたと考えられます。
 本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、
江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。
 像高 阿形二四三・五センチメートル
    吽形二四七・〇センチメートル
  平成一八年十月二十四日  「 港区教育委員会
                    ( 台徳院霊廟惣門の仁王像 案内板より )


  
  増上寺旧方丈門(黒門)   1棟 建造物 昭和五十五年十一月十五日指定 一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門です。
 もと増上寺方丈の表門でしたが、昭和五十五年 ( 1980 )、善導大師1300年遠忌
を期に、表側の飛檐垂木〈 ひえんだるき 〉の大部分と、東側の破風板 ( はふういた)
瓦の一部を補修し、三解脱門南隣りの現位置に移築されました。よく旧規を保ち、
木割りが雄大で重厚な姿を持っています。 門扉は破損が著しいため取り除かれ
ました。 全体が黒漆塗であったため「 黒門 」とも呼ばれています。建立当時、
増上寺の主要伽藍 ( がらん ) はすべて漆塗されていましたが、三解脱門(重要文化財)
などの朱塗の建物との対照がきわだち、また蟇股( かえるまた )の彩色や飾金具を
くっきりと浮き立たせて壮観であったと思われます。 漆塗は材料が高価なため、
近世寺社建築では、徳川氏および有力大名の営むものや庇護を与えたものに限ら
れており、増上寺が徳川家の菩提寺として厚い庇護を得ていたことをあらわして
います。蟇股には、表側に唐獅子、裏側に牡丹が浮彫されていて精巧で写実的な
図柄は、近世の建築彫刻の特色を示しています。長年の風触のため、古色を帯び
ていますが、桃山建築の豪華さの面影がうかがえます。
建造年代を明らかにする棟札( むなふだ ) などの記録は見出せませんが、江戸時代
初期の特徴を示す様式から、17世紀後半のものと推測されます。 増上寺にある
多数の建物の中でも古い年代に属し、貴重です。


  
  増上寺旧方丈門 ( 黒門 ) を入ると 慈雲閣、正面は右側です。
        ⇒ 慈雲閣正面の画像ははこちら。


       
       慈雲閣( じうんかく )開山堂 
この御堂は、平成元年( 1989 )増上寺開山・酉誉聖聰( ゆうよしょうそう )
上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山 堂の再建を
企画、建築されました。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師・聖冏
( しょうげい )上人像と当山中興の聰観智国師像が安置されています。
現在は葬儀や年中行事など、多目的に利用できる設備を備えています。
              増上寺・境内散歩、慈雲閣 ( じうんかく ) より〜


 
 三解脱門(重要文化財
 東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、正式名称
を三解脱門といいます。元和八年( 1622 )徳川幕府の助成により幕府大工
頭・中井正清とその配下により建立。再建されました。増上寺が江戸の初期に
大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されて
います。 三解脱門とは三つの煩悩「 むさぼり、いかり、おろかさ 」を解脱
する門のことです。上層部( 楼上 )には、釈迦三尊像十六羅漢像が安置
されています。 2017年11月3日現在、三解脱門の一階部分が覆われています。


  
                  浄土宗 大本山 増上寺 寺標


   
三解脱門を入り大殿 ( 本堂 ) へ何処からか聞き覚えのある歌声が・・・
岩崎宏美さん ? そんなはずはないよね‥‥‥


  
  大殿前は凄い人だかりです。


 
 大殿(だいでん)
 昭和49(1974年)年、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる
儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建
されました。 首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、
三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室があります。
本堂のご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖
法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。
               増上寺・境内散歩、大殿 ( だいでん ) より〜 


 
 大殿前は人の頭しか見えないので隣の安国殿へ向かいます・・・・・・・・・


   


   
   歌声は、やっぱり岩崎宏美さんでした。


 


 
  安国殿
  戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を昭和四十九年
( 1947 ) 、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「 安国殿 」と
しました。 老朽化のため、平成二十三年 ( 2011 ) 法然上人八百年御忌
を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた ゛天下泰平の
世 ( 安らかな国づくり ) " を願い、新しい 安国殿が建立されました。


   
  本堂中央に本尊である、恵信僧都の作と伝えられる秘仏「 黒本尊 」
  ( 御開帳・黒本尊祈願会、正月、五月、九月の十五日 ) は家康公が
  深く尊崇し、そのご加護により、度重なる災難を除け、戦いの勝利
  を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除の仏さま
  として江戸時代以来、多くの人々の尊崇をあつめています。 
  また、御前立ちの阿弥陀如来立像、脇陣には家康公肖像画、徳川家
  歴代及び御一門の尊霊の御位牌、皇女和宮さまの等身大の御像等が
  祀られており、安国殿は当山の祈願所として親しまれています。
                  増上寺・境内散歩、安国殿より〜 


  


  
  西向き観音像入り口。  


  
  西向き観音堂
  西向き観音像に手を合わせ、写真は観音堂にお参りの後と・・・‥・・・‥‥
  思っていたら忘れていました。  ⇒ 西向き観音像 ( 港区の文化財 )


  
  徳川将軍家墓所へ。


   
   千躰子育地蔵菩薩
   子や孫の無事成長を願って当寺ひまわり講の方々が中心となって、
  それぞれの施主様がお建てになりした。
   幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐための
  「 赤い帽子 」「 赤い前掛け 」「 風車 」をお地蔵さまに奉納して
   います。お地蔵さまには触らないでください。と書かれています。
   

   


   


  
  芝増上寺徳川家霊廟 鋳抜門まえ。


  
  芝増上寺徳川家霊廟 鋳抜門


  
徳川将軍家墓所御門左右の龍。  左下り流。   右昇り龍。


   
   四菩薩像とその後ろ左に徳川将軍家墓所拝観券売り場。


       
       徳川将軍家墓所と東京タワー。


   徳川将軍家墓所
 増上寺は東京上野の東叡山寛永寺
(天台宗)と共に徳川将軍家菩提寺
当山に埋葬されているのは、二代秀忠公
・六代家宣公・七代家継公・九代家重公
・十二代家慶公・十四代家茂公の6人の
将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)
 皇女和宮さま(十四代家茂公夫人)ら
5人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ5人の側室、
及び、三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬さ
れています。 旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)ともよばれ、増上寺
大殿の南北( 左右 )に立ち並んでいました。 墓所・本殿・拝殿を中心と
した多くの施設からなり、その当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗
な霊廟は、いずれも戦前国宝に指定されていましたが、昭和二十年(1945)
三月十日に北廟被災、五月二十五日に南廟被災と二度にわたる空襲直撃で
ほとんどが焼失し、わずかに残った建物もその指定を解除されました。
焼失した御霊屋郡はしばらくのあいだ荒廃にまかされていましたが、昭和
三十三年(1958)から文化財保護委員会が中心となり、詳細なる学術調査
が行なわれ、のち土葬であった御遺体は桐ヶ谷にて荼毘に付され、南北に配
していた墓所は一か所にまとめられ現在地に改葬されました。 調査によれば
細部では各将軍若干の違いがあるものの、埋葬は、まず地中かなり深い部分に
頑丈な石室を設け御遺体を安置し、二枚の巨石をふたにして、その上に基檀と
宝塔は安置されていたといわれています。 墓所にある「鋳抜門」は旧国宝で、
もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったもの
です。左右の扉に5個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ
ています(青銅製)。規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても、日光東照宮
と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
                 増上寺・境内散歩、徳川将軍家墓所 より〜


   


  
  徳川歴代将軍の霊廟


       
       十四代将軍御正室 靜寛院宮 皇女和宮 霊廟 ( 青銅製 )


   
   昭徳院殿 十四代家茂公 霊廟 ( 石塔 )


   
   文昭院殿 六代家宣公 霊廟 ( 青銅製 ) 


   
   徳川秀忠公 お江の方 
   台徳院殿 二代秀忠公   崇源院殿 お江の方  霊廟 ( 石塔 )


   
   有章院殿 七代家継公 霊廟 ( 石塔 )


   
   惇信院殿 九代家重公 霊廟 ( 石塔 )


   
   慎徳院殿 十二代家慶公 霊廟 ( 石塔 )


 


      


   


      
      圓光大師堂(えんこうだいしどう)
  宗祖法然上人八百年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世
 中村康隆猊下増上寺第八十七世法主 成田有恒台下との尊い結縁が
 実を結び、平成18(2006)年11月25日、知恩院より法然上人御廟の
 御浄砂を拝領しました。 御浄砂を成田台下は「御身柄」と命名
 この法縁を承け奉安する御堂の建立を発願し「圓光大師堂」として
 平成21(2009)年9月に竣工しました。 御身柄は内陣奥の特別な厨子
 に経筒型の五輪塔に納められ奉安されています。  建築様式は木造
 平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の
 伝統建築であり、身体と心を養う念仏道場として開放しています。
                増上寺・境内散歩、圓光大師堂 より〜


      
      芝公園にある「ザ・プリンスパークタワー東京」


 
 ザ・プリンスパークタワー東京の芝生公園。 

   
      


 
 12:50  これから東京タワーへ向かいます。