桜・今治城

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  明日の天気予報は雨・・・・! 桜の花が散らないうちにと、ドコモ今治駅前店へ行った
  帰りちょっと足を延ばして今治城へ桜見物に、生憎の花曇りで写真はイマイチ。

 

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         藤堂高虎公像

                碑 文
 藤堂高虎公は 弘治二年 (一五五六  ) 近江の国にうまれた羽柴秀長 豊臣秀吉などに
に仕えて 宇和島・大洲八万石の大名となり慶長五年 ( 一六〇〇 ) には関ケ原の戦功に
よって徳川家康から今治二十万石を加増され伊予半国二十万三千石の領主となつた。
 今治城は高虎公により慶長九年 ( 一六〇四 ) に竣工を見た 三重の堀に海水を引き入
舟入りを持つ日本有数の海城である。五層の天守は層塔式で白漆喰が映え近世城郭の
モデルとされた。築城に合わせて城下に町割りを行い 地名を今張から今治に改め 現代
今治市の原型がつくられた。 築城の名人と称された高虎公は 多くの天下普請の城を
築き 慶長 十三年 ( 一六〇八 ) 伊勢・伊賀に転封された そして大阪陣の後 朝廷と幕府間
の斡旋役を務めるなど 徳川幕府体制の基礎固めに大きく貢献し 寛永七年 ( 一六三〇 ) 
七十五年の波乱の生涯を閉じた。
 築城四〇〇年にあたり この像を建て高虎公の業績を子々孫々まで伝えるものである。
   像の製作は 文化功労者芸術院会員の中村晋也先生
   題字は 文化勲章受章者 村上三島先生の揮毫による
       平成十六年九月吉日
   今治城築城・開町 四〇〇年祭実行委員会   今治市
                          ( 藤堂高虎公像台座の 碑文 より )

  

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    先ず、藤堂高虎公にご挨拶。

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     今治城 沿革
  藤堂高虎公は慶長五年 ( 一六〇〇年 ) 関ヶ原の合戦に 東軍徳川家康方の先鋒として
 戦功をたて伊予半国二十万三千石を与えられた 当時諸大名中随一の築城の権威で
 あった高虎公は内海において 海陸の要衝であった今治を城地と定め 渡邊勘兵衛を
 築城奉行に 木山六之丞を普請方として 慶長七年より同九年にかけて城壁高さ六間
 乃至八間を築き 本丸には五層の天守閣 その外には 櫓  城門等二十数棟を配し 三重
 の城濠をめぐらして  これに海水を導入して 当時としては類例のない一大平城を
 構築した また公は家康に信任され慶長十三 年伊勢の津に国替え増封されたが天守
 閣は公が家康から丹波亀山の築城を命ぜられた時 献じて亀山城に移築した  その後
 今治城は義子高吉が二万石で維持し更に寛永十二年 ( 一六三五年 ) に伊勢長島より
 久松定房が入城し後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった
  現在の天守閣は昭和五十三年十月十日 今治市制六十周年記念として再建され往時
 の偉容を再現するに至った
  今治城跡は 昭和二十八年十月九日  愛媛県教育委員会から史跡として指定を受け
 ている。                       今治市教育委員会

 

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    吹上稲荷神社

 

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   吹上神社下の鳥 ( インコ )  小屋へ。

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 この白いインコは木に体を擦り付けたり針金の先に頭の前や後を擦り付けています。痒いのでしょうか!

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  あちらこちらでお城の松を剪定していました。  

 

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   「 首倡功 」

 「今治綿業の父 矢野七三郎について] 
 矢野七三郎は安政2(1855)年越智郡宮脇村(現在の大西町大字宮脇)に父節太
母美喜の長男として生まれた幼名は通正という、少年時代地域の学識者として名高
かった山本五左衛門の薫陶 ( くんとう ) を受け温厚篤実 ( おんこうとくじつ ) にしてしかも
進取の気象にに富んだ人柄を形成した青年期に入ると父親を援 ( たす ) けて家業の
海運業や酒の醸造業に努め事業家として幅広い経済知識を身につけた。
 明治12(1879)年に四国最初のキリスト教会が今治恵比須町に創立されたが
それを機会に七三郎はキリスト教に入信し新しい西欧思想を身につけた同志社大学
創始者新島襄や文豪徳富蘆花と知り合ったのもこの頃である。
とりわけ宣教師横井時雄とは親交が深く七三郎が事業家の素養を培  ( つち )  かった
のは この横井時雄と伯父の柳瀬義冨に負う所が大きい。
青年実業家矢野七三郎が最初に瞠目 ( どうもく ) したのは西洋における産業文明の
発達であって当時衰退していた織布 ( 家庭内職による小幅白木綿 ) を近代化し尚
かつ企業化することであった。
同志数名と共に紀州を始め先進企業地を見て研究し艱難辛苦 ( かんなんしんく ) の末
これを企業化することに成功した。
明治19(1886)年七三郎は伯父柳瀬義富の援助を得て興業舎を設立し伊予ネルの
生産を開始した。
 多忙な日常業務のかたわら彼は後進の育成にも力を注いだためこの今治地方には
多数の織布工場が出現し今日の綿織物タオル染色縫製等繊維産業の基礎を築いた。
しかるに未来に向かって扉を押し開いたこの若者を天は惜しげもなく天上に召しかえし
たのである。 すなわち明治22( 1889 )年12月24日の深夜自宅で就寝中に突如
凶賊 ( きょうぞく ) に襲われ不運にも白刃 ( はくじん ) の犠牲となった。
享年 ( きょうねん ) 35歳惜しんでも余りある青年実業家の夭折( ようせつ ) であった。
    今治産業の黎明期 
    彼の偉大なる業績は永遠に不滅である。
台座にある  「 首倡功 」  の意味は  「 首 ( はじめ ) て功  ( こう )  を倡  ( とな )  う 」 と読み偉大なる創始者に贈られる尊敬の言葉である。            
                     碑文・今治綿業の父 矢野七三郎像について より

 

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