平成28年度 研修旅行 ・ 国宝 松江城 ( 2016-09-25 ) 1
国宝 松江城天守。
松江城は平山城で、天守がある本丸の周辺に二ノ丸、二ノ丸下の段、後曲輪が
めぐり、南には堀を挟んで三の丸がある。
城全体の構えは東側を正面とするが、天守自体は南向きとなっている。
天守は、彦根城・犬山城と同じように附櫓を設けた複合式望楼型で、一、二重目は
大入母屋屋根で前面下見板張り、望楼部と附櫓も一部白漆喰であるが窓廻りの
木部は全て黒塗りで、黒を基調とした天守である。
全国に現存する12天守の一つで、天守の平面規模では2番目、高さでは3番目、
古さでは5番目である ( 国宝・重要文化財建造物目録/文化庁編 ) 。
昭和10年に国宝に指定され、昭和25年には文化財保護法の制定により重要文化財と
改称されたが、平成27年7月8日、国宝に再指定された。 明治の始め、全国の城は
殆んど取り壊されたが、松江天守は地元の豪農 勝部本右衛門、旧松江藩士高城権八ら
有志の奔走によって山陰で唯一保存され、松江のシンボルとして親しまれている。
国宝 松江城 パンフレットより
7月24日、紺原部落恒例 大山祇神社参拝の後、国宝・松江城への研修旅行でした。
今回は2ヶ月後だったので どうしょうかなと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・思い切って参加。
途中、雨粒がフロントガラスを・・・・・・ ! ! 、濡らしましたが 松江に着いた頃には青空が
顔を見せてくれました。 ・・・・・・・・ああよかった大自然に感謝です・・・・・・・・・・・・
市営松江城大手前駐車時場からガイドさんの案内で、大手木戸門跡 ⇒ 大手門跡 ⇒ 三の
門跡 ⇒ 二の門跡 ⇒ 一の門 ⇒ 本丸・松江城天守閣へ、資料 ( 写真等 ) を参考に説明を
して下さいました。
2班 ( バスの運転手側の座席と入口替側の座席 ) に分かれ、其々、ガイドさんの
お話に皆さん真剣に耳を傾けています。
堀尾吉晴公の像。
歴代藩主について
堀尾氏、慶長5 ( 1600 ) 年 〜 寛永10 ( 1633 ) 年
堀尾吉晴 慶長5 ( 1600 ) 年、関ヶ原の戦いで戦功のあった
堀尾吉晴の子 ・ 正氏が 24 万石を得て、出雲国 ・
松江藩が成立した。吉晴は、織田信長,豊臣秀吉、
徳川家康の 3人の天下人に仕えた名将で、豊臣
政権下では 3中老の一人として、功績を残している。
城普請の名人であり 孫の忠晴を助け慶長12 (1607)
年に築城を開始し、5年の歳月をかけ、慶長16(1611)年に完成させた。忠晴には
嗣子ガなく、堀尾氏は3代で改易となつた。
京極氏、寛永11 ( 1634 ) 年 〜 寛永14 ( 1637 ) 年
京極忠高 堀尾氏の跡を継ぎ、京極忠高が若狭国小浜 ( 福井県 )
から 26万石で出雲に入国した。3年余りの統治期間で
あったが、当時度重なる洪水で氾濫を起こす斐伊川を
大土手により改修した。現在でも京極若狭の守忠孝に
ちなんだ 「 若狭土手 」 という名をのこしている。
幕府直轄領でであった石見銀山 ( 世界文化遺産 )の
監督権を与えられるなど、歴代藩主の中で最大の領地を治めた。徳川2代将軍 秀忠と
正室 江 ( ごう ) の4女・初姫が忠高の正室である。 忠高に嗣子ガなく、一時廃絶に
なるが、のちに他国で再興される。
松平氏、寛永15 ( 1638 ) 年 〜 明治4 ( 1871 ) 年
松平直政 京極家の跡を継ぎ松平直政が信濃の国松本 ( 長野県 )
から18万6千石で出雲に入国した。慶長19 ( 1614 ) 年、
14歳で大阪冬の陣に参戦し初陣ながらも、力戦奮闘した。
敵将 真田幸村は、その武勇を讃え自らの軍扇を投げ与えた。
将軍家康の2男・結城秀康の第3子で家康の孫にあたる。
以後松平氏 ( 親藩・御家門 ) は、明治維新まで10代続く。
松平治郷 ( 不昧 )
7代藩主松平治郷 ( 不昧公 ) は、藩政改革に乗り出し、
逼迫した財政を立て直すとともに、文化の振興にも努め、
若いころから茶禅の道を学んで独自の流儀を確立、茶道等を
庶民に広め、茶の湯文化が深く根付いている。
その後
明治 4 ( 1871 ) 年 廃藩置県となり、廃城となる。
明治 6 ( 1873 ) 年 廃城令が公布され、旧藩士たちの奔走により、天守閣だけは
取り壊しを免れ、他の建物は全て撤去された。
昭和 9 ( 1938 ) 年 保存された天守が国の史跡に指定される。
平成 18 ( 2006 ) 年 日本100名城 ( 64番 ) に選定される。
平成 27 ( 2015 ) 年 松江市長らが国宝指定に向けての調査運動を活発化し、
平成24年に松江神社で国宝指定に重要な、築城時期を
特定できる祈祷札が見つかり、文部科学大臣に答申し、
天守が国宝に指定される。国内の城跡で天守が国宝に
指定されたのは63年振りで5件目である。
三の丸 ( 現 島根県庁 ) と 二の丸 ( 南口門 ) を繋ぐ千鳥橋 ( お廊下橋 )
かって 二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・お月見櫓があった。
このうち時刻を知らせる太鼓櫓と御具足蔵と呼ばれた中櫓、東西南北を監視する
ための2階建ての南櫓の3基の櫓は 明治8年に取り壊されたが、平成13年に
約125年ぶりに復元された。
江戸時代の絵図 文献資料によると、長さ8間 ( 14.5m )
巾3間半 ( 6.4m ) のしゃちほこを付けた大きな門で、
防御の要となる門でした。発掘調査によると地下50mの
面に70〜80cm 角の加工した礎石と、雨落溝が発見され、
資料とよくがっちしていることもわかりました。
また、黒瓦質のしゃちほこの破片も出土しました。
ヒトツバタゴ ( なんじゃもんじゃ )
あった、あった、前回見つけることが出来なかった石垣のハートです。
分銅紋 ( 堀尾家の家紋 ) ⇒ 上図 拡大 。
石垣。
石垣は「 牛蒡積み 」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。
石垣積みは地面が弱く、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要し、
5年間のうち3年間を要した。 この石垣も石垣の築城に優れた技能を持った
「 穴太衆 」が招かれ構築した。
石垣の間から天守閣が見えます。
興雲閣・・・・・松江城二ノ丸に建つ明治建築の洋館。
興雲閣の貴顕室 興雲閣は、松江市が松江市工芸品陳列所として建てた建物です。
明治35年(1902)12月に着工し、翌36年(1903)9月に完成しました。 当初、明治天皇の
行在所に使用する目的でつくられたため、装飾 ・ 彫刻を多く用いた華麗な 仕上げと
なっています。 結果的には明治天皇巡幸は実現しませんでしたが、 明治40年(1907)、
皇太子嘉仁親王( のちの大正天皇 )の山陰道行啓にあたって、同年5月22日から
25日まで御旅館となり、迎賓館としての役割を果たしました。
その後、明治45(1912)年に正面の階段を奥に移動するなどの改修が行われ、松江市
の公的な歓迎所として、また、各種の展覧会場・会合に使用されました。
昭和48年( 1973 )からは「松江郷土館」として活用してきましたが、平成23 ( 2011 ) 年
3月に閉館し、階段室を移設して現在の形態となった明治45年に復原( ふくげん )すると
ともに、建物そのものの持つ歴史と魅力を生かした新たな活用のため、平成25年度から
平成27年度にかけて保存修理工事を行う。
松江神社。
松江城の天守は、慶長16(1611) 年完成と言われていたものの、それを証明するはずの
「祈祷札(きとうふだ)」は、昭和12年7月以降、行方が長らく不明になっていました。
その祈祷札が、市職員により 平成24年5月、松江城二之丸にある松江神社で偶然発見。
2枚の祈祷札には「慶長拾六年正月吉祥日」などの文字があり、天守の建築年代が明らかに
なったことが、国宝指定の決め手のひとつとなりました。
祈祷札は、建物が完成した際の祈祷の儀式に使われたもの。今回の国宝指定では天守の
他に、発見された2枚の祈祷札や築城時に地祭りのため礎石の下に埋められていた「玉石」
など9点も、貴重な資料としてあわせて国宝に指定されました。
狛犬。風化して形がわからなくなっています。
手水舎。
手水舎の説明・・・この屋舎は元西尾村(市内西尾町)照高山に鎮座せる東照宮の
手水舎にして寛永十六年( 1639 )藩祖松平直政公の命によって建設されたもので
大工棟染渡辺加兵ヱ尉,藤原好チカ、マサの作と云う、明治三十ニ年十月現在ある
本殿拝殿と共に、この地に移築したものであります。
昭和十年京都御所離宮御写真及び実測図、謹製所勤務古建築庭園研究家川上邦基氏
外一名松江城並に公園視察の時当神社に参拝せられその時この屋舎を注目これは頗る
名作で相当古い稀れな築造で大切に保存を要する貴重な建物であると参考資料として
写シン並みに実測図を持ち帰られたほどの屋舎であります。
当時の案内人 松平家々 原 熊太郎
松江市建築技師 金関喜三郎
オガタマノキ(招霊の木 )
常緑高木、関東地方以西の太平洋側〜沖縄。暖地の沿岸林に多い。神社によく
植えられる。高さ15mほどになる。樹皮は暗褐色。枝は暗緑色。褐色の伏毛が
あるか無毛。托葉痕が枝を一周する。葉は互生し、葉身は長さ5〜12cm、幅2〜4cmの
長楕円形で、全縁。表面は深緑色で光沢があり、裏面は白色を帯びる。
葉柄は長さ2〜3cmで有毛。直径約3cmの香りの強い白色の花が葉腋に1個ずつつく。
花被片は普通12個あり、全て花弁状。花被片は基部が紅色を帯びる。果実は袋果が
集まった集合果。長さ5〜10cmのブドウの房状で、9〜10月に熟す。1個の袋果に種子が
2〜3個入っている。花期は2〜4月。
(樹に咲く花) 学名は、Magnolia compressa モクレン科モクレン属
建築年代は 慶長16 ( 1611 ) 年。 天守は、附櫓を加えた複合天守で、外観5層
内部は6階である。壁の大部分は、黒く塗った雨覆板( 下見板張り )でおおわれ、
実戦本位で安定感のある武骨な体裁に、桃山風の壮重雄大な手法をみることが
できます。
附櫓 ( つけやぐら )
天守入口の防備をかたくするために とり付けた櫓で、入口に鉄延板張りの
大戸があり、入ると枡形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっている。
天守台の牛蒡積み石垣と下見板張り。
牛蒡(ごぼう)積み・・・・石の大きな部分を内に、小さな面を表に出して、一見粗雑に
みえるが、石組にしてはもっとも頑丈な積み方。
下見板張り ( したみいたばり )・・・・・・姫路城や彦根城のような塗籠造り( 白壁 )は少なく、
その大部分が、黒く厚い雨覆板でおおわれている。
鯱 鉾 ( しゃちほこ )
木製の銅板張りで、向かって左が 雄で 鱗が荒々しく、右が雌である。高さは2.08mあり
現存天守の中で木造のものでは最大である。城を火災から守る魔除けの意味を持つ。
( 現在のものは、昭和三十年天守修理完成と共に新しいものと取り換えたそうです )
望楼式 ( ぼうろうしき )
天守閣の起源の一つは四方を展望できる望楼である。五層の最上階 「 天狗の間 」は
手すりを巡らし、壁のない 360度展望のきく望楼で、展望台・司令塔の役目を持つている。
入母屋破風 ( 千鳥破風 )
外観は重箱造りの二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので、3重目の南北面に
入母屋屋根の出窓をつけている。 千鳥が羽根をひろげたような三角形の屋根をいい、
天守の美観を構成する重要な部分。
枡形の小広間を上がると下駄箱が設置されていますが、混雑ををしているので
もう一段上がり、天守閣受付の奥の履き物置き場へ。
桐の階段。
板の厚さ約 10 cm、階段の幅 1.6 m で1階から4階の各階の間に設けてある。
階段を引き上げたり、放火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない
特殊なものである。
包板 ( つつみいた )。
天守を支える柱には、一面だけ、或いは二面、三面、四面に板を張り、鎹 ( かすがい )や
鉄輪 ( かなわ ) で留められているものがある。これは「 包板 」と呼ばれ、天守にある
総数308本の柱のうち 130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるための
ものとも、通常の柱よりも力学的に優れている。「 寄木柱 」とも呼ばれている。
ガイドさん 松平直政公 初陣之像 の前で、まだ14歳 初々しいでしょうと。
「 松平直政公初陣之像 」
「 軍 扇 」
慶長19 ( 1614 ) 年、14歳で大阪冬の陣に参戦し初陣ながらも、力戦奮闘した。
敵将 真田幸村は、その武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えたという。
大勢の観光客 ( 自分もその内の一人ですが ) で写真を撮るのは難しい・・・・・
人の流れに合わせて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
石落とし。
石落としは石垣に接近したり、よじ登ってくる敵兵に石を落としたり熱湯を浴びせ
たりして撃退するもの。一層と二層の屋根の間を利用して作られている。外部からは
発見しにくい。四すみと、東・西・北壁にある。
華頭窓 ( かとうまど ) 。 三層の中央にある寺院様式の窓で、一種の飾りです。
箱便所。
持ち運びできるお殿様専用のトイレがあったそうです。実際に使われませんでしたが、
ここは、お殿様の自害の場所とされていました。
五階
松江城の特色の一つは、内部から四方を展望できる望楼式で、現存する天守の中
でも数少ないものです。 ( 天守最上階の外側に回縁 ( めぐりえん ) を設けたものが多い )
最上階は 「 天狗の間 」 と呼ばれ、戦いの時は城主が全軍の指揮をとるところです。
東西 9.64 m、南北 7.72 m、面積 74.4 ? あり、中央の間は 24 畳あります。
内縁界 ( うちえんかい ) 鴨居敷居が入れてあり長押 ( なげし ) などが打ってあった痕跡が
なく、創建当初から、きわめて簡素な造りであったことがうかがえます。
松江城天守より望む宍道湖。
宍道湖(しんじこ)は島根県北東部に位置し、東西約17km、南北約6km、
周囲長47kmの横に長い長方形で、面積は日本国内で7番目の大きさです。
天守から眺めた北堀橋。
国宝指定書 ( レプリカ ) ⇒ 国宝指定書 拡大
地階(穴蔵の間)へ。
地階の塩蔵。慶長初期の築造法で長期戦や、ろう城の場合も考え、ここに米や塩など
食料物資を貯蔵した。
祈祷札・・・・・模擬札を使って打ち付け位置を再現しています。
井戸。
丸い桶のようなものは、深さ24mの自然石積みの円形井戸で、飲料水が得られた。
鯱
天守第5層大棟の東西にとりつけてあったもので、松厚板箱さし造り、
銅板張り、高さ六尺八寸五分 ( 2.08 メートル ) である。
現在のものは昭和三十年天守修理完成と共に新しいものと取り換えた。
約40分間、慌ただしい天守閣見学でした ( もっとゆっくり落ち着いて写真も撮りた
かったのですが団体旅行では無理かな時間の余裕が無く、これが限界 !! )
12時33分、市営松江城大手前駐車場到着。
12時45分、大変お世話になりました、ガイドさんに送られて、城山西駐車場へ、
食事の後、ふれあい広場駐車場より 堀川巡りを楽しみます。