旧野間郡 新四国八十八ヶ所めぐり ( ウォークラリー )
今回は「 大西地域活性化推進議会連合体 」のご支援により、全地域の主だった
お寺 ( 13ヶ寺 ) を巡りました。
野間郡新四国八十八ヶ所 巡礼札所
● 菊間地区 ( 3ヶ寺
1番・円城寺 ~ 13番・掌禅寺 ~ 17番・遍照院
● 大西地区 ( 4ヶ寺 )
22番・国恩寺 ~ 81番・明専寺 ~ 69番・法隆寺 ~ 68番・真光寺
● 波方・波止浜地区 ( 3ヶ寺 )
35番・長泉寺 ~ 37番・円蔵寺 ~ 39番・瑞光寺
● 阿方・延喜・乃万地区 ( 3ヶ寺 )
54番・延命寺 ~ 52番・乘禅寺 ~ 64番・野間寺 ( 以上13ヶ寺 )
8: 15 大西支所駐車場集合。
8: 30 最初の巡礼地 菊間地区 ( 3ヶ寺 ) の内 1番 円成寺に向かって出発。
冊子「 旧野間郡 新四国八十八ヶ所めぐり 」の付録「 旧野間郡 新四国八十八ヶ所
MAP 」を見ながら村上会長より本日巡礼13ヶ寺の地域と場所の説明等を聞く。
第一番札所 円 成 寺 ( 元圓城寺 )
第一番札所 円成寺
山号 高仙山 円成寺
宗派 曹洞宗
本尊 阿弥陀如来
本寺 龍穏寺 ( 松山市山越 )
住所 〒799-2302
今治市菊間町種甲2555
第一番札所高仙山円成寺は、菊間の高仙山のふもとにある曹洞宗の寺。今治市
の野間馬ハイランドから菊間の松尾にぬける広域農道ぞいにあり、山門も大きく
【 野間郡新四国八十八ヶ所第一番札所圓成寺 】とあるのですぐわかる。
伊予の豪族河野氏一族の居城であった高仙山城と深いかかわりがあり度重なる戦
乱、幾多もの変遷を経て、嘉永二年 ( 1849 ) 高仙山円成寺と改め現在に至る。
ご本尊は阿弥陀如来で黄金に輝く美しいお姿をいつまでも拝することが出来る。
境内には休憩所があり住職所蔵の本を自由に閲覧出来る。
8 : 38 で愛ふれ愛ロード ( 高域農道 ) 沿いにある 第一番札所 円成寺駐車場到着。
山門には、山号「 高仙山 」の扁額が架かっています。
本堂。
本日も内藤ご住職にお世話になります。
本尊 阿弥陀如来像
( この御本尊の写真は 2012年1月29日参拝の日に撮影しました )
内藤住職に合わせ、みんなで般若心経を唱えます。
境内の沿革。
円成寺は山号を高仙山と称して、高仙山とは最も深い慣例にある。
一三七九年 ( 六一七年前 ) 伊予の名門、河野一族の池原近江守通去の
居城として、高仙城を築城する。 同時に高仙山麓に、本堂 伽藍等
七坊を持つ霊巖山石城寺を建立したが、土佐の長曽我部一族の責めにあい
山麓の寺社ともども兵火にかかり炎上してしまった。
応永五年 ( 一三九八年 ) 本堂を再建したが、これも兵乱のため焼失して
しまった。その後、文明十一年 ( 一四八〇年 ) 高仙城主河野兵衛少輔通生
の手によって再建され、約百年に亘り、高仙城とともに石城寺も全盛期で、
平和な時代であったが、これも又、天正十三年七月二十四日( 一六八六年 )
豊臣秀吉の四国平定の命を受けた小早川隆景の軍勢に攻め破られ、当寺も
その難を受けて、伽藍はすべて焼失してしまった。
この戦いは特に激しく、大門付近まで打って出て死者二千を数へたと云わ
れている。この時、高仙城主の守り本尊であった石城寺の十一面観音像を、
村人が背に負い円福寺に預けたと云われるのである。この戦によって高仙城
は堕ち、河野氏も滅んでしまったのであるが、石城寺も又細々とした庵寺と
変わり、高仙城一族の霊を弔いながら、名も高仙山寺とか、種小山寺として
僅かに焼香を漂わせていた。
その後約二百六十年を経て嘉永二年 ( 一八四九年 ) 高仙山 円成寺と改める。
当山は本尊に阿弥陀如来をお迎えし檀信徒の篤い信仰に支えられ、また歴代
住職の辛苦によって、今日まで種部落の祈祷寺ならびに先祖供養の寺として
寺門が守られて来た。 ( 境内の石碑沿革より )
境内の休憩所では住職所蔵の本を自由に閲覧できます。
8: 53 第一番札所 円成寺駐車場出発。
第十三番札所 掌 禅 寺
第十三番札所 掌 禅 寺
山号 金龍山 ( 金比羅山 ) 掌禅寺
宗派 曹洞宗
本尊 延命地蔵菩薩
本山 龍穏寺 ( 松山市山越 )
住所 〒799-2304
今治市菊間町池原1100
菊間町掌禅寺と言えば、金龍桜が有名で高さ16m、幹回り3.88m、樹齢300年
の巨木、品種はウドヒガンでソメイヨシノよりも少し早く咲き、多くの花見客が
訪れる。 金龍桜という名前は、掌禅寺の山号金龍山に由来している掌禅寺は
曹洞宗のお寺で、開基は河野道光と伝えられており、位牌に天正十五年 ( 1597 )
7月10日とある。
山門の仁王像は、古いものだがユーモラスで愛らしい。現在は第一番円成寺住職
が兼務しいてる。
9: 00 第十三番札所 掌 禅 寺 駐車場到着。
掌禅寺山門 ( 仁王門・鐘楼堂が合体 )
仁王像 ( 左側の仁王様の腕に掛けた藁草履が少なくなっていました! )
仁 王 門 由 来 大工棟梁 当村 嘉藤次
仝 肝煎 浜村 柳 吉 木 挽 当村 岩 藏
此の仁王門は、慶応三年 ( 1867 ) 十月に建立されたのですが、これについて、
棟札には漢文で次のようないきさつが述べられています。
慶応三年春、太田城官という人が長野文右衛門という人を訪れ、次のように
語らいました。「 金龍山金毘羅宮ハ一郡一社ノ鎮守野間郡全体ノ尊ブトコロデ、
文化十年 ( 1813 ) 二鋳造サレタ 梵鐘モ広ク郡全体ノ 勧進ニヨッテデキタ。
然ルニ、ソノ梵鐘ハ去ル安政二年 ( 1855 ) ノ 勅命デ 領主ノモトヘ強制的ニ献納
サセラレ、爾来、永イ歳月、金毘羅宝前カラ鐘ノ音ガ絶エ、郡民ヒトシク残念ニ
思ッテイル。ソレデ、再ビ新シイ梵鐘ヲ造ルヨウ、人々ニ呼ビカケヨウデハアリ
マセンカ。」 熟談の末、二人は「 米五十五十俵 」の予算をたて、村や郡の
有志に相談したところ皆々感奮して協力してくれることになりました。それどこ
ろか「 五十俵 」の見積もりは郡全体で「 百七十俵 」という予想以上の寄進とな
り、梵鐘 ( 指渡 ニ尺五寸、重サ八十五貫 ) の再鋳を見た次第であります。
さて、梵鐘再鋳後、なお、かなりのゆとりがあるので その資金で「 仁王門 」を
建立したところ、今度は幾らかの赤字となったのですが、それは世話役の人々で
補いました。
これらの事を棟札に記したのは、当時六十五歳の十一代目雄▢さまで、
文の締めくくりは次の通りです。
十方喜捨之▢▢及見聞の輩隋喜讃嘆銘肝百歳後
願主若慮以不易爲令告知後人記之者也矣
注 1、右の分にでている鐘は太平洋戦争の時に徴発され、現在の鐘は戦後
昭和二十六年に再鋳したものです。
2、お仁王様は、明治十年 ( 1877 ) 今治別名の嘯月院の生月省菴和尚に
依って彫られたものです。
昭和六十年 ( 御開山、御開基 ) 遠忌報恩法会の日 十八卋 誌
鐘を撞いて入ります。
仁王門を入り、六地蔵さん・お墓の建っている参道を進みます。
中門
本堂
本尊 延命地蔵大菩薩
内藤住職に合わせ、般若心経を唱えます。
【 金龍桜 】
品種名・・・エドヒガン ( 江戸彼岸 ) 幹 周・・・388cm ( 地上 1.2 m )
根 周・・・317 cm ( 地上 20 cm ) 樹 高・・・16 m 樹 齢・・・約300年
この桜は、古くから日本に自生している江戸彼岸で、他の桜に先がけ、彼岸の
頃に咲くことからこの名が付きました。
花は淡紅色の一種で、葉が出る前に枝に魂となって咲き、樹冠全体が美しい
花に包まれます。
金龍桜の名称は、掌禅寺の山号の金龍山に由来しています。桜としては県内
でも有数の老桜であり、また巨桜です。 今治地方観光協会菊間支部
内藤住職のお話によると説明版に「 金龍桜 」は樹齢300年となっていますが
樹齢400年は経っているそうです。
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昨年、2021年3月23日撮影の「 金龍桜 」です。
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内藤住職は午後から御用があるので自動車で巡拝されます。
9: 35 掌 禅 寺 駐車場出発。
第十七番札所 遍 照 院
第十七番札所 遍照院
山号 法佛山 遍照院 日輪寺
宗派 真言宗豊山派
本山 長谷寺 ( 奈良県 )
本尊 聖観世音菩薩
【 開基本尊】厄除弘法大師
住所 〒799-2303 今治市菊間町浜89
全国から多くの人が厄除けのご祈祷に訪れる厄除け大師の寺。
1月は毎週土・日曜日に、2月は毎週日曜日に厄除け護摩祈祷が行われる。
2月3日は節分会厄除け大祭で、地元の厄年の人により、豆まき、餅まきが
行われ、鬼瓦の神輿が奉納される。豆まきでは「 福は内・鬼も内 」と唱え
られる。
法佛山縁起によると弘仁6年 ( 815 ) 弘法大師が四国巡錫 ( じゅんしゃく ) をした
折、聖観世音菩薩を刻して本尊として安置、また自らの42歳の厄除けと人々の
厄除けの秘法を残されたと伝えられている。
9: 28 第十七番札所 遍照院 鐘楼門前到着。
二階建ての鐘楼門
コロナビールス感染予防の為使用中止になっています。
鐘楼門から一直線に延びる石畳を本堂へ・・・・・・・・・・・・・・・。
本堂前で般若心経をお唱えします・・・・・・・・・・・・・・・。
観世音菩薩
仁王門は国道に面した北側にありますが「仁王像」ではなく「鬼瓦」です。
何時頃だったか売店のおばちゃんが、左側の口をつむっているのが「 男鬼 」、
右側の口を開けているのが「 女鬼 」だと教えてくれました。
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節分の伝統行事
2月3日の節分には恒例の護摩祈祷の大法要が修され終日善男善女で賑わう。
仁王門は空になり「 男鬼 」と「 女鬼 」を頭合わせに合体し神輿に変身。
地元の厄年の人により豆まき、餅まきが行われ、鬼瓦の神輿が奉納される。
撮影 2011年2月3日
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9: 50 遍照院横駐車場出発。 菊間地区 ( 3ヶ寺 ) の参拝を終え大西地区へ。
第二十二番札所 国 恩 寺
第二十二番札所 国 恩 寺
山号 青水山 大専院 国恩寺
宗派 真言宗 豊山派
本山 長谷寺 ( 奈良県 )
本尊 十一面観世音菩薩
住所 〒799-2209
今治市大西町別府411
大西町別府、196号線から のこぎり屋根の安野農機工場を過ぎ、すこし山手に入っ
た池のたもとに国恩寺はある。
寛文12年 ( 1972 ) 俊忍法印によって開山されたと伝えられている。 昔、別府には
国造 ( くにのみやつこ ) の別館があり、徳政がしかれていた。この地にあった青蓮寺を
再建した際に国造の徳により、新しい寺を国恩寺と改称したと言われている。
境内には別府の沖にある怪島 ( けしま ) の城主だった神野佐馬充 ( こうのさまのじょう )の
墓がある。 昭和4年に延命寺の本堂を移築した。
第83番薬師堂は ここ国恩寺に合祀されている。
10 : 00 別府農村公園駐車場到着。
池沿いを上り国恩寺へ。
本堂奥 ( 左側 ) の 五輪塔と石仏。
昭和4年に四国霊場第54番札所 延命寺の本堂を、ここ国恩寺に移築したそうです。
本堂前で般若心経をお唱えします・・・・・・・・・・・・・・・。
本堂の左側、池の上には、別府の沖にある怪島 ( けしま ) の城主だった神野佐馬充
( こうのさまのじょう )の墓があります。
神野佐馬充 ( こうのさまのじょう ) 碑
怪島 ( けしま ) 城主神野 ( こうの ) 左馬之丞ノ碑
河野対馬守通之 数代ノ分流孫 怪島城主左馬之丞ハ、別府村 越智家ノ始祖ニシテ
豊臣秀吉ノ大軍ニ破レ、天正十三年七月十三日落城 其後、別府村ニ潜匿セシガ、
遂ニ起ズシテ死す。
元城主タリシ因ヲ以テ其子孫、一族郎党ヲ統ベ、江戸ノ初期ヨリ、明治ノ初期迠、
十代二百有余年、遠祖ノ越智姓ヲ名乗リ、庄屋タリ始祖以来、十四代約四百年、
別府村ノ開拓ノ先駆者タル佐馬之丞ヲ偲ビ、玆二碑ヲ建ツ
始祖 初代神野佐馬之丞十四孫 勲六等 越智友太郎
10 : 23 国恩寺下別府農村公園駐車場出発。
第八十一番札所 明 専 寺
第八十一番札所 明 専 寺
山号 湯谷山 柳山院 明専寺
宗派 浄土真宗本願寺派
本山 西本願寺 ( 京都府 )
本尊 阿弥陀如来
住所 〒799-2206
今治市大西町脇甲1277
堂々とした本堂がある浄土真宗本願寺派の寺院。野間郡八十八ヶ所の中で浄土真宗は
ここ1箇所だけ。
開山は明暦3年 ( 1657 ) 釈善上人 ( 浅野善正 ) が九王村で開いたのが最初と言われる。
浅野善正は芸州浅野藩の人で瀬戸の法泉寺で得度し、京都に上り宗義を極めた。その
後、九王村で新田開拓をした桧垣五右衛門とともに明専寺を建立した。
元禄10年 ( 1697 ) に現在の地に移った。ご本尊は阿弥陀如来の立像で大変美しく尊厳の
あるお顔をされている。脇には親鸞と蓮如の画が祀られている。
10 : 28 第八十一番札所 明専寺駐車場 到着。
浄土真宗本願寺派 湯谷山 柳山院 明専寺 の石表 の建つ参道を入る。
親鸞聖人御像
山門は二階建ての鐘楼門
鐘楼門裏側
鐘楼門を入り境内へ。
本堂
中央 御本尊 阿弥陀如来立像
お脇掛 左 蓮如上人 お脇掛 右 親鸞聖人
10 : 43 明専寺駐車場出発。
第六十九番札所 法 隆 寺
第六十九番札所 法 隆 寺
山号 生命山 寿福院 法隆寺
宗派 真言宗 豊山派
本山 長谷寺 ( 奈良県 )
本尊 延命地蔵菩薩
住所 〒799-2205
今治市大西町宮脇甲1419
大西町宮脇 大井八幡大神社の入口にあるお寺。弘仁6年 ( 815 ) 弘法大師が四国を
巡った際、地蔵菩薩を彫刻して安置したのが始まりとされる。 貞観元年 ( 859 )
大徳行教上人が堂塔伽藍を一新し開山した。
延元元年 ( 1336 ) 南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子である尊真 ( たかざね ) 、満良
( みつなが )、懐良 ( かねなが ) の三親王が大井に出陣した際に尊真親王がこの地で薨去
された。これを埋葬し供養した。大西町の藤山公園内にその陵墓がある。
10 : 48 国道196号線沿い第六十九番札所 法隆寺前空地 到着。
境内へ。
内藤住職に合わせて般若心経を唱えます。
ここ法隆寺の境内では毎年8月19日恒例の盂蘭盆会大施餓鬼会が執り行われ新盆を
迎える仏様、ご先祖様を供養する美しい読経が境内いっぱいに響いていましたが、
2020年、2021年、2022年と、コロナビールス感染防止のため施餓鬼法要は自粛縮小
部落総代10名と御住職のみで執行されたそうです。
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盂蘭盆会大施餓鬼会
法要が終わると本堂の梁に貼ってある法事 ( 戒名 ) の付箋を剥がし
ご先祖様にお供えのお菓子をいただいて帰ります。
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ご住職にどうぞ入って見てくださいと言っていただいたので・・・・・・・・・・・・・・・
本堂を拝見せていただきました。
大井八幡大神社と隣接しています。
11 : 06 法隆寺前空地出発。
第六十八番札所 真 光 寺
第六十八番札所 真 光 寺
山号 清井山 浄雲院 真光寺
宗派 浄土宗鎮西派
本尊 阿弥陀如来
本山 知恩院 ( 京都府 )
住所 〒799-2203
今治市大西町新町甲320
真光寺は大西町新町にある浄土宗の寺。 慶長年間 ( 1596~1614 ) に新町の大庄屋
井手清右衛門が建立し、真誉秀道和尚を請うて開創したと伝わる。
山号の清井山は、井手家の「 井 」と清右衛門の二字をとったもの。お寺のすぐ前
に井手家の屋敷跡があり、今も建物が残されている。ご本尊は阿弥陀如来で、脇
は観世音菩薩、勢至菩薩。隣接地には、来島城主村上康吉 ( 1500年代 ) の家臣でそ
の武勇が知られている田坂槍之助の墓がある。
11 : 10 第六十八番札所 真光寺 駐車場 到着。
真光寺山門
清井山淨雲院 真光寺
野間郡四国八十八ヶ所 第六十八番札所
宗派 浄土宗鎮西派。 本山 知恩院。
本尊 阿弥陀如来。
脇士 観音菩薩 勢至菩薩
善導大師 宗祖圓光明照和順大師
この寺は慶長年間 ( 1596〜1615 ) に新町の大庄屋井手清右衛門が
建立し真誉秀道和尚を請じて開創したと伝えられている。
山号の清井山は井手の「井」と清右衛門の「清」の二字をとったものである。
本堂の前で般若心経をお唱えします。
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本堂 ( 2021年3月11日撮影 )
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井手家の墓
田坂槍之助の墓
田坂槍之助貞緑は来島城主村上康吉(1500年代)の家臣で、 豪邁で武芸に秀で
槍の妙技を持ち、城主から槍之助と命名される程であった。
或る時、十数人の武士を乗せた船が来島瀬戸を無断で通りぬけようとした。 槍之助は
すばやくその船を追い、帆別銭を請求した。 然し、船は冷笑して通り過ぎようとした。
槍之助は 「 汝等 天下の法を知らないか、そのままでは航行は許せない 」 というと
「 この広き海を通るのに帆別など片腹痛い。 帆別銭が欲しいのならどこまでもついて
来い 」とあざ笑った。 槍之助は槍をしごいて彼の船に突込み、忽ち二人を突きふせ、
船上での戦に馴れない武士は次から次に突き倒された。 これはいけないと考えた
武士は陸に上がって勝負をしようと言った。槍之助も之に応じ、桜井の浜で七、八人を 相手に戦ったが、遂に討ち取られた。
桜井村の人々は槍之助の武勇を称え懇ろに葬った。
ここ真光寺にある墓は桜井の分墓である。 大西町教育委員会
真光寺駐車場と井手家庄屋跡は県道15号 ( 大西波止浜港線 ) 沿いにあります。
井手家庄屋跡
天水瓶のある旧大庄屋井手家
江戸の初期、徳川方に味方した大庄屋井手家は、その功績により 「 何でも望み
をかなえてやる 」 とのお達しで、わらぶきの屋根を瓦にかえ、防火用として屋根に
天水瓶を置く事を許された。
その後、松山藩主の参勤交代の時には、本陣 ( 定宿 ) となつていた。
昭和9年 ( 1934 ) に大井村が譲り受け、同18年内部や窓などを大改造し、役場と
して使用され、同50 ( 1975 ) 年まで続いた。その後農協や漁協にも利用されたこと
もある。 大西町史談会
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古 寺 地 蔵
古寺地蔵 ( 古寺には、もともと真光寺があった )
古寺地蔵尊由来沿革
ここ古寺には、もともと真光寺があった。同寺が移転したため、松山藩はこの跡地を
処刑場とした。以来、ここは多くの罪人が処刑されてきた地である。 貞享年間、高い
年貢に加え打ち続く凶作のため、百姓の生活は悲惨を極めていた。延喜村の庄屋、八木忠左衛門は彼らの生活を座視することが出来ず、藩主に年貢の軽減の直訴に及んだ。 忠左衛門はその罪を問われ貞享3年 ( 1686 ) せがれ小太郎と共に、ここ古寺の処刑場で斬首、さらし首に処せられた。 延喜村を中心とする野間郡の百姓たちは、命を賭して直訴した忠左衛門を義民と称え、ひそかに地蔵尊を建てて、その菩提を弔った。その後、この地蔵尊は、火難、悪病、厄除け地蔵として人々の信仰を集めてきた。
下って明治3年 ( 1869 ) 野間郡大庄屋、井手氏により処刑された人々の霊を慰めるため 「 大乗妙典 一石一字 」 の供養塔が建てられた。
さらに大正13年 ( 1924 ) 、同年5月18日には、下町を中心とする有志の方々によって
近郷近在で御詠歌を唱えて浄財を募ったり部落の方々の寄付により隣接地を購入して
境内を拡張し、新しく御堂が建立された。爾来、新町部落は、この古寺地蔵堂の維持管理を下町部落に委託し、毎月23日を、御命日として御霊供膳を備えて祭り、殊に新暦8月23日を、御縁日として下町総出で ダシ ( 藁人形 ) を作り、表通りに飾って賑やかに供養してきた。 参詣の人々は 「 大井古寺 火難 悪病 厄除お守り 」 を授かり、盆踊りも盛んで夜店も出るなど大変賑った。
その後、六十余年の歳月を経た御堂も老朽化が進み部落内外の人々から寄付を仰いで
昭和60年3月17日、古寺地蔵堂の新築再建を見るに至った。
ここに古寺地蔵尊の功徳に感謝し、先人の業績を偲ぶと共に、この尊い遺産を後世に
伝え残したい。 昭和六十年 ( 1958 ) 新町部落
古寺地蔵と義人八木忠左衛門
ここにはもともと真光寺があた。古寺の地名はそれに由来しているるその寺が現在の場所に移転したあと、松山藩がここに処刑場を置き、以来 数珀年にわたり、多くの罪人が処刑された。
貞享の頃 ( 1680 年代 ) 、延喜村の庄屋であった八木忠左衛門が、打ち続いた凶作と 高い年貢で悲惨を極めた百姓を救うため、自分の財産を売って援助をしたり、代官に願い出て助けを求めたが なかなか聞いてくれず、しかたなく 年貢の低減を藩主に直訴した。当時直訴は禁止されており、その罪を問われることになった。忠左衛門は自分の願いがかなえられるように、讃岐の金毘羅さんに祈願に行っていたが 捕えられ、貞享3年 ( 1686 ) 6月29日 息子の小太郎と共に、この処刑場で斬首、さらし首の刑に処せられた。
延喜村を中心とした野間郡の百姓たちは、その処刑に憤激するとともに、彼を義民とたたえ、ここに地蔵を建立し 菩提を弔った。
このお地蔵さんに祈願すると願い事がかなえられるという伝説があり、近郷近在の人々から霊験あらたかな地蔵さんとして、信仰を集めている。昨年8月23日の縁日には、盆踊りが盛んに行われ、夜店も出て 参拝客で賑わっている。
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11 : 37 大西地区 ( 4ヶ寺 ) の参拝を終え波方・波止波止浜地区へ。
第三十五番札所 長 泉 寺
第三十五番札所 長 泉 寺
山 号 龍光山 三面宝珠院 長泉寺
宗 派 真言宗 豊山派
本 山 長谷寺 ( 奈良県 )
本 尊 如意輪観世音菩薩
住 所 〒799-2101
今治市波方町波方1625-12
長泉寺は波方町波方の真言宗豊山派の寺で立派な本堂、山門、鐘楼、大師堂を持つ。
また境内には鎌倉期の五重の石塔 ( 市指定文化財 ) がある。
由来は崇徳天の時代、天保6年 ( 1140 ) 伊予の国の人で紀州根来寺の僧、瑞長法印が
帰国した際、この地にあった行基作の如意輪観世音菩薩を本尊とした寺院を造った
のが始まりとされている。 康治元年 ( 1142 ) に龍光山 宝珠院 長福寺として創建さ
れた。その後火災に遭い、延亨2年 ( 1745 ) 現在の場所に再建され長泉寺と改めら
れた。天正20年 ( 1592 ) 朝鮮出兵の際九州に下る豊臣秀吉の船団が波方沖に停泊し
長泉寺に泊ったと言われている。
11 : 53 第三十五番札所 長 泉 寺 前到着。
境内。
檀家さんでしょうか、境内のあちらこちらで落ち葉清掃が行われていました。
参道沿いには立派な供養塔が建っています。
本堂
本堂前で般若心経をお唱えします・・・・・・・・・・・・・・・。
長泉寺と五重の石塔
崇徳天皇の世、天保6年 ( 1140年 ) の春のこと伊予 国の人で紀州 ( 和歌山 )
根来寺の瑞長という僧が帰国した際、波方浦に来て説法をした。その時、瑞長が
里人に この郷 ( さと ) に寺はあるのかと尋ねたところ「 この郷には寺はない。た
だし山谷の間に行基作の如意輪観音像が一体あり。昔より郷人は常にこれを拝む
のみ 」と答えた。そこで瑞長は早速これに参拝したところ立派な霊像であったの
で里人と相談して、この像を本尊として寺院を創建した。時に康治元年 ( 1142年 )
5月のことと言われている。中世には、来島水軍村上家の祈とう所として、同家
の信仰が厚かったと言われている。境内には鎌倉期の五重の石塔がある。
( 本堂前の長泉寺と五重の石塔説明書きより )
鐘楼堂と水子地蔵の間を上り五重の石塔へ・・・・・・・・・・・・・・・
途中の坂道に半島四国八十八ヶ所第八十八番薬師如来の祠があります。
鎌倉期の五重の石塔 ( 市文化財 )
大師堂は( 半島四国八十八ヶ所結願所 ) でもあります。
12 : 05 長泉寺の参拝を終え、昼食と休憩を兼ねて波止浜観光休憩所へ。
御一緒していただいた内藤卓洲住職は午後から仏事がまっているので、
自動車で帰ります。ありがとうございました。 ~ みんなで拍手 ~
出発する私たちのバスに手を振って見送ってくださいました。
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波止浜港でお弁当・休憩
12 : 30 波止浜観光休憩所駐車場到着。
正面の小さな島は、参拝を終えた第三十五番札所長泉寺と食事の後参拝の 第三十七番札所
円蔵寺の間にある、第三十六番札所心月菴のある来島です。
波止浜港桟橋。波止浜~来島~小島~馬島の定期船「 くるしま 」が発着。
波止浜港周辺でお昼のお弁当をいただきます。
波止浜観光休憩所
燈 明 台
奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾 ( はこがたわん ) と呼ばれ、
古くから帆船の重要な風待ち、潮待ちの天然の良港で、戦国時代は来島水軍の
船溜まりとして重要視され、天和3年 ( 1683 ) 以降の塩田開発による町家の増加
塩買船、塩田資料を供給する船の出入りが多くなり、港町として発展し、伊予の
小長崎といわれるほどに成長した。
元禄16年 ( 1703 ) には港の入口に出入り船舶を監視する船番所が置かれ、船舶
と他国者の出入りを厳しく取り締まり、船税の徴収にもあたった。 今もその付近
を御番所前という。( 現在地より北の方、ドックの中あたり )
この大燈明台は嘉永2年 ( 1849 ) に御番所前に建てられたもので、高さ約6メー
トルあり、海上の安全を祈願したもので、当時の波止浜の人々の意気を示している。
明治35年 ( 1902 ) に現在の位置に移された。
南面に嘉永二己酉十月吉日 ( かんえいにねんつちのととりじゅうがつきちじつ )、海上安全と
彫られ、東面には金毘羅大権現と彫られている。
この前から来島、小島、馬島への渡船が発着している。
燈明台前集合
12 : 48 波止浜港国道317号線から県道160号線へ右折、第三十七番札所円蔵寺へ。
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第三十七番札所 円 蔵 寺
第三十七番札所 円 蔵 寺
山 号 護国山 円蔵寺
宗 派 黄檗宗 ( おおばくしゅう )
本 山 萬福寺 ( 京都府 )
本 尊 伝観世音菩薩
住 所 〒799-2112
今治市波止浜3丁目6-12
波止浜港からすぐ近くにあり、以前は海に面していた。曲線を生かした山門は龍宮
門で、鐘楼も兼ねている。この山門は元禄7年 ( 1694 ) に建立された。
寺の創建は嘉祥3年 ( 850 ) 比叡山の高僧、別当大師 光定法師 ( 伊予出身 ) により
波方に、紫金光山円満如来蔵院として建設された。
元禄4年 ( 1691 ) 松山藩第4代藩主松平定直が塩田で働く人達のために波止浜の
現在の地に移し、円蔵寺と省名、大檗宗とした。
その後、本堂は昭和57年 ( 1982 ) 火災で焼失し、その後再建、現在に至る。
境内には、芭蕉の句碑、森田北洋、森田陽山等地元俳人の句碑があり、今治空襲で
亡くなった松山・城北両校の女生徒の慰霊碑がある。
※ 第四十二番地蔵堂は現在この円蔵寺の境内にある。
円蔵寺は、波止浜観光休憩所や造船所の裏通り県道160号線沿いにあります。
龍宮門
龍宮門からの眺め。
内藤住職の代わりに四国八十八ヶ所で先達を勤めている方にお願いをします。
先達さんに合わせ法号南無大師返照金剛を8回唱えてから般若心経を唱えます。
熱心に句碑を詠んでいる村上会長。
この一角には、芭蕉の句碑、守田北洋、守田陽山等地元の俳人の句碑がある。
殉職女子学徒の碑
太平洋戦争も終結間近の昭和二十年八月五日、今治市が空襲に遭遇した際、市内の
軍需工場に女子学徒挺身隊として奉仕していた松山城北高女生二十二名、
松山高女性二名 計二十四名が、波止浜方面に避難中、通称馴合坂 ( なれあいざか ) に
おいて米軍機から機銃掃射を受け若い尊い命を奪われました。
これらの亡くなった人々は、当時から約一キロ離れた動仙鼻で茶毘にふされ遺族が
持ち帰った遺骨の残りをこの地に埋葬し永遠の霊を弔うため石碑を建立しました。
なお、同級生によってつくられた殉職者全員の氏名をしるした合同位牌は、
当寺位牌堂に安置され、年に一度の施餓鬼法要日には碑前に供え、数名の僧侶により
手厚く供養が行われています。 合掌
境内にある 第四十二番札所地蔵堂右側 ( 堂内には金色の地蔵菩薩が祀られている ) と石仏。
以前は蓬莱町 ( 波止浜1丁目 ) にあったが道路拡張のためこの場所に移された。
第三十九番札所 瑞 光 寺
第三十九番番札所 瑞 光 寺
山 号 海雲山 瑞光寺
宗 派 曹洞宗
本 尊 釈迦牟尼仏 ( 釈迦如来 )
本 山 永平寺 ( 福井県 )・
総持寺 ( 神奈川県 )
住 所 〒799-2112
今治市波止浜3丁目7-8
波止浜港の中央の道を真っ直ぐ東に突き当たったところが瑞光寺。
元は波方町養老にあったが、貞享元年 (1684 ) 塩田の開発で功労者の代官、園田
藤太夫によって現在の地に移された。境内には、塩田の三八法 ( 操業条件の良い
3月~8月に稼業し、冬期は休業する ) を考案した大沢常右衛門の墓や、森田陽
山等の墓がある。山門は江戸時代中期のもの。
波止浜港沿い国道317号線を右折、真っ直ぐ歩くと突き当りが第三十九番瑞光寺です。
石段の続く参道には本堂の前辺り迄モノレールが設置
されています。
山門は江戸時代中期に建てられたものだそうです。
本堂前で塩田開発の大沢常右衛門宣義翁の話等を聞く。
大沢常右衛門の墓
頌 徳 碑
大沢常右衛門宣義翁ハ波止浜の豪家ニ生ル、幕末ノ頃塩業苦難ニ陥ルヤ、
翁ハ三八式採鹹法ヲ十州塩田業者ニ提唱シ之ヲ実施ス、又塩田表土下ヲ
翁独創ノ砂層ニ改造シ年間三万俵ノ増産ヲ見ルニ至ル、松山藩ソノ功ヲ
賞シ ニ塩戸ヲ賜フ、清廉ナル翁 八十六番浜ヲ塩田組 二贈与セラル、更ニ
塩田ヲ増改築スル等、中興ノ祖トシテ郷党永遠ニ翁ノ恩恵ニ浴ス、依ッテ
其ノ功徳ヲ鑽仰シテ翁ノ眠レル瑩域ニ建碑ス
昭和六十年五月十一日 波 止 浜 区
波止浜興産株式会社 建之
本堂に戻り先達さんに合わせ法号・般若心経を唱えます。
山門からの風景。真っ直ぐに国道317号線に出て左折波止浜観光休憩所駐車場へ。
13 : 25 波止浜観光休憩所出発。 第五十四番札所 延命寺へ。
第54番札所 延 命 寺
第五十四番札所 延 命 寺
山 号 近見山 宝鐘院 延命寺
宗 派 真言宗 豊山派
本 山 長谷寺 ( 奈良県 )
本 尊 不動明王
住 所 〒794-00811
今治市阿方甲636
延命寺は本四国八十八ヶ所第五十四番札所でもあり、旧野間郡新四国八十八ヶ所
第五十四番札所でもある。
由緒は聖武天皇 ( 在位724~749 ) の勅願により、行基菩薩が不動明王を刻み、近
見山山頂に安置したことに始まる。
後に嵯峨天皇 ( 在位809~823 ) の勅命を受けた弘法大師により再興、不動院圓明
寺と名付け勅願所とした。 当時は大変隆盛し、傘下に近見百坊を配していたと言
われている。その後度重なる戦火にあい堂宇を焼失しているが、享保12年 ( 1727 )
に難を逃れた本坊とともに現在の場所に移転した。 圓明寺という寺名は明治まで
続いたが、本四国第五十三番圓明寺と同じ名前で間違うことが多かったため延命
寺と改めた。現在の本堂は昭和3年 ( 1928 ) に移転新築されたもの。
文永5年 ( 1268 ) 伊予国出身で華厳宗の学僧、凝然が寺の西の坊に籠り、八州綱
要を著述したことが知られている。
13 : 38 延命寺バス駐車場到着。
仁王門
山門前駐車場 ( 立派なトイレ有り )

延 命 寺 山 門
この門は、今治城々門の一つで、その建造年代は不明であるが 一説では、
天明年間の建造だとも言い伝えられ、明治三・四年に今治城を取り壊した時、
当山へ譲り受けたものである。 阿方文化連盟
参道沿い左側には休憩所、売店、納経所があり正面に本堂。
右側には越智孫兵衛の墓や、八宗網要を著述した疑念の供養塔、四国で2番目に
古い疑念法師のしるべ石等があります。
越 智 孫 兵 衛 墓
翁は、元禄時代の縣 ( あがた ) 村庄屋で慈悲深く智慧すぐれ、郷土の発展、
福利増進に努力して大功あり、お上の表彰を受けた。その時代、松山藩の
農民は「 七公三民 」の重税に苦しんでいたが、翁の尽力により縣村だけは
「 六公四民 」に免下げしてもらえた。そのおかげで享保十七・八年の大飢
饉の時も餓死者が出なかった。
元文三年四月二日に亡くなられた時、特に延命寺境内に葬り、今日まで毎年
八月七日に感謝の慰霊祭を続けている。翁の顕彰碑は阿方公民館に建立され
ている。 阿方文化連盟
本堂の瓦は菊間瓦が使われています。
本堂 ( 2012年2月18日、参拝の時に撮影 )
納経所横の石段を上がると大師堂。
大師堂への階段。
大師堂
大師堂内 ( 2012年2月18日、参拝の時に撮影 )
ごりやく錫杖まわして下さいと書いています。
2: 05 参道を歩きバス専用駐車場へ、延喜の第五十二番札所乗禅寺へ向け出発。
第五十二番札所 乗 禅 寺
第五十二番札所 定 禅 寺
山号 普門山 瑞応院 定禅寺
宗派 真言宗 豊山派
本山 長谷寺 ( 奈良県 )
本尊 聖如意輪観世音菩薩
住所 〒794-0084 今治市延喜甲600
えんぎ観音と呼ばれて親しまれているお寺で、裏山には鎌倉時代から南北貯時代の
石塔群がある。この地域に分散していた十一基を集めたもので、国の重要文化財に
指定されている。
寺の創建は古く、醍醐天皇 ( 在位897~930 ) の病気平癒を祈願してそれが全壊した
ことで勅支所となつたことによる。その際に七堂伽藍を建立したしされている。
小谷村だった村名もその時の年号「 延喜 」に改められた。
それから400年余り後、後醍醐天皇 ( 在位1318~1339 ) により特別の帰依を受け、
再びふたたび七堂伽藍が改築造営された。後醍醐天皇からの祈願申込所や足利尊氏
の祈願申込指令所もお寺に保存されている。
境内には、江戸時代貞享3年 ( 1686 ) 我が身を犠牲にして重い年貢の軽減を直訴訴
して村民を救った庄屋、八木忠左衛門の墓もある。
14 : 08 第五十二番札所 乗禅寺 ( 通称 えんぎ観音 ) 前 駐車場到着。
仁王門
剛力士像 ( 吽形 ) 金剛力士像 ( 阿形 )
金剛力士像の後ろに古い仁王様が向かい合わせにたつています。
慈照門へ。
慈 照 門
此の門は、慶長年間に旧今治藩美須賀城辰己の方位 ( 通称、辰之口壱ノ門 )に
建てられていたもので、武家専用の通用門として明治初年迄使用していたが、
廃藩置県の際、片山郷 玉井村治氏に引き取られていたものである。
かねてより定禅寺では山門 ( 中門 ) 建立の発願があり、当村、池内忠雄氏善行
壱人壱宇の寄進によって、この由緒ある門を慈照門と名付けて再現したもので
ある。 昭和四十六年一月十七日
乗 禅 寺
鐘楼堂
作業中のご住職が帰ってこられ納経所の方へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ご住職から 「 えんぎ観音 乗禅寺の栞 」をいただきました 。
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P-1 P- 12
P-2 P-3 P- 4 P- 5 P- 6
P-7 P-8 P-9 P-10 P-11
⇧ 「えんぎ観音 乗禅寺の栞 」クリックすると拡大します。
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乗禅寺のご住職と一緒に般若心経・・・・・・・・・・・・・・・・を、ありがとうございました。
延喜天神前の大銀杏の木を右折して裏山へ。
定禅寺石造物 11基 ( 国指定重要文化財 )
乗禅寺石造物 11基 ( 国指定重要文化財 )
通称、えんぎの観音さんと言われ、裏山墓地の一角に 五輪塔4基、宝篋印塔5基、
宝塔2基があり、この様に各種の石造物が 1ヵ所に集められて保存されているのは
他に例がない。 中には南朝年号の正中年間 ( 1325年 〜 1326年 ) の銘文が刻まれ
ているものもある。いずれも鎌倉末期のもので 大は 260? 余り、小は 120? 位の
石造塔で、工芸、様式共に優れたものであり、当時この地が信仰、文化の高かった
ことを物語っている。地方の谷々に散在していたのを、ここに集め ここに保存したと
言われており、定禅寺縁起の古さと共に 石造美学上、重視されている。
江戸時代貞享3年 ( 1686 ) 我が身を犠牲にして重い年貢の軽減を直訴訴して
村民を救った庄屋、義人 八木忠左衛門父子之墓
※ 詳しいことは「 えんぎ観音 乗禅寺の栞 」の「 伊予の佐倉惣五郎 八木忠左衛門 」
P-10、 P-11、に掲載されてます。
14 : 30 道沿いに駐車場へ下り、最後の札所野間寺へ出発。
第六十四番札所 野 間 寺
第六十四番札所 野 間 寺
山号 一郡山 野間寺
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
本山 永平寺 ( 福井県 )
・総持寺 ( 神奈川県 )
住所 〒794-0082 今治市野間819
野間寺は曹洞宗のお寺で国道96号線に大きな看板が出ているのですぐわかる。
ご本尊は釈迦牟尼仏 ( 釈迦如来) で黄金に輝くその姿をいつでも拝むことが出来る。
脇士は千手観世音菩薩と文殊師利菩薩を配している。野間寺では、毎年1月初旬に
大根だきが行われ、1年間の無病息災、家内安全を祈願する。その日は檀家の人た
ちが持ち寄った地元特産の大根が数百本炊かれ多くの人たちにふるまわれる。
14 : 42 第六十四番札所野間寺駐車場到着。
山門
山門を入ると 本堂前に左側奥に
本日の巡拝をすべて終えました、ありがとうございました。 ~ 合掌 ~
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こちらは ( 2021年5月6日巡拝時に撮影 )
涅 槃 図
( 2021年5月6日巡拝時に撮影 )
第六十三番札所 虚 空 蔵 堂
第六十四番野間寺の山門を入り左手にあるお堂が虚空蔵堂で中には美しい厨子が
2つある。向かって左側の厨子にご本尊の虚空蔵菩薩が安置されているが、秘仏に
なっていて33年に一回だけしか開帳されない。弘法大師が安置したと伝わっている。
釈迦三尊像
右側の厨子は阿弥陀如来像でこちらは何時も開いている。金色に
輝く美しい阿弥陀様両脇に菩薩像があり阿弥陀三尊の形になっている。
第六十三番札所 虚 空 蔵 堂は参拝しませんでした。
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14 : 55 野間寺駐車場出発、村上会長の挨拶、大西支所へ。