紺原地区研修旅行 ( 高知城観覧 ) Ⅲ

           高 知 城 観 覧 


       


 
 高知城へは 2011年4月と2014年10月に訪れましたが、いずれも時間が
 無くて天守閣へ上がるることができませんでした。今回も天守閣へは上がる
 心算はなかったので、ここ本丸まではゆっくりと散策、集合時間まで約40分
 心残りの無いように天守閣へダッシュ・・・・・・・
 こちらは ⇒ 2014年10月27日、大西老連研修旅行・ ひろめ広場〜高知城へ。
 こちらは ⇒ 2011年4月2日、四国遍路の途中に 高知城 花回廊へ。


  


  


  


  
  山内一豊公之像
この銅像は、坂本龍馬銅像などを手がけた銅像作家、本山白雲の手に
よるもので、一豊の祥月命日(しょうつきめいにち)にあたる 平成8年
( 1996年 )9月20日に再建除幕されました。
銅像の本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32m、重さ3.6トン、
台座5.08m、総高9.4mで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、
国内最大クラスであると言われています。実はこの像、2代目だそうです。
初代の銅像は、大正2( 1913 )年に高知開市三百年を記念して建てられ
たが、昭和19年に取り壊される。当時は戦時中で金属不足であったため、
銅像やお寺の鐘に至るまで弾丸等の材料として供出されました。
当時銅像が立っていた藤並神社は、文化元( 1804 )年の山内一豊二百回忌を
機に、同3年に現在の県立図書館を含む野中兼山邸跡に建設された。
ここには、土佐藩主の一豊夫妻をはじめ、二代藩主・忠義もまつられていた。
参道の入り口にはヒノキの大鳥居が立ち、その奥に甲冑姿で馬に乗る初代の
一豊像を見ることができたそうです。
           ⇒「 山内一豊 」 矢印をクリック。 
 

  


  
  今日はちょっと少なめですね、青空将棋。


  


  
  野中兼山先生邸跡
  野中兼山 ( のなかけんざん ) 1615ー1663
  土佐藩家老 30年間藩政を委任され 南学奨励 用水路と新田開発
  郷土起用等に画期的業績を上げたが 領民疲弊の責任を問われ寛文3年
  ( 1663 ) 辞任、同12月急逝した 49歳 翌年諸子は宿毛に幽閉され
  野中家は断絶した。


   


 


        
        国宝の碑について
  昭和9年 「 国宝保存法 」 により国宝に指定されましたが、
 その後、昭和25年に 「 文化財保護法 」 が制定されたことにより
 天守閣を始め 15の建造物が国の重要文化財に指定され、現在は
 国の重要文化財です。



追手門
高知城の表門。石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわ
しい堂々たる構えをみせている。門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状に
なっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっています。
石落としの仕掛けも備わっています。



12:57 追手門を入ると、もう天守閣観覧を済ませた人達と出会う、
 これから ひろめ市場へ行って昼食だそうです ( この方が正解かも・・・ )


   
板垣退助の像
 板垣退助自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の
名言は明治時代の一大流行語となった。この銅像は昭和31年(1956)5月11日
に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。
像の高さは2.20m、台座4.205m、全高6.405m。


  


   
石樋 ( いしとい )
 高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が
はらわれている。石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から
突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。
このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見る
事の出来ない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸を含め現在16ヶ所確認されているが下になるほど排水量
多くなるため、この石樋が一番大きく造られている。


 
 杉の段へ。

   
       
       山内一豊の妻の銅像
 山内一豊の妻は、弘治3年 ( 1557 ) 生れ、通称千代といわれているが、
これを裏づけるたしかな資料はない。 出身地についても通説では近江国
( 滋賀県 ) 浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国
( 岐阜県 ) 八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。
 幼い頃父を失い、17〜8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り
戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚の時
持参した10万両を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまり
出世の糸口になった逸話は広く知られている。
 また、関ヶ原の戦いの前に、傘の緒に縒りこめた手紙で関東にいる一豊に
大阪方の情報を知らせ、その進路を決定つけさせたことが一豊の土佐一国
領主への道をひらくことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢婦人として
知られている。元和3年 ( 1617 ) 12月4日、京都で没、61歳。
法号 見性院 ( けんしょういん ) 。
 この銅像は昭和40年 ( 1965 ) 2月26日に除幕されました。
                      ( 山内一豊の妻の銅像案内板より ) 


       
       愛妻の碑
  「 あきかぜの福井の里にいもをおきて安芸の大山越えがてぬかも 」 
                       鹿持 雅澄 ( かもちまさずみ )
  高知城・杉の段にある「万葉集古義」を著わした高知の国学者鹿持雅澄
  (1791〜1858)の「愛妻の碑」とよばれている歌碑です。
  赴任途中の大山岬で高知は福井の里に残してきた菊子夫人に思いをはせ
  詠んだものです。鹿持雅澄は菊子亡き後も追慕の歌を数多く詠んだとか。


 


 
 三ノ丸石垣
 三ノ丸は、慶長6年 ( 1601 ) の築城開始から 10年を要して最後に
 完成した。面積は 4.641 ? 、出隅部分の石垣の高さは 約 13 m 。
 石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩
 一部使用されており、穴太衆 ( あのうしゅう ) が、安土城の石垣で
 始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築され
 ている。また、三ノ丸には、1.815 ? の壮大な御殿が建築されていた。
  三ノ丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み
 直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで構成されて
 いる。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石 ( 基礎石 ) が
 確認され、改めてその事実が確認された。三ノ丸の石垣は、慶安3年
 ( 1650 ) 、宝永4年 ( 1707 ) に地震や豪雨により崩壊し、修理した
 記録が見られる。  今回の修理は平成11年に実地した調査により、
 割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、
 平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実地した後、鉄門付近から
 東面の花壇前まで実地した。工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、
 割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど、原状復旧を
 基本として実地した。
  改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって
 平成16年度から平成21年度にかけて実地、総工費4億円を要した。
                       ( 三ノ丸石垣前の案内板より )


  


 
杉ノ段は「井戸ノ段」とも呼ばれ、藩主のお国入りや出駕の際には一族が
ここまで送迎に出向いていました。将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を
迎える際には藩主自らこの井戸ノ段に出向いたといいます。
また「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物もありました。現在は山内一豊
の妻の銅像のほかにも記念碑や句碑などが建っています。


  
  ア 、アイスクリームと思ったが汗になるるのでやめておく。


  
  杉ノ段
 かって杉の巨木がたくさんあったのでこの名がある。 北の部分には
塗装部屋があり、また長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵があった。
 二ノ丸へ上がる道の南側に残る井戸は、深さ約 18 メートルあり、
記録にある城内 14 の井戸のうちで最も水質が良かったので、毎日午前10時
・正午・午後4時の 3回この井戸水を汲み、藩主の住む二ノ丸御殿に運んだ
という。 この段を北に回った部分には重要書類などを保管する証文蔵が
離れて建てられおり、南には鐘楼などのある太鼓丸があった。城内の林には
たぬき・うさぎ・いのしし・あなぐまなどの動物がいたと記録されている。
 杉ノ段には国学者で「万葉集古義」を著わした鹿持 雅澄 ( かもちまさずみ )
( 1791〜1858 ) の 愛妻の碑、高知県水力発電に功績のあった清水源井
( 1860〜1924 ) 記念碑、明治初期の医師であった星野秀太郎( 1859〜88 ) ・
楠 正興 ( 1829〜87 ) ・岡村景楼 ( 1835〜1890 ) の記念碑、浜田波静
( 1870〜1923 ) の句碑、山内一豊の妻の銅像などがある。
                        ( 杉ノ段の案内板より )  


   


   
   現在この井戸は、固く閉ざされています。


 


  
  鉄門跡
 この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設け
られていた。ここを入ると二の丸から本丸に通じる重要な位置にあるため
石垣は整然と築かれていて、門の扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられ
ていたので、鉄門と称された。 小さな桝形を形作っている門の内側には
番所があって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていた。 右と正面の
石垣の上には矢狭間塀がめぐらされていて、門内に侵入した敵を3方面から
攻撃できるようになっていた。左に曲がって石段を上がると、矢狭間塀の
ために二の丸への道は見えず、むしろ詰門への石段が連続して見えるので、
自然と詰門の方向に導かれるように巧妙に設計されていた。 石段は18段
あって「一八雁木」と呼ばれていたが、現在は16段になっている。石段の
中間から鉄門の二階に上がれるように設計されており、 その辺りの石には、
切り出した時の楔の跡がそのまま残っているものが見られる。
                        ( 鉄門跡の案内板より )


  
  鉄門跡から詰門を眺める。


  
  詰門
 詰門は本丸と二の丸の間に設けられた空堀を跨ぐ形で建てられており、
橋廊下という旧名がある。階上が登城した武士の詰所となっていたため、
現在は詰門と称している。東の出入口は右寄りに設け、西の出入口は
中央に付けられていて、筋違いになっている。これは攻め上がってきた
敵が容易に通り抜けられないようにという防衛上の配慮によるものである。
また、東からこの門を突破しても、容易に本丸には行けないようになって
いる。一階部分の南寄りは籠城のための塩を貯蔵するようになっていた。
中二階部分は窓も無く物置であったと考えられる。二階は二の丸から本丸
への通路でもあり、内部の3室を畳敷きとし、家老・中老・平侍と身分に
応じて詰める場所が定められていた。板の間の東南隅には非常の場合の
階下への抜道が設けられている。また、東面に3ヶ所、西面に5ヶ所の
隠し銃眼も設けられている。          ( 詰門の案内板より ) 


  


   
  左石段を登ると、天守閣、二ノ丸へ、右に進むと三ノ丸。
 この時は、天守閣へ上がるつもりはなかったので三ノ丸ひろばへ。


 
 三ノ丸
  高知城で一番広い平面で、外周 504 メートル、南北 85 メートル、
 東西 54 メートル、総面積は 4.641 平方メートルある。住事は、
 曲折の多い石垣の上には沢山の銃眼 ( 狭間 ) を設けた矢狭間塀が
 めぐらされ、東北門には丑寅櫓があつた。 また、大書院と呼ばれる
 広大な建物が建設され、総面積は 1.815 平方メートルもあった。
 この建物は、主として年頭の礼式や五月節句その他の儀式などで大勢の
 藩士が参集するとき使われたという。この大書院は明治維新ののち高知
 藩の執政府となり、次いで藩知事府から藩庁と改称された。明治3年
 ( 1870 ) 藩庁は城西の致道館跡に移転した。明治6年、公園化に伴い
 すべての建物が取り壊された。現在は、入り口に当たる部分に門柱の
 建てられていた礎石だけが残されている。
  公園整備により多数の桜の木が植樹され、高知の桜の開花を告げる
 「 ソメイヨシノ 」 の標本木があり、花見の場所として多くの市民に
 親しまれている。              ( 三ノ丸の案内板より ) 


 
 三ノ丸より天守閣を眺める。


 


 
 三ノ丸より杉ノ段の眺め。


 
   水路遺構         ⇒ 水路遺構 拡大  


       
       水路遺構
 高知は、雨の多い土地柄であり、高知城には排水のための様々な工夫が
見られる。 この水路遺構は、三ノ丸に降った雨水を集めて2ヶ所の石樋
から排水することにより、石垣内部に泥水が入り目詰りによる ゆるみが
生じないよう設けられたものと考えられる。
水路は、側板、蓋石で構成されており、主に砂岩が使用されている。
底部は、三和土 ( タタキ ) で塗り込められている。
 蓋石を外せば、清掃が容易にできる構造となっており、土砂の流れを
防ぎつつ、維持管理を可能なものとしている。 大雨が降った際には、
石樋の先端から水が放出されたものと考えられる。 
石樋先端部は、折れており側板も一部欠損している。石樋部の底石には、
側板を立てるための加工が施されている。


   


 


  
  長宋我部期石垣
 高知城のある大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸など古くから
軍事拠点として利用されていた。 戦国末期、四国の覇者となった
長宗我部元親は、岡豊城から、天正16年( 1588 ) 大高坂山に移り
築城したが、水害などにより城下町形成が十分できなかったこともあり、
天正19年( 1591 ) に面した浦戸城に移転したという。
この石垣は、三ノ丸石垣改修工事の事前調査として、平成12年8月から
実施した石垣背後の発掘調査により確認された。その盛土から中世の
遺物以外のものが出土していないため、長宗我部元親が築城した際に
構築されたものと考えられる。また、豊臣家から拝領したものと推定
される桐紋瓦も盛土の中から出土している。これは、瓦葺きの建物が
あったことを示すとともに豊臣家との結びつきを示す資料である。
 石垣は、延長 13 メートル、高さ 2.7 メートルあり、現在の三ノ丸
のすぐ下に埋まっていた。 使用避けている石材は、主にチャートで
あるが、一部に石灰岩や砂岩も使用されている。石の大きさは山内氏が
構築した三ノ丸石垣の石材と比べると全般的に小ぶりである。
長宋我部氏は浦戸城や中村城でも石垣を築いており、高知城の石垣は、
技術的に成熟する過程にあるものとかんがえられる。
 慶長6年 ( 1601 ) に長宋我部氏に代わり、山内一豊が土佐に入国し
時を置かず高知城の築城に取りかかっている。
三ノ丸は、慶長16年 ( 1611 ) に完成した。その工事の時に長宋我部
時代の建物は壊され、石垣の前面に盛土がなされ、曲輪が拡張され
現在の形となったものと考えられる。  ( 長宋我部期石垣案内板より )


  


  


  
  二ノ丸へ。


  


 


  
  高知城懐徳館入口


  
  詰門は二ノ丸と本丸を結ぶ渡廊下となっています。

   
  
  平侍留間。詰門は本丸を警備する武士たちの詰所も兼ねていました。



        
        御筒床


  
  渡廊下先の石段を登ると廊下門です。


  
  廊下門


  
  廊下門の上部は東多門と連結して多門櫓となっています。


 
 13:17 本丸へ。 
  集合時間は2時です、ちょっと厳しいけど考えている余裕なし。
 

    


  


 
 玄関をはいると懐徳館 ( 現存の本丸正殿の別称 ) の式台ノ間。


  
 写真撮影は O K のようですが・・・写真を撮る間があるかな !!


        
        家紋
       これは 「 三つ柏 」 と呼ばれている山内家の家紋で、
       土佐藩船の船印として使われていた。
       

   
   駕籠
   一人用の伝統的な乗り物、この覆いのある駕籠は、位の高い人に
  使用された。長い木の棒でつり、二人の男の人が肩に担いだ。


   
   二ノ丸欄間 ( 梅丸彫 )
 この梅丸彫の欄間は、二ノ丸御殿内の御化粧ノ間に使われていたもので、
江戸時代後期に名工と呼ばれた島村三四郎 ( 1812〜1899 ) が制作したもの
花を付けた梅を透かし彫で表現している。 島村三四郎は、高知城以外でも
彫刻を手掛けており、潮江天満宮 ( 高知市神町 ) の楼門の鳳凰翔舞 ( ほう
おうしょうぶ ) の彫刻が代表作である。また建築にも携わっており、壮麗な
建築で知られる大川上美良布神社社殿 ( 高知県保護有形文化財香美市美良布 )
の棟梁を務めた。


  
  三ノ丸欄間 ( 慈姑 ( くわい ) に水鳥 )
 この欄間は、三ノ丸の南ノ間と北ノ間との境に、二面一対で使用されていた
もので、江戸時代中期の名工武市高明 ( 通称 甚七 1722〜1776 ) が制作し
たもの。高明は、高知城掛川町に住み、竹籠細工を本業としたが、彫刻に
優れ 「 土佐の神五郎 」と称せられた。 土佐藩8代藩主豊敷 ( とよのぶ ) の 
根付を制作、また三ノ丸御殿の欄間を彫った功績が認められ 「 武市姓 」 を
名乗ることを許された。 


  
  NHK 大河ドラマ 「 功名が辻 」 千代役 仲間由紀恵 着用


   
   御茶所
 茶を立てる座敷。炉が切られ茶湯棚が設けられている。対面所である
主室とは離れて設けられており、ここで茶が立てられ座敷に運ばれた。
城内にはこの他いくつかの茶所が設けられていた。


   
   杉円盤標本      ⇒ 杉円盤標本 拡大  

 
        杉円盤標本について  平成28年1月 
 この標本は、高知城杉ノ段に生育していたスギ腐朽被害木を、平成26年2月
公園利用者の安全確保の為伐採撤去した樹幹の一部である。腐れや空洞被害が
最も小さい地際から約7m上方の力枝付近から円盤標本を制作した。
 樹齢は、円盤の年輪を数え 約348年と推定 ( 中央空洞部分が推定 ) できた。
第二代藩主忠義の隠居に伴い、忠豊は1656年48歳で第三代藩主に就いた。
10年後の1666年頃種子からスギ樹木が誕生、成育してきたと推測する。
 自然災害や大きな気象異変などは年輪幅等からある程度読み取り可能であるが
この円盤には享保の大火 ( 1727年 ) の痕跡は見当たらない。標本木の杉は
建物から離れた場所であり、樹木の生育上火災の影響はなかつたと考えられる。
 なお、樹齢は伐採した平成26年 ( 2014年 ) を基準にして、円盤外側から年輪を内側へ読み、西暦に当てはめ、歴代藩主や在任機関等を表示した。また、樹芯は節の痕跡を読み取り推定した。
     ( 制作 : NPO 法人 土佐観光ガイドボランティア協会 )


  
  うちわけ波の欄間 ( 波の透彫欄間 )
 下段の間と次の間の間に設けられた欄間。作者は 「 土佐の甚五郎 」と
称される名工武市高明 ( 通称 甚七1722〜1776 ) と伝えられている。
    ( 急いでいたので肝心の欄間が撮れていませんでした残念 )


  
  「 うちわけ波の欄間 ] の画像お借りしました。


  
  書院造        ⇒ 書院造案内板 拡大


 書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生れ
近世に武家の住宅様式として完成した。それは、大・小両書院を中心に玄関や
台所などを配した一連の建物群で、個々の建物 ( 書院 ) は、畳敷きのいくつか
の部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸
( まいらど ) ・明障子 ( あかりしょうじ ) ・ 雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて
大小の部屋ができ、間仕切には襖・明障子が用いられる。柱は角柱で壁は張紙が
貼られ障壁画などによって装飾される。また、天井には格天井 ( かくてんじょう )
が用いられる。 書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾り
の位置、装飾などにより身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴
する建築様式である。          ( 書院造案内板より ) 


  
  上段の間・二の間
 外の部屋より床を一段高くした藩主の御座所。床の間、違棚、付書院、
 帳台構えの座敷飾りが設けられている。


       
       南側の縁側・庭園


   
   ボランティアガイドさんの説明を途中から一緒に・・・・・


 


       
   十五代藩主 山内豊信 ( 容堂 )  詩書 「 夕 暮 曲 」複製


 
 帳台構え ( 武者隠 )
 書帳台構え院造の座敷に違い棚や付け書院とともに設けられるもので、
畳より一段高いところに框を設け、鴨居を長押 ( なげし ) の下に低く取り
付け、引き分け戸または引き戸の襖を設けたもの。高知城の帳台構えは、
上段の間 ( 座敷 ) に面した側は、襖障子 ( ふすましょうじ ) に壺金 ( つぼがね )
が打たれ、揚げ巻き結びを組緒 ( くみお ) にした房が取り付けられるなど
の壮麗な装飾が施されている。帳台とは、貴族などの屋敷の寝間や居室の
ことを指すが、江戸時代の大名屋敷などでは裏側が、納戸となっており、
藩主護衛の武士が隠れる場所に役割が変化した。  こうしたことから、
「 武者隠し 」とも呼ばれる。      ( 帳台構え案内板より )


  
  納戸 ・ 武者隠し、4畳。 ( 藩主護衛の武士が隠れる場所 )


       
       雪隠ノ間 ( せっちんのま )
  城内には多くの便所が設けられていたが、ここ本丸御殿の雪隠は、
  藩主しか使うことが出来ないものであった。


  
  13:31 これから天守へ。


   
   ガイドさんの詳しい説明が続きます。


   
   棟札。


   鬼瓦 瓦葺き建築の軒端を飾る道具瓦で軒端飾板ともいう。
   
   三葉柏文鬼板瓦 ( みつばかしわもんおにいたがわら )
   両下端部に雲状の鰭が付き、中央部には三葉柏文を配する。
   中央部下端は三角状のえぐりこみが入る。 ( ハートのマークが !! )


   
   鬼面文鬼瓦 ( おにめんもんおにがわら )
   右下の雲状装飾の鰭が欠損しているが、ほぼ完成の鬼瓦である。
   頭部には内返りの角を持ち、獅子鼻で口には牙を持つ。
   端部下端部はアーチ状のえぐり込みが入る。
             ( こちらの鬼瓦にもハートのマークついています )


   
   石落とし


 


   
   ガイドさんの熱心な説明も、時間が気になり上の空状態。


       


 


   
   13:38 ガイドさんにお礼を言って先に天守へ急ぎます。


   


  


  
  13:39 最上階へ、撮影スポットだそうです。


 


 


 


 


 


 


 


 
 約2分、自分の歩いたところを大急ぎで写真に撮る。
 帰りは黒鉄門を左りに下りようと思っています。


  
  13:41 集合時間まで後19分です。


   


   


   
   

   
   13:43 大急ぎで下りてきました。


   


 
 黒鉄門
 構造形式 櫓門入母屋造一階建 本瓦葺
 建築年代 享保 15 ( 1730 ) 年
 本丸南側を固める門。 守りを堅固にするため、扉の外側には、
 黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられている。  この様子から
 黒鉄門と名付けられたものと考えられている。
  二階部分は、武者が隠れることが出来る様になつており、門の
 外側に石落としが設けられるなど防御性の高い門となっている。


 
 13:44 黒鉄門を出ます。


 


  
  鐘楼堂


  


  


  
  13:48 追手門まで下りてきました。


  


  


  


  


  
  13:57 集合時間3分前、駐車場へ何とか間に合いました。
  飲物 ( 御茶 ) をいただいて、バスは最後の予定地 西島園芸団地へ。