大西町史談会研修旅行・和歌山城  

     令和2年度 史談会研修旅行・和歌山城  

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   史談会の研修旅行・和歌山城見学は新型コロナウイルス感染予防でどうなることか
  心配していましたが GoToトラベルが適用 ( 地域共通トラベル  1,000券が2枚と旅費が
  1,000円割引 ) されました。
  7時18分大西公民館を出発、13時18分和歌山城岡口門前到着、和歌山城・西の丸庭園
  を ( 約1時間56分 )見学、15時14分には岡口門前を出発、大西公民館に到着したのは夜
  も更けた21時44分 ( バスと船で14時間26分道中の長~い々旅でした )

 

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    7: 10  大西支所集合 ( 参加者数 33名 )

   

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       7: 18  大西支所出発 ( 大西支所からは29名です )

  

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    7: 43  今治駅前 ( 4名乗車 ) 参加者33名を乗せて出発。
          今治駅前  ~  湯ノ浦ICへ。

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    松山自動車道からの風景です正面に石鎚山を見ることができました。    

    8: 00  大西史談会村上勝正会長挨拶   
    8: 06    資料 国指定史跡 和歌山城  村上会長作成を予備知識として。

      国指定史跡      和歌山城     R2. 10. 25
      ~ 250 年もの長い歴史を刻んだ紀伊徳川家の栄華を伝える城 ~       

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  ・日本10名城に数えられる「 和歌山城 」は昭和33 ( 1958 )
 年に再建され、2018年で再建60周年を迎えた天守閣をはじめ
 さまざまな時代の石垣や堀を今にして残している。現在は江戸
 時代の内郭 ( うちぐるわ=城の内側に築かれた囲い ) にあたる
 部分一帯が公園になっていて、庭園や歴史観、さらに動物園ま
 であるみどころいっぱいの観光スポットになっている。
 天正13 ( 1585 ) 年、羽柴 (豊臣) 秀吉の紀州攻めで、貢献した
 弟の豊臣秀長が和泉、紀伊の2国を与えられ秀吉が秀長に命じ
 虎伏山の嶺に創建し、根拠地としたのが和歌山城のはじまりで
 藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手掛けた最初の本格的な
   近世城郭である。築城の名手といわれた高虎が本丸・二の丸を造った。
  ・秀長は大和郡山を居城としたため、主君に代って城を守護する城代の桑山重晴が
   入城した。豊臣・桑山時代に山嶺部分や岡口の整備に取り組んだ。
  ・慶長5( 1600 ) 年 関ヶ原の戦いの後、尾張山田長政の息子浅野光幸 ( よし ) 長が
   戦功により 37万6千石の領主となり、城の大規模な増築を行った。連立式天守
   を立て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営した。大手門( 正門 )を岡口門
   から一の橋門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。緑が生い茂る
   虎伏山にそびえ立つ白亜の天守は、三層の大天守、二層の子天守、乾櫓、二の御
   門櫓などを、廊下状の多門櫓 ( 城の石垣上の長屋 ) が結ぶ連立式天守閣である。
   楠木門を閉じると要塞化するように考えられている。
  ・桑山時代、浅野時代を経て、この大規模な楼閣を完成させたのが、元和5( 1619 )
   に入城した徳川家康の 10男、当時 17歳で剛毅な性格の徳川頼宣である。55万
   5千石を拝領し、御三家紀州藩が成立する。二の丸を拡張するため 西内堀の一部
   を埋め立て、南の丸、西の丸を内部に取り入れ、ほぼ 現在の和歌山城の姿となっ
   た。御三家の城にふさわしい風格が整い、西日本を監視する幕府の西国支配の拠
   点である 「 南海の鎮 ( しずめ ) 」として重要な役割を担うことになる。
   見どころは石垣であり、豊臣期、浅野期、徳川期の3期に渡って築かれた石垣は
   医師の種類が異なり、工法も野面積み、打ち込み接 ( は ) ぎ、切込み接ぎへと変化
   している。そんな中、弘化 3( 1846 ) 年落雷にあい、天守をはじめ多くの建物
   が焼失し、当時天守の再建は認められていなかったが、御三家の城ということで
   特別に許可され、元の姿がよみがえった。
   ・7代将軍徳川家綱が幼齢で死去し、徳川宗家の血筋が途絶えた。そんな中御三家
   紀伊家の中で特に有名なのが、享保の改革を行ったことで 知られる 徳川吉宗
   ある。紀伊 2代藩主光貞の 4男として生まれた吉宗は、本来は将軍になる運命
   ではなかった。しかし、兄たちが相次いで死去した事により、江戸幕府の 8代
   将軍となる。倹約を推進して、財政再建に貢献し、目安箱の設置、武芸学問の奨
   励、小石川養生所の開設など民生にも力を注いだ。 この後、江戸幕府の将軍は
   紀伊徳川家が受け継いでいくことになる。9代将軍は吉宗の長男徳川家重で生来
   病弱で酒色にふけり健康を損ない、言語不明瞭であった。
  ・10 代将軍は家重の長男徳川家治で幼児期から文芸の才能を認められた。この時代
   は、悪名高い田沼意次台頭し、印旛沼の開拓や蝦夷地開発などを行った。家治は
   跡取りを失うと、田沼の意見で一橋家済の長男徳川家斉を養子に迎えた。 
   12 代将軍は家斉の 2男 徳川家慶で老中水野忠邦を重用して天保の改革を行った
   が失敗した。13代将軍は家慶の4男 徳川家定でペリーが来航した年に就任したが
   元来、病弱で将軍的資質を欠くと指摘もあり、就任直後から将軍継浮上していた。
   14 代将軍は紀州藩徳川斉順の長男徳川家茂で就任後、公武合体政策のもと皇女
   和宮と結婚、温和な性格で幕臣からも慕われた。第二次長州戦争に出陣中大阪で
   21 歳の無若さで病死した。ここまで紀州徳川家の将軍が継続する。15代将軍は
   徳川慶喜が就任し、幕府改革を行うが挽回できず、大政奉還をした。これによっ
   て鎌倉幕府以来続いた武家政治が終焉を迎えることになった。
   明治 4(1871) 年の廃藩置県より、和歌山城陸軍省の管轄となり、昭和6(1931)
   年に史跡に指定された。しかし、昭和 20 (1945 ) 年の若山大空襲で再び焼失した。
   そのご、天守台のみが残されたままだったが、昭和33 ( 1958 ) 年市民の熱意によ
   って再建が実現した。そのため、近代的な建物が多いが、天守付近では総研時の
   ものと思われる珍しい野面積みの石垣や刻印、幅広い東堀などに当時の面影を見
   ることが出来る。

  和歌山城
   別     名    竹垣城、虎伏城
   筑  城  年  代    大正13( 1585 ) 年、慶長 5( 1600 ) 年、元和 5( 1619 ) 年
   築  城  者    羽柴 ( 豊臣 ) 秀長、  浅野行長、  徳川頼宣
   主  要  城  主    羽柴 ( 豊臣 ) 氏、 桑山氏、  浅野氏、  徳川氏
   文化財史跡区分    国指定史跡、  国指定名勝
   天守の現況形態    層塔型、 三重三階、鉄筋コンクリート造 ( 一部木造 )

  和歌山城の石垣
     和歌山城の石垣は時代によって様々な積み方がされ、石の種類も異なる。
   ① 野面積み 自然石を切り出してそのまま積んだ勾配のゆるやかな石垣で、
          岡公園や和歌浦等で採れる緑色片岩 ( 紀州青石 ) を中心とした
          結晶片岩で、主に豊臣・桑山期のものである。
   ② 打ち込み接ぎ 石の表面を粗く加工して「 接ぎ 」合わせて積んだ石垣で、
          友ヶ島等の石切り場で採れる砂岩 ( 和泉砂岩 ) で、浅野期と徳川
          期に築造された。刻印のある石材は浅野期に多く見られる。
   ③ 切込み接ぎ 石材を精密に加工して積んだ勾配の急な石垣で、熊野花崗斑岩
          をもちいる。徳川期のもので、虎伏像の前や高石垣の角 ( 算木積
          部分 ) などに使用している。

            ※お話はまだまだ続きますが。

 

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    8: 54  吉野川サービスエリア到着 ( トイレ休憩 )

 

f:id:nobubachanpart3:20210205134151j:plain  f:id:nobubachanpart3:20210205134203j:plain    こちらはトイレです。           お昼のお弁当 ( パン・コヒー ) 等を購入

 

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    9: 14  吉野川サービスエリア出発。

 

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             和 歌 山 城 の 見 ど こ ろ

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 ①   天 守 閣 浅野家が虎伏山の西の峰に、黒板張りだが、
    ほぼ現在と同様の天守閣を築造した。三層の大天守
    から時計回りに多門、乾門、多門、御台所、小天守
    へと続く連立式天守だった。 寛政 10 ( 1798 ) 年、
    10 代紀州藩徳川治宝( はるとみ ) により白壁の
    白亜の天守となるが弘化3( 1846 ) 年落雷で焼失した。
     御三家のため特別に認められほぼ元のままに再建され
     昭和 10 ( 1935 ) 年、国宝に指定されるが、昭和20 年 
    7月9日の大空襲で焼失した、戦後市民の要望もあり
     昭和 33 ( 1958 ) 年に鉄筋コンクリートで復元された。

  ② 大天守と小天守 寛永 3( 1850 ) 年に再建された天守図などをもとに、
          昭和33年に鉄筋コンクリート造の大天守などが 復元され、
          連立式天守閣が蘇った。

  ③ 大手門・一の橋 大手門は一の橋南詰めに建つ高麗門形式の門で、城の内郭に
         入正面の門で、浅野期の途中から徳川時代の大手門として使われて
         いた。当初は、市之橋御門と呼ばれていたが、寛政8( 1796 ) 年に
         大手門及び 一の橋と改称される。明治 42 ( 1909 ) 年に倒壊するも
         昭和 57 ( 1982 ) 年3月に再建され、翌年3月には一の橋が架け替え
         られた。

  ④ 岡口門  豊臣時代の築城時は大手門だったが、浅野期の途中から搦手門 ( 裏門 )
         となる。現在の門は元和7 ( 1621 ) 年、徳川家が建造した2階建て
         の櫓門形式であり、空襲でも焼けずに残った江戸時代初期の数少な
         い建造物であり、北側の土塀とともに昭和32 ( 1957 ) 年に国の重要
         文化財に指定されている。

  ⑤ 二の丸 徳川家が藩主の時代、本丸御殿が山上にあったが不便で手狭なため、
         二の丸には殿様の居館や藩の政庁が置かれた。 二の丸の機能は、
         藩の行事の場である表、殿様の公邸である中奥、殿様の私邸で奥女
         中の生活の場である大奥の三っに分かれていた。

  ⑥ 伏虎像 昭和 34 ( 1959 ) 年に設置され、城の形、人柱伝説の娘の名などが虎伏
         にまつわる話が多く残る。

  ⑦ 御橋廊下 藩主の趣味の場である二の丸・大奥とをつなぐ廊下橋である。藩主
         と一部のお付きの者、奥女中だけが通行できた。今では誰でも通り
         抜ける橋として復元されている。そのため風雨を避け、外から姿が
         見えないように屋根と壁が設けられ、部屋のような造りになってい
         る。両岸の高低差のため斜めに掛かる珍しい廊下橋で、全国的にめ
         ずらしく、滑らないように廊下の床板を鋸歯状に組んでいる。
         江戸時代の図面を基に平成 18 ( 2006 ) 年に復元した。

  ⑧ 鶴の渓 ( たに ) 浅野幸長が城主の時代に、ここで鶴を飼育していたことから
         この名がついた。6月頃には紫陽花ゃ菖蒲の花が咲く。   

      国指定名勝   西 の 丸 庭 園

   ・和歌山城西の丸庭園は城郭内にある江戸時代初期の大名庭園である。虎伏山の
   急峻な斜面を利用し、滝石組みを中心に立石を多く据え、豪快に作庭している。
   渓状地形を利用して小さい方の「上の池 」を堀り、柳島を配置して内堀を大きな
   池に見立てた池泉回遊式の庭園である。通説では紀州徳川家初代頼宣の命による
   小堀遠州流の造園とするが、徳川家以前の城主である浅野家の家老上田宗箇の作
   庭でであるとの説も有力である。
   ・和歌山城において西の丸は殿様が数寄屋風雅を楽しむ場所である。 庭の北側
   には浅野時代から書院式茶山の数寄屋があり、西の丸庭園は書院式の茶庭と言え
   るかもしれない。庭園南西の高台に、離れ座敷の「 聴松閣 」と茶室の「水月軒 」
   が建てられていた。 これは、早くとも徳川光貞紀州2代藩主となった直後の
   寛文8( 1668 ) 年以降である。昭和48 ( 1973 ) 年に庭園を調整し、同60年に「 西
   の丸庭園 」として国の名勝に指定された。
   紅葉が見事で「 紅葉渓( もみじたに )庭園 」とも呼ばれている。雄健なる3つの滝、
   堀に浮かぶ鳶魚閣、豪快な石組みが施された池など変化にとんだ景色を楽しめる。

    (1) 二の丸庭園の鑑賞
   ・内堀を大きな池に見たてるため、水中にある緑色片岩 ( 紀州青石 ) の岩盤を多
   用して「 柳島 」を配置している。小さな方の「 上の池 」の中には「 御舟石 」
   と呼ばれる船首を上げたような石があり、神仙世界から訪れる宝船の象徴的表現
   と言われている。虎伏山へと続く南側の丘陵を、神山に模している。
   御腰掛けのある南の高台から池、堀全体を望むと、草書体の「 心 」の字に似て
   おり、「 心字 ( しんじ ) 池 」の一種と言えるかもしれない。

     ( 2 ) 鳶魚閣 ( えんぎょかく )  
    ・  西の丸庭園内にある、堀に突き出した鈞殿風の建物である。堀に面する窓は
   障子張の火打窓で、室内は四畳半の畳敷きである。江戸時代には西の丸御殿と斜
   め廊下でつながっており、池にたたずむ姿が優雅であった。鳶魚閣は中国古来の
   詩集である「 詩経 」の一節「 鳶飛戻天、魚踊干淵 」( 鳶飛んで天にいたり、魚
   淵に踊る=自然の性に従って動き、自らその楽しみを得るという意味 ) から名付
   けられたのであろう。

     ( 3 )  聴松閣 ( ちょうしょうかく ) ・水月軒跡

     ・庭園南西の高台に建てられていたのが、離れ座敷の「 聴松閣 」と茶室の「 水
   月軒 」である。澄んだ心で静かに自然を鑑賞する心境を意味する「 松風水月 」か
   ら命名された。   「 聴松閣 」は、殿様が上段に座る御座之間と二之間・三之間で
   構成されていた。「 水月軒 」の東側の緑は縣け造りで崖上に突き出しており、
   その下には滝が流れていた。

    ( 4 ) 地鎮・ 鎮壇具
   ・  地鎮・ 鎮壇具とは、その土地の神様を鎮めるために埋める祭祀具である。西
   之丸庭園では 昭和 48 ( 1973 ) 年 聴松閣跡の発掘の際に、藩主が座る御座の間の
   下から壺、輪宝、背に「 文 」とある文字銭の寛永通宝等が出土した。密教法具
   を用いたことから真言密教系の祭祀がおこなわれたのであろう。現在は和歌山城
   天守閣で公開している。

   ( 5 ) 紅松庵 ( こうしょうあん ) 
   ・ 数寄屋造りの茶室である 紅松庵は、昭和 48 ( 1973 ) 年の庭園整備を記念し
   て、和歌山出身の名誉市民である松下幸之助氏の寄付により翌年5月に落成した
   「 紅葉渓 」の「 紅 」と松下氏の「松」からの命名である。
   ここは徳川時代にも数寄屋が建っていた。浅野時代には数寄屋から鎖の間、書院
   へと続く書院式茶室があった。

      ※ 資料には写真もたくさんあり参考にしたいと思います。

    

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    徳島港はもう直ぐ・・・・・・・・・・

 

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10 : 17  車・二輪車切符売り場。       切符発売窓口で運転手さんが切符を購入。

 

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    南海フェリー徳島港場駐車場到着。

 

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    南海フェリー徳島営業所 ( 休憩・買い物・トイレ等 )

 

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  10 : 30  南海フェリー徳島港へ着岸。

 

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    10 : 50  バスで乗船準備。

 

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バスを降りて船内へ。

 

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     客室に荷物を置いて・・・・・・・・・・

 

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  甲板へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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  船はだんだんと徳島港を離れて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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   約 2時間余りの船旅を楽しみま~す。

 

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    赤いアーチ式の青岸橋 ( みなと大橋 )の左奥に和歌山城天守閣が !

 

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  入港で船が向きを変え

 

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    和歌山城天守閣が青岸橋 ( みなと大橋 )の真ん中にスッポリト ❕

 

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船室を出てバスへ移動。            13 : 10  和歌山港着岸。

 

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向うに見えるのが船から眺めた青岸橋 です。     13 : 18  岡口門前 岡山バス停到着。
                             運転手さんが時間の確認中。     

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    13 : 20  ガイトさん・村上会長・運転手さんで打ち合わせ。

  

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  岡山城・岡口門をバックに大急ぎで記念写真 ( ガイトさんによると時間が少ない
  のでここで撮るしかないとの事 )

 

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  和歌山市語り部クラブ ( 和歌山市観光協会 )の久住さんのお話 ( 見学ルート・
  見所などの説明 )

            史跡 和 歌 山 城 道案内マップ 
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    本日のガイドは、1班 ( バスの通路より左側の座席 )、久住 ( 男性 ) さんと
            2班 ( バスの通路より右側の座席 )、杉本 ( 女性 ) さんです。

 

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  2班に分かれて出発。

 

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         私達2班のガイド杉本さんの後について・・・・・・・・・・

 

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  岡口門へ。  

  

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          史  跡  和 歌 山 城     指定 昭和 6年3月
  天正13年( 1585 )、羽柴 (豊臣) 秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山 ( 虎伏山 )
 の峰に創建した平山城和歌山城です。「 和歌山 」という地名は、この頃の秀吉の
 手紙にはじめて登場します。城造りの名人として有名な藤堂高虎らが普請奉行を勤め
 ました。和歌山城は、高虎が手掛けた最初の本格的な近世城郭と言えるでしょう。
 和歌山城は別名虎伏城・竹垣城とも呼ばれます。
  豊臣秀長大和郡山を居城としたため、但馬竹田城主だった桑山重晴が、秀吉の命
 で秀長の家老となり、城代を勤めました。秀長が途絶えると、桑山氏が城主となりま
 す。この豊臣・桑山時代に山嶺 ( さんれい ) 部分や岡口の整備に取り組みました。
  慶長五年 ( 1600 ) 関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が三十七万六千石の城主となり、城
 の大規模な増築を行います。連立式天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋
 敷を造営。城の正面である大手門を岡口門から一之橋の門に変え、本町通りを大手筋
 として城下町を整備しました。
  元和五年( 1619 )徳川家康の十男・頼宣が五十五万五千石を拝領して入国し、御三家
 紀州藩が成立します。同七年、幕府より 銀二千貫を賜り二ノ丸大奥部分を拡張するた
 め西内堀の一部を埋めたて、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城
 の姿となりました。
  紀州徳川家は「 南海の鎮 ( しずめ ) 」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍
 吉宗、十四代将軍家茂を輩出しました。黒板張だった天守閣は、寛政十年 ( 1798 )十代
 藩主治宝の命で、白壁塗りの白亜の天守閣となります。しかし、落雷により弘化三年
 ( 1846 ) 天守閣は焼失。幕府から「 有形の通り 」との条件付で許しを得て、嘉永三年
 ( 1850 ) に再建されました。
  明治四年 ( 1871 ) の廃藩置県により陸軍省の管轄となりました。明治三十四年和歌
 山公園として一般に公開され、同四十五年に和歌山市に払い下げられます。昭和六年
 ( 1931 )に国の史跡に指定され、同十年には天守閣が国宝となりますが 同 二十年七月
 九日の和歌山大空襲で焼失。戦後市民からの要望もあり、昭和三十三年に鉄筋コンク
 リートで復元されました。
  空襲で焼け残った江戸初期の構造である岡口門と土塀は昭和三十二年 ( 1957 ) 重要
 文化財に、西の丸庭園は同六十年に国の名勝に指定されました。
                                 和歌山市 

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         岡口門を入る。

 

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  城内側から見た岡口門

                       重要文化財   岡  口  門

f:id:nobubachanpart3:20201030225616j:plain  和歌山城天正13 ( 1585 ) 年に秀吉の命で
 弟の羽柴秀長が築城し、かろぇの桑山重晴を
 城代として置きましたが、この時は南東部の
 岡口門を正門である大手門としました。広瀬
 通り丁が大手筋で、熊野街道につながってい
 たのです。和歌山城の東側の地域は、中世で
 は雑賀庄の岡と呼ばれていたので、この名が
  つきました。慶長5 ( 1600 ) 年、浅野幸長
 城主となります。浅野時代に大手門を一の橋
   の門に変えましたが、引き続き重要な門として機能しました。 元和5 ( 1619 ) 年
   徳川頼宣が入国する際、浅野家が提出した引継ぎ目録に、門の一階部分に「 畳三
   帖有 」とあり、今の形と違います。元和7年に城を拡張した際、現在の門に整備
   したと考えられます。
    徳川時代、城の内郭へ入る門で二階建ての櫓が続いていましたが、現在取り払
   われ、切妻のような形になっています。岡口門は空襲でも焼けずに残った旧藩時
   代の数少ない遺構で、北側の土塀と共に昭和32 ( 1957 ) 年に重要文化財に指定され
   ました。土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間 ( さま ) が開けられています。
                            和歌山城史跡解説」より

  

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北側の土塀    土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間 ( さま ) が開けられています。 

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   岡中門跡の高石垣  ( 松の丸櫓台 )  

 

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   一班は「虎伏像」へと・・・・・・・・・・

 

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    岡中門跡

 

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    和歌山城公園菊花展。

 

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    市電の敷石
      大手門から中岡門跡まで続く石畳は、昭和6 ( 1971 ) 年の黒潮国体前まで
    走っていた市電の軌道に敷かれていたものです。

 

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     伏 虎 像
     江戸時代、和歌山城は別名「 虎伏竹垣城 」と呼ばれている。
    これは、和歌山城の建つ山が海上から見ると猛虎が伏している姿に似ている
    からである。現在では「 虎伏城 」「 伏虎城 」などとも呼ばれている。
     この像は、和歌山城の別名にちなんで昭和三十四年に建てられ、二代目に
    あたる。初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著「 紀ノ川 」にも登場するが
    銅像であったため、戦時下の昭和十七年 ( 1942 ) に供出されている。
                                ( 伏虎像の駒札より )

 

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  和歌山城表坂登り口。

 

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  表坂より岡口門の方を眺める。

 

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    表坂の階段 ( スロープ ) を登り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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  松の丸跡へ 

 

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  松の丸跡の石垣の草引き清掃作業

 

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    七福の庭

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           「七 福 の 庭」     

     七福の庭とは、七個の巨石を七福神に見立てて配置した庭です。一般に
    七福神とは、富をもたらす「 大黒天 」、漁業・商業等の守護神である「 恵
    比寿 」、護法神の「 毘沙門天 」、音楽・蓄財等の神である「 弁財天 」寿命
    を掌る「 福禄寿 」、長寿を授ける「 寿老人 」、福をはこぶ「 布袋 」の七柱
    の福徳の神様のこと。縁起の良い神様として民間でも信仰されてきました。    

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     この庭では、七福神が宝船に乗っている様子を表現しており、船の先端と
    後方にある石は、舳先と船尾 ( 艫 ( とも ) )表現しているのでしょう。海のかな
    たから福徳がもたらされるという海上他界観から、宝船に乗った七福神の図
    柄は江戸時代に流行しました。石材は庭石としても珍重される緑色片岩 ( 紀
    州青石 ) です。七福神の庭は本来、虎伏山の東の峰にあった本丸御殿の中庭
    にありましたが、大正12 ( 1923 ) 年 給水場が同地に計画されたため、松の丸
    のこの場所へ移設されました。
     七福の庭は紀州徳川家初代頼宣り時代に造った庭で、加藤清正好みと伝え
    られます。肥後藩加藤清正は城造りの名人として有名で頼宣の正室である
    八十姫 ( 瑶林院 ) の父ですが、頼宣が紀州に入国した時点で清正はすでに死去
    しており、また庭造りについては造詣が深いとも言えず疑問が残ります。
    七福の庭の成り立ちについては今後も検討する必要があるでしょう。
                            和歌山城史跡解説」より

 

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  二段の犬走

 

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  天守口門跡の石段には手摺のついたスロープが。

 

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   天正時代に建築され江戸時代に大規模な改修がなされた和歌山城は、太平洋戦争に
 アメリカ軍の空襲で焼け落ちてしまいました。しかし石垣はそのまま残り当時の面影を
 垣間見ることができます。一見同じように見える石垣も築造された年代によって個性が
 見られ、天守閣付近は青石をそのまま使用した野面積みで、江戸時代に構築された外郭
 の石垣は美しい稜線を描く高石垣となっています。

 

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  和歌山城天守閣付近の石垣
   野面積みと呼ばれる積み方で不規則な積み方となっています。構築されたのは
  天正時代で当時は墓石なども転用されているのだそうです。

 

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  和歌山城天守
   白亜の三層の天守閣。虎伏山の頂上に位置し、市街地を四方に見下ろすことができ
  大パノラマが広がります。現在の天守閣は、戦後の昭和33年 ( 1958 ) に再建されたも
  ので、内部には徳川家ゆかりの品が手数展示されています。

  

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  天守閣観覧の前にガイドさんより楽しみ方や注意事項の説明を受けます。

 

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  天守閣を背景に記念写真

 

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         楠門 ( 二の門 ) ( 復興 櫓門 )

 

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    楠門を入る。

 

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  乾櫓

 

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  右側大天守と左側小天守

 

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    天守入口まで真っ白い小石が敷き詰められています。

 

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  珍しい土足で入れる天守閣です。

 

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     まりと殿さまの歌碑
    西条八十作詞、仲山晋平作詞による動揺「 まりと殿さま 」( 昭和四年 )の
    第五番目の歌詞を西条八十が直筆し、それを歌碑にしています。
    昭和三十八年十月一日に市民の寄付により建立されました。新聞によると
    第五番目の歌詞を選んだ理由を西条八十は、「 紀州はロマンチックな国で
    あり、ぼくの好きな土地の一つだよ・・・ ( 中略 ) ・・・ だから 『紀州はよい国
>    日のひかり』という第五節を選んだのだよ」と述べています。
    今も天守閣からこの曲がチャイムで流されています。

         てんてんてまりは殿さまに 
           だかれてはるばる旅をして
          紀州はよい国日のひかり 
            山のみかんになったげな
              赤いみかんになったげな
                      西条 八十

           
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  全員集合。

 

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  天守門口を出て、二の丸へ出発。

 

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       帰りは裏坂を下りて二の丸へ・・・・・・・・・・

 

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  ここは、忍者の里だそうです。ボランティア忍者さんがいます。

 

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  裏坂登り口へ下りて二の丸へ。

 

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    通路を入り御橋廊下へ、御橋廊下を渡ると西の丸へ・・・・・・・・・・。

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    御橋廊下は、江戸時代には藩主とお付きの者だけが藩の政庁や藩所の生活の
   場である二の丸と紅葉谷庭園のある西の丸を行き来するため掛けられた橋で、
   屋根を設け、外からは見えないつくりになっていました。斜め11度の角度で斜
   になっているため、滑り止めの為に段差が付けらています。
    料金無料  時間9:00~17 : 00  休み:年中無休 ( 12/29 ~ 1/3は休み )

 

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         御橋廊下 の窓からの眺めです。

 

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  橋はここでおしまいです。

 

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    板張りの遊歩道へ・・・・・・・・・・。


 

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            西 之 丸 ( にしのまる )     

     この説明板の建っている一帯はね江戸時代西の丸と呼ばれたところです。
    西の丸は紀州藩初代藩主徳川頼宜 ( 1602~1671 ) の隠居所として築造され
    ました。   江戸時代に描かれた「 和歌山西の丸 」は、西の丸に建っていた
    建物や庭 ( 現在の名勝・紅葉渓庭園 ) などをくわしく描いています。これに
    よると、御座の間 ( 御上段・御次・御三乃間 ) や、御数寄屋、そして松の樹
    の横には能舞台などの施設があり、また、内堀の一部を利用した庭園には、
    地形の起伏を巧みに利用して懸造り構造の聴松閣や水月軒と名づけられた
    茶屋が建っていたことがわかります。さらに、堀につき出た鳶魚閣や西之丸
    と二之丸を行き来するための御橋廊下が掘上に架けられていたことがわかり
    ます。このように、西之丸は藩主の隠居所とし築造されましたが、能や茶道
    などの数寄を楽しみ、また自然風雅を楽しむところでもありました。

 

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     14 : 53  庭園へ入る。鳶魚閣の見学は時間が無いので素通りです残念 ❕

 

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  一之橋を渡る。

 

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  橋から眺めた風景です。石の上に「 御舟石 」の駒札が立っています。

 

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  左側に「鳶魚閣」、右後方に「 御橋廊下 」が見えます。

 

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  14 : 57  約4分間で紅葉谷庭園「 茅門」を出る。

 

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  茅門 「名勝 西之丸紅葉谷庭園」

 

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  庭園を囲む白壁の塀

 

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     家紋が入った瓦

 

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  山吹渓から切手門の方向へ。

 

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  切手門

    

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    切手門の隅から、手前に柳島と御橋廊下の風景。
    

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  中御門跡
   ここを出ると大手門・一の橋へと続きますが時間が無いので見学することは
   出来ません残念。

 

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  伏虎像の前を通り

 

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  市電の敷石を歩いて・・・・・・・・・・

 

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  岡口門へ。

 

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  岡口門を出るとバスが待っています。

 

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  15 : 14  岡口門前の岡山バス停 出発。

 

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村上会長挨拶  
和歌山城感想・石垣の話の後、来年令和3( 2022 ) 年度研修旅行の事などを話し合う。

 

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    15 : 32  紀ノ川サービスエリア到着 ( トイレ休憩・お土産等の買い物 )

 

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    孫にお土産を選び。

 

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    地域共通トラベル 券 2000円分を使い切る。

 

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  17 : 31  淡路サービスエリア 到着 ( トイレ休憩 )

 

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  17 : 41  淡路サービスエリア 出発。

  

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  18 : 06  南淡路市 「海鮮料理 きとら」到着。

 

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    店内で少し待ちます。

  

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    18 : 15  みんな揃って戴きま~す。

 

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                本 日 の 献 立
 

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とっても美味しく戴きました。

 

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18 : 44  食事を終え「きとら」出発。

  

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      20 : 11  豊浜サービスエリア 到着 ( トイレ休憩 )

 

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      21 : 13  湯ノ浦ICを出る。

 

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21 : 31  今治駅前で4名下車       お疲れさまでした。

 

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    21 : 44  大西公民館到着。
      本日の歩いた距離・・・・ 4.8 km。  歩いた歩数・・・・ 8413 歩。