~ 第59番札所 国分寺・志島ヶ原〜
久し振りに風も無くポカポカと暖かい絶好のウォーキング日和になりました。
国分寺駐車場より ウォーキングスタート、第五十九番 国分寺参拝 → 脇屋義介
公廟堂 → 今治藩主の墓 → ゴールの志島ヶ原へ到着。
網敷天満宮前絵の馬堂ではあめ湯のお接待があり梅の花を眺めながら温かくて
美味しいあめ湯を戴きました。
8:45 4号車大西支所出発 各集合場所で集客クアハウス今治へ。
9:21 クアハウス今治到着。
国分寺駐車場へ。
10:08 国分寺駐車場到着。
何かが違う ・・・・・・・・・・・ ? ちょっと違和感が・・・・・・・・・・・
第59番札所 金光山 最勝院 国分寺 ( こんこうざん さいしょういん こくぶんじ )
国分寺の歴史・由来
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。
往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個
の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の
高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の
昔をしのばせ、その面影をいまに残している。
国分寺は天平13年、聖武天皇( 在位724〜49 )の勅願により行基菩薩が本尊の薬師
如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、
弘法大師が長く滞在して「 五大尊明王 」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も
2年間留まり、『 法華経 』の一部を書写して納められている。
その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年( 939 )の
「 藤原純友の乱 」により灰燼に帰した。次に、元暦元年 ( 1184 ) 源平合戦の戦火に
よる焼失。 3度目は南北朝時代の貞治3年( 1364 )、讃岐・細川頼之の兵火によって
焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「 天正の兵火 」 にかかり、堂塔を焼失している。
相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が
寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
幸い寺には、古瓦をはじめ 『 国分寺文書 』 『 大般若経 』 など数多い文化財が保存され
ている。 四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。 本格的な
復興は江戸時代後期からであった。 ( 四国八十八ヶ所霊場会ホームページより )
違和感の原因が !!
以前この辺りに立派な桜の老木が有りました枯れたのでしょうか ?
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2014年4月1日、四国八十八ヶ所 第五十九番 金光山 国分寺の様子です。
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青い帽子のご婦人は九十三歳ですがとってもお元気で長年にわたり
ウォーキングに参加されています。私達のアイドル的存在です。
脇屋義助公廟堂の由来
延元元年(1336)五月、楠正成、新田義貞らの連合軍を摂津の国湊川に
打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。
同年六月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院党の公明天皇を皇位につけて
政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体
制をかためた。 そこで、天皇は密かに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して
吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。
ここに尊氏が樹立した京都の北朝 ( 公明天皇 ) と吉野の南朝 ( 後醍醐天皇 )
両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で
展開された。しかし戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力
武士が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰
えていった。 そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復すべく、新田義貞の
弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予にくだした。
興国三年(1342)五月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に
護送されて、今張( 筆者注:今治の語源で「 いまはる 」と読みます )の
浦に到着した。しかし義助は不運にも、その直後に病に斃れ、国分寺に急逝した。
享年は三十八歳であった。
この報を受けた阿波の守護細川頼春は義助の死を好機とみて、総勢七千の大軍を
率いて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら
十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。
現在の義助公の廟堂は寛文九年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したもので
ある。また廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原
益軒の讃文を刻んでいる。 「 今治市教育委員会 」
( 脇屋義助公廟堂の由来説明板より )
脇屋義助廟堂。 祠堂の裏にあります。
この突き当りを右に曲がるのですが・・・・・・・・・・・・・・・・・・
池の向こうの丘の上に今治城主の墓があります。
遊歩道から旧唐子浜パーク ( 子供がまだ小さい頃、遊園地などが整備され
大きな観覧車が目印でした。 ピーク時には年間約30万人が訪れるレジャー
施設として栄えていましたが、景気の低迷やレジャーの多様化の中で利用者
数が減少し1996年遊園地は休園されました ) を眺める。
今治城主の墓へ。
今治藩主、初代松平(久松)定房、3代定陳、4代定基の墓所です。
松平氏( 久松氏 )は徳川氏の一門であり、また松山藩松平氏( 久松氏 )の分家です。
藤堂高虎が伊勢に移った後へ、寛永12(1635)年に松平定房は伊勢長島6千石から
4万石( 後3万5千石 )で今治に転封となりました。
ぞれから10代明治に至るまで代々今治藩主として藩政を行って来ました。
この山は通称古国分山といわれ、国道196号線沿いにあり、入口には今治藩主之墓と
刻んだ石柱があります。 山上には中央に初代定房、左に3代定陳、右に4代定基と
巨大な3基の宝陜印塔形の墓石が瓦葺土塀に囲まれています。
石畳みの参道の両側には60墓ばかりの灯籠が並んで藩公の墓所にふさわしい所です。
松平氏( 久松氏 )の300年は平和に満ち、政治に心を注ぎ産業の発展に努力しました。
江島為信、河上安国らを抜擢して堅実な藩政の基を作った初期数代の藩主の治績は
よく知られていることです。
ここからは眼下に唐子浜を眺め大変景色のよいところです。
( 今治城主の墓説明板より )
2010年12月16日、県指定史跡今治藩主の墓へ。
こちらは 196号線沿いの今治藩主の墓正面入り口へ下りる石段です。
5kmゴール 網敷天満宮駐車場へ向かいます。
路地を抜けると右側に網敷天満宮の鳥居が見えて来ました。
網敷天満宮 駐車場5km ゴール。
網敷天満宮へ。
元県社 綱敷天満神社畧記
祭神 菅原道真公
由緒
菅原道真公は醍醐天皇の御代 昌泰4年正月25日( 901年 )にわかに大宰府へ左遷
される。 同年2月1日十挺櫓(じゅっちょうろ)の屋形船にて配流の旅へつかれた。
その途中予州の迫門( 壬生川沖 )において風波の難にあわれ御船あぶなき祈り 広川
修善( 当神社宮司の先祖 )と里人が一行を助け今の志島の東端に漕寄せ岩上に御座
所を設けたが咄嗟の事にて敷物がなく漁船の綱を丸く巻き円座の替わりとした。
( この古伝により「 綱敷天神 」という社名となる。 )
その時 菅公は濡れた烏帽子 ・ 冠 ・ 装束等を近くの岩上に干された。( 後にこの岩を
「衣干岩」と称す。)里人は折敷の上に鮮魚(小魚)をのせて献上し御安泰を御祝いした。
菅公は里人の厚意に感激され自ら梶柄に荒々しく御尊像を刻んで姓名を告げ「後日私が
帰洛したならこれを証として都を尋ねなさい。 もし筑紫にて没したと聞けば これを素波神
( そばがみ )と称し祭りなさい。」 と申された。 郡司 越智息利により残された御尊像を
この地の南端に小社を建て素波神として祭り尊崇した。
この御尊像を御神体としてお祀りしたのが当社の創始である。享保5年6月28日(1720年)
松山藩主松平隠岐守より現在の地に社殿を建立した。
戦前は県社に列格され県内最大の天満神社として一年を通し特に受験シーズンには菅公に
あやかりたいと多数の学生の参拝があり祈願絵馬も二千枚余り奉納される。
境内は三万三千坪あり昭和16年には国の名勝地に指定され最近では日本の松原百景に
選ばれた。人の手を加えない自然の松原は絶景である。
又その中に梅園(梅の木300本余)も整備されており天神様の境内地にふさわしく花の咲く
頃になると多くの参拝者・観光客でにぎわう
( 拝殿正面左側、 元県社 綱敷天満神社畧記説明板より )
網敷天満宮へお詣り。
おうどん屋さんも
網敷天満神社 西鳥居 を出て梅園へ。ひっきりなしに訪れる車で渋滞に !!
こちらは若木を育てています。
12:19 バスは網敷天満神社 西鳥居まえを通過。
[
桜井総合公園海岸線沿い入口より坂道を上りクアハウス今治へ。
13:47 15:30分の市内循環バス出発まで退屈なので展望台へ。
展望台へ登る途中 振り返ると石鎚山にはまだ雪が残っています。
展望台からの眺め、西条・新居浜の工業地帯と石鎚連峰。
手前の砂浜は 虎ヶ鼻海岸公園、道路の突き当りを入ると
石風呂 ( 現在休止中 )です。 向うの砂浜は 国民休暇村
( 休暇村瀬戸内東予 ) 海水浴場とキャンプ場。
馬島を挟んだ ( 来島海峡大橋 ) しまなみ海道を見ることができます。
14:19 休憩所まで下りる。
15:30 市内循環バス出発 大西支所へ。
本日の歩いた距離・・・7.9 km。 歩いた歩数・・・11814 歩。