春の訪れを告げる ( 朝倉~志島ヶ原 )
( 竹林寺境内 )
( 多伎神社 )
( 志島ヶ原 絵馬堂 )
新型コロナウイルスによる肺炎 ( COVID19 ) 拡大が心配される今日この頃です。
参加しない方がと・・・・・・・・・・・・・ ? 四国地方はまだ感染の報道がないので今回は
皆さんマスクをつけてのウォーキングとなりました。
古谷集会所で準備体操の後①竹林寺の急傾斜の石段を登り境内から朝倉の美しい風景
に感動。5kmコースは長い山道をのぼり、③ 多伎神社で参拝、本殿奥の ②多伎神社
古墳群を巡り帰りは古谷奥の高台から素晴らしい海のある風景を楽しみながら歩き
最後は ④ 牛神古墳公園へ。小谷集会所からファミリーパーク志満駐車場へバス移動。
網敷天満宮で梅の花を眺めながらお昼のお弁当をいただきました。
8 : 35 大西支所 集合。 8 : 30 2号車到着 ( 車内で順番に受付 )
8 : 35 大西支所 出発。
9 : 15 クアハウス今治 到着。 2号車 集客 ( 大西支所 ⇒ 宅間 ⇒ 乃万 ⇒ 延喜
⇒ 小泉郵便局 ⇒ 中寺郵便局 ⇒ 松木 ⇒ クアハウス今治 )
( トイレ休憩・ウオーキングに不要の荷物は棚に置きます )
指定のバス( 乗ってきたバスに乗車 )
9:32 2号車クアハウス今治出発。
国道196号線から町谷交差点を左折。鹿ノ子池近くの新谷の信号を左折。
正面、山の上の建物は「 四国霊場八十八ヶ所第五十八番 仙遊寺」です。
鹿ノ子池近く新谷の信号を左折し県道155線 ( 今治丹原線 ) へ入り朝倉村へ。
右、牛神古墳
9: 47 2号車 古谷集会所到着。 ( 右上には竹林寺の鐘楼堂と本堂が )
9: 55 全車 ( バス5台・ワゴン車1 台 ) 到着。
10 : 00 準備体操。
10 : 08 スタート地点 古谷集会所を5kmコースより出発。
竹林寺参道。
竹林寺山門を入る。
山門を入り右側の本堂上り口へ。
最後の石段
五臺山 竹林寺
略縁起 この寺は天武天皇の御宇、越智大領小千守興が願主となり僧観量によって開基された。 はじめ毘盧遮那仏を本尊とし、真如坊と言ったが、聖武天皇の御宇、天平七年 ( 755 ) 行基菩薩巡化の砌、中国は五台山に模して自ら文殊菩薩を彫刻安置し、以来竹林寺と称す。 その後、弘法大師巡錫の途、住僧観光上人が文殊菩薩五百万遍の秘法を授かり、日本三文殊霊場の一つとして今も受験生らの参詣が多く「 智恵の文殊さん として有名な名刹である。 境内に10月頃から咲く珍しい四季桜 ( チクリンジザクラ ) があります。
⇒ 新四国八十八ヶ所曼荼羅霊場 第三十九番札所でもあります。
本堂 本尊 文殊菩薩
本堂で参拝
朝倉の風景をバックに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お参りを済ませ本堂横の坂道を下ります。
坂道途中の太子 ( 聖徳太子 ) 堂
3kmコースはこの坂道を上り本堂へ参拝 U ターンします。
右手前は庫裡 ( くり ) 納経所と大師堂 ( 伊予府中二十一ヶ所竹林寺 )
チクリンジザクラ
四季桜 ( 朝倉村指定天然記念物 )
学名 チクリンジザクラ
命名 八木繁一先生
花弁が普通のシキサクラより大きく美しく
花部の色彩等も違っているのでこの名前が
つけられた。
今治藩士 堀田主水が植えたという。
駐車場 ( トイレ有り ) へ下り参道へ。
参道を下りて常夜燈を右折。
多伎神社へ向かいます。
10 : 26 3kmコース・5kmコース分岐点。
3kmコースはここで左折。5kmコースは右斜めに上る。
3kmコースはこの先の宇土橋を渡り右折緩やかな坂道を歩き多伎橋へ。
5kmコースは 狭い山道を上ってゆきます。
薄暗い林の中へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
白坂 巌翁 顕彰之碑 ・ 門口池改修記念碑
林を出たところで給水。
10 : 51 多伎神社へ下りる道路へ左折。
10 : 53 多伎神社前へ。
③ 多伎神社
多伎神社由緒旧社格 式内大社 県社
御祭神 多伎都比売命 多伎都比古命 須佐之男命
当神社は文献に「 瀧之神 」とあり、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神天皇の御代饒速日命六代の孫伊香武雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮になられたと記されています。清和天皇の貞観2年(西暦860年)神階を賜わり、大三島さん、伊曽乃さんと相並んで数度に渉り昇格し貞観12年正四位上に昇りました。 (三代実録)醍醐天皇の延喜年間(905年)式内大社(伊予国に七社)に列格の光栄に預かり、皇室より久しく特別の待遇に浴し国司、守護職、領主をはじめ庶民の信仰を集めました。
江戸時代今治藩の祈願所として、雨乞祈願のたびごとに藩主の参拝あり、七日間の祈願は中日迄を本殿で、後半を奥の院の磐座にて一社伝来のしきたりによって執り行われ、必ず霊験をいただいたのであります。
広大な境内地の愛媛県指定史蹟三十数基の群集古墳からは古い歴史を由緒が伺われ多伎川の清流と照葉樹を中心とした自然林は全国でも有数、まさに神様のお座します所であります。
松茸石
多伎神社の陰陽石の一つである。
今治藩主の命により、江戸藩邸に運んだが、藩主夫人が
発病したので夢占いによると、元の多伎宮へ帰りたいと
いう石の願いがあったので、また江戸からここへ帰すと、
夫人の病はすぐ直ったという伝説がある。
多伎神社拝殿
一宮神社
境内を通り多伎川に注ぐ水路に架かる小さな々橋を渡り境内社 の前を通って
多伎宮古墳群へ。
10 : 55 ② 県指定史跡 多伎宮古墳群入口へ。
愛媛県指定史跡 多伎神社古墳群 ( たきじんじゃこふんぐん )
多伎神社古墳群は、多伎川の上流が形成した扇状地奥の谷部にあり、東西約300m、南北約100mの範囲に分布しています。この谷間に多伎神社と15基あまりの古墳があり、
このうち横穴式石室をもつ円墳が3基開口しています。
中でも5号古墳は大きく、直径約15m、高さ3mあまりの墳丘をもっています。石室は、
両袖式の横穴式石室で、全長は6.2m、玄室の長さ約5m、幅約1.5m、高さ約1.9mです。構造は持ち送り式で天井石を6枚使用しています。羨道部では天井石を3枚使用しています。
指定前にくずれていた古墳数基も横穴式石室であることから、現存する古墳も多くは同
形式(6世紀後半-7世紀前半頃)のものと見られています。 なお社殿裏の1号墳のみ、
小石を積み上げて造った積石塚と思われ、他の古墳との違いが見られます。
昭和34年12月25日指定
愛媛県教育委員会・今治市教育委員会
2号 円墳 横穴式石室
2号 裏側
3号 墳丘 石室はわかりませんでした。
4号 横穴式石室
5号 横穴式石室 墳丘、石室正面
石室正面
6号 斜面裾に立地した墳丘
7号
8号
9号
11 : 05 1号墳は上の方に見えました。10号・11号・12号墳は時間の都合も
あり古墳巡りはここまで ( 約10分間の古墳巡りでした )
右、石の鳥居と赤い鳥居の間を入る。
禰宜屋敷古墳群
1号 円墳 横穴式石室
半分の石室は、参道建設の際に半壊状態で発見される、発見当時から既に半分しか
残っていない状態だったそうです。
名前の由来は昔この近くに多伎神社の禰宜さんのお屋敷があったからだとか。
禰宜屋敷古墳群
当1号墳は多伎川の左岸に造られた古墳である。現在6基が確認されている。
当1号墳は無袖の横穴石室で、副葬品には須恵器・土師器・直刀・轡・鉄鍛や身につける装身具が出土している。石室は全長7m・幅2mあり、天井高2mが考えられる。墳丘は直径13m前後の墳丘高3~4mが想定される。主軸方向は北30度東を採っている。遺物は美術古墳館に展示。
朝倉村教育委員会
杯状穴(性穴)遺構
杯状穴遺構は、古くは弥生時代から 近現代まで続けられている文化遺産と 言われてい
ます。一説によると、遺構 の目的は、戦場や各地におもむいた男 性の帰宅を求めた精神的な祈願行為で生じた”たたき穴”で、前者の祈願穴 に結び祈願を続けたと言われています。
朝倉村教育委員会
多岐神社大鳥居
多岐橋を渡り突当りを右折します。
海の見える場所まで坂道を上り左折。
土手に入ると・・・・・・・・・・・・・・・海はあまりにも遠すぎて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
下り坂を歩き途中で左折して畑の中を歩きます。
正面に竹林寺本堂が見えます。
この先の消防自動車が止まっている前を右折。
消防車の点券をしていたそうです。
池の横を下り建設途中の高速道路を出て左折県道155線 ( 今治丹原線 ) へ。
県道155線を最後のポイント ④ 牛神古墳公園へ。
牛神古墳公園を見学した後は、ガードレール沿いにゴールの古谷集会所へ。
④ 牛神古墳公園 ( 駐車場・トイレがあります )
牛神古墳出土品展示館
発掘当時の写真や須恵器など出土遺物が展示されれています。
裏側は米作りの歴史資料館になっています。
牛神古墳
本古墳は直径13メール墳丘高14メールと推定される円墳であり、墳丘内に2つの
埋葬遺構を持つ一墳丘歩二石室の古墳である。
古墳の造営は遺構や副葬品が6世紀後半の時代と推定される。
内部主体は横穴式の石室で全長6メートルで玄室4メートル、奥壁幅2メートル、
天井高2.5メートルの両袖式の石室である。一基は全長2メートル幅1メートル~
1.3メートルの竪穴式石室であった。石室の主軸方向は北35度東と北25度東をとる。
副葬品としては装身具のほかに須恵器や鉄器である。
11 : 37 ゴールの古屋集会所 到着。
11 : 40 全員到着を待って古谷集会所 出発。
網敷天満神社西大鳥居前を左折。
11 : 57 ファミリーパーク 志満 駐車場 到着。
12 : 00 網敷天満宮へ出発。( 網敷天満宮で梅の花を観賞しながら昼食 )
松林に入り網敷天満宮拝殿が正面にあたる南の大鳥参道を入る。
の
元県社 綱敷天満神社畧記
祭神 菅原道真公
由緒菅原道真公は醍醐天皇の御代 昌泰4年正月25日( 901年 )にわかに大宰府へ左遷される。
同年2月1日十挺櫓(じゅっちょうろ)の屋形船にて配流の旅へつかれた。その途中予州の迫門( 壬生川沖 )において風波の難にあわれ御船あぶなき祈り広川修善( 当神社宮司の先祖 )と里人が一行を助け今の志島の東端に漕寄せ岩上に御座所を設けたが咄嗟の事にて敷物がなく漁船の綱を丸く巻き円座の替わりとした。
( この古伝により「 綱敷天神 」という社名となる。 )
その時 菅公は濡れた烏帽子 ・ 冠 ・ 装束等を近くの岩上に干された。( 後にこの岩を「衣干岩」と称す)里人は折敷の上に鮮魚(小魚)をのせて献上し御安泰を御祝いした。
菅公は里人の厚意に感激され自ら梶柄に荒々しく御尊像を刻んで姓名を告げ「後日私が帰洛したならこれを証として都を尋ねなさい。 もし筑紫にて没したと聞けばこれを素波神( そばがみ )と称し祭りなさい。」 と申された。 郡司 越智息利により残された御尊像をこの地の南端に小社を建て素波神として祭り尊崇した。
この御尊像を御神体としてお祀りしたのが当社の創始である。享保5年6月28日(1720年)松山藩主松平隠岐守より現在の地に社殿を建立した。
戦前は県社に列格され県内最大の天満神社として一年を通し特に受験シーズンには菅公にあやかりたいと多数の学生の参拝があり祈願絵馬も二千枚余り奉納される。
境内は三万三千坪あり昭和16年には国の名勝地に指定され最近では日本の松原百景に選ばれた。人の手を加えない自然の松原は絶景である。
又その中に梅園(梅の木300本余)も整備されており天神様の境内地にふさわしく花の咲く頃になると多くの参拝者・観光客でにぎわう
( 拝殿正面左側、 元県社 綱敷天満神社畧記説明板より )
絵馬堂ではあめ湯のお接待がありました。
境内でお弁当をいただきます。
こちらは若木を育てています。
梅園へ ( 今年は何処も花芽のつきがが例年より少なかったような気がしました )
12 : 58 ファミリーパーク 志満 駐車場 出発。
温泉で汗を流しゆっくりと休憩 ( 4階からの風景 )
15 : 30 市内循環送迎バス クアハウス今治出発。
( クアハウス今治⇒松木⇒中寺郵便局⇒小泉郵便局⇒阿方⇒乃万⇒大西支所 )
16 : 14 大西支所 到着。
本日の歩いた距離・・・・・ 9.1km。 歩いた歩数・・・・・ 12380 歩。