史跡巡りウォーキング

    ~ 大西町 藤山健康文化公園〜 脇地区 ~


   
 12月とは思えないポカポカ陽気の中、今回の史跡巡りウォーキングコースは地元
大西町で 雲高く澄みきった大気の中を、藤山健康文化公園から脇地区を巡ります。
 ⇒ 2015年7月11日、歩こう会の古里の文化・脇コース 順路は同じではありません。


    
     9:40  大西支所駐車場集合4号車に。
     9:49  4号車、藤山健康文化公園西駐車場到着。
 

   
   皆廻池・親水広場。


   
   多目的芝生広場に集合。


    
    準備体操。


   


    
     10:30  バスでウォーキングスタート地点へ出発。


   
   ( 株 ) 村上鉄工所駐車場へ。
   ( 3km ・ 5kmコース )スタート地点。


   
   10:40  ( 5kmコース 続いて 3kmコース ) スタート。
   

   
   史跡巡り 1、「 貴布祢田 」


        
        「 貴布祢田 」   
   元ここに貴布祢神社があった跡である。たび重なる錆川 ( さびがわ ) の
   氾濫により、社殿を今の場所に移転したため、この名が残っている。
                          大西町史談会 案内板より


   

  
   


   
   史跡巡り 2、「 明専寺 」 
浄土真宗本願寺派で今日と西本願寺の末寺。大変大きな本堂のある立派なお寺です。
本尊は阿弥陀如来、明暦3年 ( 1657 ) 釈善正上人によって開かれたと伝えられています。
釈善正上人 ( 浅野善正 ) は芸州浅野藩の人で瀬戸の法泉寺で得度し、京都に上り宗義を
極め、その後九王村に入りました。  九王村で新田開発をした桧垣五右衛門としもに
明専寺を建立しました。※ 野間郡四国八十八ヶ所 第八十一番札所。 大西町誌 大西探訪より


   
   明専寺入口。


        
        親鸞聖人御像。   昭和六十一年十月建立。


   
   山門 ( 鐘楼門 )


   
   明専寺本堂。


   
   5kmコース は 史跡巡り 3、貴布祢神社へ。
   3kmコース は 明専寺の前を通り史跡巡り 7、大師堂へ。


   


   
   貴布祢神社へ。正面の石段は上らず神社左の坂道へ。


   


   


   
    史跡巡り 3、「 貴布祢神社
 脇村旧村社。聖武天皇の時代、神亀5年 ( 728 ) 伊予国司越智玉純が勅を奉じ、
京都山城国貴布祢神社を勧請して社殿を建立したと伝えられています。
弘安4年 ( 1281 ) 元寇に際しては蒙古襲退を祈願しました。また延元元年 ( 1336 )
には後醍醐天皇の皇子、満良親王 ( みつながしんのう ) が 勝利を祈願し、慶長9年
( 1604 ) には加藤嘉明が神殿を修理したと伝えられています。 大西町誌 大西探訪より 

   
    
    史跡巡り 4、「 金比羅さん 」
    
貴布祢神社の境内にある金毘羅大権現です。以前は若いもん山頂上
    近くにありました。


   


        
     登り坂が続きます。この先左側に 「 あしかさん 」上り口があります。


   
あしかさん上り口。                 まだまだ続く登り坂。


    
    史跡巡り 5、「 あしかさん 」
 お堂は古墳上にあるが、盗掘をうけている。石館や、お馬さん伝説により、
 足利氏の武将を祀ったとか、蔓延した麻疹( はしか ) が、お堂にお参り
 すると治ったので「 あしか 」 となまって呼ばれたとかの説がある。
 現在も伝統行事は伝えられている。      大西町史談会 案内板より



    
   お堂の裏には古墳と祠が ( 祠には伝説のお馬さんが祀られています )


   
  あしかさん前からの眺め。 右上の御城池に引き込まれた隧道は、山之内川の
 寺井手堰から脇の御城池への水を引き入れるために造られた隧道で、約250mの
 トンネルは 大正8年 ( 1919 ) 村人たちの手によって作られ、それ以来御城池の
 水不足はなくなったそうです。


   
   ここからやっと下り坂です。


   


   
   振り返ると、山の上に、先ほど登った あしかさんが見えます。


    
    暫らく山道を登ると 集合五輪塔の入り口、竹藪の中へ。


   


     
    史跡巡り 6、 中脇集合五輪塔 ( お塚さん ) 豊臣秀吉四国征伐で、小早川隆景の襲撃を受けたさい、重茂山城の武士たちはかっては海だった明専寺あたりで戦ったが奮戦むなしく全滅した。有力な武士たちの霊を弔って石塔が建てられた。
現在でも8月には御頭がもたれている。  大西町史談会 案内板より
 

    


   
竹藪を抜け。                 


    
    民家の横を下ります。


   
    集合五輪塔の入り口から竹藪を抜け山の反対側に下りる。


     


   


        


   
   史跡巡り 7、大師堂
   野間郡四国八十八ヶ所 第八十番札所。   本尊・・・弘法大師
       昭和五十七年再建。      大西町史談会 案内板より


   
大師堂前の小山には小さな祠があり山の神をお祀りしています。


    
    順路の矢印に沿って。


    


    


   


   
   名前はわかりませんが池の横を歩く。


   
   上にも池があるようです。


    
     史跡巡り 9、脇塚 < 新田さん > 南北朝時代の始め頃、南朝の勢力を挽回するために懐良親王が伊予に下られ、
中島 ( 松山の沖 ) の忽那氏のもとに3年ほどおられた後、九州に移られた。
その代わりに興国3年 ( 1342 ) 4月、 脇屋義助 ( 新田義貞の弟 ) が今張 ( 今治 )
の浦に上陸して、桜井の国分城 ( 唐子山 ) に入った。そこで伊予の南朝方の威勢が
大いにあがろうとしたが、義助は急に病気になって その年の11月に没した。
これは南朝方にとって大変な痛手で、北朝方にしられるのを怖れてその死亡を極秘
にした。 そのとき、大井時の法印義泰は前々から義助とは親しかったので、病気を
看病し、遺言も宝印に残した。宝印は義助の遺体を請い受けて夜中ひそかに国分城
をぬけ出し、脇の湯の尻 ( 清水谷 ) に埋葬した。  
後の人がここにお堂を建て霊を慰めたという。        大西町教育委員会


   


   


    


   


    
     史跡巡り 10、仙久寺    野間郡四国八十八ヶ所 第七十九番札所。 本尊・・・地蔵菩薩
    廃寺跡にあり、本尊の地蔵さんは仙久寺の本尊ともいわれ、人々の
    信仰が厚い。  昭和58年新築。     大西町史談会 案内板より
    

    


   
   上の池、池の名はわかりません。


   
   後方に仙久寺と少し離れて脇塚 ( 新田さん )


   
   下の池の反対側から、仙久寺と脇塚 ( 新田さん ) が遠くなりました。


    
     ここを入ると史跡巡り最後の脇屋義助五輪塔があります。


    
     建物と建物の奥にある脇屋義助五輪塔


   
史跡巡り 11、脇屋義助五輪塔 ( わきやよしすけごりんとう ) 
南朝の忠臣脇屋義助は、興国3年 ( 1342 ) 病を受け急死された、大井時の法印は
義助の骸をひそかに ここに運び葬ったと伝えられている。また、一方、重茂山城主
岡部十郎の墓ではないかとの説もある。  
    石は凝灰岩で、南北朝時代の作らしい。      大西町史談会 案内板より 


    


   


   
 まるで綿菓子のような雲がぽっかりと・・・・美味しそう ( 想像力が貧困 ) ・・・・・


    


    
     中脇灯篭 文化13年 ( 1816 ) 建立。


   


   


   
生垣の山茶花 ( サザンカ ) の花にハチが飛んで来たよ。


   
   バスが2台見えます、ゴールはもうそこです。


   
   11:45  3km・5km共通ゴールゴール駐車場到着。  駐車場からの風景。
         残念 !! 先のバスは出発したところでした。


   


   


   
   しばらく最後の人が到着するまで待って藤山健康文化公園へ出発。


    
    藤山健康文化公園の日本庭園でお昼のお弁当。


    


    


   
   皆廻池。


    


   
   12:30  藤山健康文化公園出発。


   
   12:55  さいさいきて屋到着。買い物・トイレ休憩。

 
     
     年賀はがきの店頭販売をしています。


     


     


   
   13:30  4号車が先頭で、さいさいきて屋出発。


    
    13:45  クアハウス今治到着。
歩いた距離 ( ウォーキンク&日本庭園散策 )・・・8.2km。 歩いた歩数・・・・12529歩。