〜 網敷天満宮梅園・古国分神社・唐子山 〜 ( 2018-03-10 )
3月の歩こう会は 桜井地区です 先ず 網敷天満宮から古天神へ、 神殿
奥のお手入れの良き届いた素晴らしい梅の古木を眺めながらをお弁当を
いただき、今治藩主の墓から最後に唐子山へ登り頂上辺りのそそり立つ
ような石段に難儀 ( 私は登り坂が苦手です ) をしたり今回もみんなで
( トム ( 茶夢 ) 君と杏ちゃんも一緒に ) ゴール網敷天満宮駐車場まで
今日も楽しく歩くことができました。
10:30 大西支所駐車場集合。
( 大西以外の方は現地桜井・網敷天満宮駐車場集合です )
4台の車に乗り合わせて、桜井・網敷天満宮へ出発。
10:40 網敷天満宮駐車場到着。
網敷天満宮梅林園へ。
梅の香りを楽しみながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
椀船の港
桜井の入り江は古代には現在の小学校の近くまで、また、南は長沢の元瀬あたり
まで拡がっていたと考えられる。
鎌倉時代の一遍上人の伊予出発が桜井の港から行われたように、古代においては
波浪を避ける天然の良港であったと思われる。桜井の入り江を潮の干潮による船の
運航、付近の伝承等から、額田王が詠んだ古代の熱田津と主張する人もいる。
付近には新開、新田、個人の名前がついた土地が多く、これらのホノギからも江戸
以時代降埋め立てが進み、現在のような河口になったと考えられる。
引き潮の時には干潟となるが、満ち潮になると50石帆船も停泊でき、かっては
椀船の出発、停泊地であり河口港の西側には漆器の倉庫が建ち並んでいた。現在も残る
内港は干潮時でも荷揚げが出来るように明治時代に造られた。
衣干岩
菅公が此の地に漂着した時に濡れた烏帽子や衣を干したと伝えられる岩。
衣干岩標柱歌は明治33年3月に建てられたもので歌は菅公千年祭にあたり、
太宰府の神宮が記したもの。
白波のうちおどろかす岩のうえに、
ねいらで松の幾世へぬらむ
明治三十三年三月 太宰府 宮小路康文謹書
お台場。
外国船の来航に備え松山藩が築造した砲台場である。築造当時は
3ヶ所あったが道路の拡幅のために現在一つが残っている。文永3年
( 1863 ) 3月今治藩では総社川裾、天保山脇、城下の浜、浅川裾に
同じく築かれ、台場砲鋳造のために胴や錫の供出が行われ、お城の
神子森移転も考えられた。
網敷天満宮東鳥居
網敷天満宮北鳥居
漆器の町桜井
桜井村が天領になったのは、明和2年 ( 1765 ) です。桑村郡 ( 周桑郡 ) のうち
10ヶ村、越智郡の内8ヶ村、併せて約1万石の松山藩の土地が天領になりました。
そして、桜井村に陣屋が設けられ、桜井村は天領18ヶ村の中心となった。
天領の年貢米は御用米となり、海上九里の新居浜へ運ばれ ( 一部は大阪へも ) 、
別子銅山で働く人の給米となった。この約5千石の御用米を積み出して送る廻船の
仕事を桜井の人々が取り組むようになり、桜井での廻船業が始まった。
廻船問屋の帆船は給米の輸送以外に西は九州、東は大阪にまで瀬戸内海を動き、
佐賀県の伊万里や唐津港で陶磁器を、和歌山の黒江では漆器を買い入れて桜井の
河口港に帰ってきた。
文化・文政 ( 1804〜1830 ) の頃、このような行商が確立し、桜井には
「 春は唐津、秋は漆器 」 の里言葉が残っており、この行商の船は椀船と呼ばれた。
桜井漆器の歴史はおよそ200年前に始まると言われ、文政11年 ( 1828 )
には月原紋左衛門他7名が漆器を製造していたと記録がある。 当初は庶民が使う
安価な漆器製品が中心だった。 天保年間 ( 1830〜1844 ) に重箱の角を櫛の歯型に
組み合わせる櫛指法 ( くしざしほう )という桜井独特の技法を完成し、一躍全国に
名を馳せた。その後、輪島や紀州からも熟練工を呼び寄せ沈金、蒔絵などの技法を高め、
現在に伝統を受け継いでいる。
古天神の鳥居 ( 1848 〜 1853 頃建立 )
ここを天神原という。 延喜元年 ( 901 ) 菅公筑紫へ左遷の途中、海上の風波を
桜井の浦に避けられたのを、浦人が綱を曲げて御蓙をとのえ抹けまいらせた。
後に、菅公よりご自作の尊像を賜つた。これを奉祀したのが始めであるという。
代々の国司の崇敬が厚く、『 今治拾遺 』 には、延宝3年 ( 1765 ) 6月4日 今治
二代藩主美作守定時 古国分ニ来タリご隠居所御覧、ソレヨリ天神ニ御参詣
貞享元年 ( 1684 ) 8月24日 今治三代藩主駿河守定陳 古国分天満天神参拝
とあり、今治藩主も毎年の大祭には参加されるのを例とした。
『 古国分由来記 』 には寛永年中 ( 1624 〜 1643 ) の社寺改めで、東西114間
( 約205 メートル ) 、南北55間 ( 約99メートル ) とあり広大な社域であった
ことがわかる。
古天神の由来
宝永7年 ( 1710 ) 8月から神輿の宮出し始まる。正徳3年 ( 1713 ) の祭礼に
別当寺国分寺総代僧神殿の扉を開くと鰡 ( ぼら ) が2本供えてあった。代僧は魚類を
供える事相成らんと社人を咎める。社人は例年の事であると答えると当社に限らず
別当付の神社は本地仏が祀られている ( 注 神仏混淆の時代天満神社の本地仏は観音 )
仏前に魚類を供えるのは不都合なりと論争に及び遂に祭礼中止、宮出しは出来なかった。
尚、神主土佐太夫は代官命令で社役取上げ閉門となり享保4年 ( 1719 ) 迄宮出しは
なかった。当時氏子は国分寺、国分、旦、桜井であった。納まらぬのは松山領である旦、
桜井の氏子達。別に天神社を祀ろうと現在の地に社殿を作り、分離してしまった。是を
新天神と呼び、当社を古天神と呼ぶようになった。
古国分庄屋所記録
農商務省明治33年8月6日
⇒ 古天神の由来拡大 第4098号検閲
境内の石碑より
鳥居前のお店で新鮮なトマトを買って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
県道38号 ( 今治街道 ) へ出る。
12:53 今治城主の墓上り口。
今治藩主、初代松平(久松)定房、3代定陳、4代定基の墓所です。
松平氏( 久松氏 )は徳川氏の一門であり、また松山藩松平氏( 久松氏 )の分家です。
藤堂高虎が伊勢に移った後へ、寛永12(1635)年に松平定房は伊勢長島6千石から
4万石( 後3万5千石 )で今治に転封となりました。
ぞれから10代明治に至るまで代々今治藩主として藩政を行って来ました。
この山は通称古国分山といわれ、国道196号線沿いにあり、入口には今治藩主之墓と
刻んだ石柱があります。 山上には中央に初代定房、左に3代定陳、右に4代定基と
巨大な3基の宝陜印塔形の墓石が瓦葺土塀に囲まれています。
石畳みの参道の両側には60墓ばかりの灯籠が並んで藩公の墓所にふさわしい所です。
松平氏( 久松氏 )の300年は平和に満ち、政治に心を注ぎ産業の発展に努力しました。
江島為信、河上安国らを抜擢して堅実な藩政の基を作った初期数代の藩主の治績は
よく知られていることです。
ここからは眼下に唐子浜を眺め大変景色のよいところです。
( 今治城主の墓説明板より )
今治城主初代久松定房、三代定陳、四代定基の墓が 67基の灯籠に護られ安置
されています。三代藩主定時 ( 1674〜1676 ) の墓は東京都江東区霊厳寺に
安置されています。
その左にはもう一つ祠があり地蔵菩薩が祀られています。
悪戦苦闘 ・・・・・・・・・・・・・ 頂上は もうすぐそこに 。
13:30 もうちょっと ・・・・・・・・ 手を引っ張って全員無事到着。
唐子山頂 ( 国分山城 国府城 国府山城ともいう )
国分山城の跡で、伊予水軍の村上武慶 ( 能島城主 ) のこもった城である。
天正15年 ( 1587 ) 福島正則は豊臣秀吉から越智郡以東11万石をあたえられて、
道後から府中城へ入つた。 正則はさらに清州城へ移り、その後へ小川祐忠が
移封された。 小川氏は関ヶ原の戦いに西軍に味方したため領地を没収され、
かわって藤堂高虎がここに入った。高虎は慶長7年 ( 1602 ) 今治城を築いたが、
その際この国分山城の城壁の石を運び去り、山上に松の木を植えたが、それが
茂り、唐子のまげを結ったのに似ているので唐子山と呼ぶようになったという
ことである。山頂からの眺めはたいへんすばらしいものである。
史跡・名所の小道 今治市
( 唐子山頂 説明板より )
道に迷ったお遍路さん国分寺へ行くそうです。
四国八十八ヶ所第59番札所国分寺は この先の県道165号線信号を
右折します。私達は左折網敷天満宮駐車場へ向かいます。
14:33 網敷天満宮駐車場 到着。
御手洗先生より来月4月7日の歩こう会
「 おおげ島 」行きについての説明。
15:16 大西支所到着。
本日の歩いた距離・・・7.9km。 歩いた歩数・・・12203歩。