桜井の史跡巡り ( 古天神・網敷天満宮・石風呂周辺 )

   桜井の史跡巡り ( 古天神 ・ 網敷天満宮 ・ 石風呂周辺 )  2016-10-22


   


   


 大西町史談会 ・ 桜井の史跡めぐりは 桜井史談会長 
飯野政俊先生のガイドで ( 古天神 ⇒ 新天神 ( 網敷天満宮 )
⇒ お台場 ⇒ 衣干岩 ⇒ 椀船の港 ⇒ 素波神社 ⇒ 石風呂 )
コースを回り、現地で解りやすく解説をして下さいました。
   桜井の史跡巡り ( 古天神・網敷天満宮・石風呂周辺 )
 伝説の道真公上陸の頃、すなわち延喜の昔・平安中期は
現在市街化している浜桜井は一面の砂州で、漁夫の住家
があったとしても数個にすぎず、むしろ漁具入れ小屋が散在
   ⇒ 上、表紙 拡大     していた程度であろう。 現在の江口は狭いが当時はその
 海面は郷桜井を海岸とし、南は長沢、西は天神橋付近まで拡がり、漁夫は郷桜井方面
 から砂州にまで出て漁労にいそしみ半農半漁の生活であったと想像される。  
                          桜井の史跡巡りより 


     
     12時50分、大西支所駐車場集合。  13時、大西支所駐車場出発。


     
     13時35分、古天神鳥居横に到着。


     
     古天神の鳥居 ( 1848 〜 1853 頃建立 )
 ここを天神原という。 延喜元年 ( 901 ) 菅公筑紫へ左遷の途中、海上の風波を
桜井の浦に避けられたのを、浦人が綱を曲げて御蓙をとのえ抹けまいらせた。
 後に、菅公よりご自作の尊像を賜つた。これを奉祀したのが始めであるという。
代々の国司の崇敬が厚く、『 今治拾遺 』 には、延宝3年 ( 1765 ) 6月4日 今治
二代藩主美作守定時 古国分ニ来タリご隠居所御覧、ソレヨリ天神ニ御参詣
 貞享元年 ( 1684 ) 8月24日 今治三代藩主駿河守定陳 古国分天満天神参拝
とあり、今治藩主も毎年の大祭には参加されるのを例とした。
 『 古国分由来記 』 には寛永年中 ( 1624 〜 1643 ) の社寺改めで、東西114間
( 約205 メートル ) 、南北55間 ( 約99メートル ) とあり広大な社域であったことがわかる。


   


   
   古天神拝殿


     
     神殿


     


      
  飯野桜井史談会長のテキスト「 桜井の史跡巡り 」を 見ながら説明を受ける。


   
網敷天満神社 ( 古天神 ) と 網敷天満宮 ( 新天神 ) の宮司さん 御夫婦も一緒に
参加、色々と 昔のお話をして下さいました。


    


    
   古天神からの参道は鳥居の先も一直線に桜井の街に延びていたそうです。


    
    一千七十五年 式年祭記念碑


    
    古天神の由来
  宝永7年 ( 1710 ) 8月から神輿の宮出し始まる。正徳3年 ( 1713 ) の祭礼に
 別当国分寺総代僧神殿の扉を開くと鰡 ( ぼら ) が2本供えてあった。代僧は
 魚類を供える事相成らんと社人を咎める。 社人は例年の事であると答えると
 当社に限らず別当付の神社は本地仏が祀られている ( 注 神仏混淆の時代
 天満神社本地仏は観音 ) 。 仏前に魚類を供えるのは不都合なりと論争に
 及び遂に祭礼中止、宮出しは出来なかった。尚、神主土佐太夫は代官命令で
 社役取上げ閉門となり享保4年 ( 1719 ) 迄宮出しはなかった。 当時氏子は
 国分寺、国分、旦、桜井であった。納まらぬのは松山領である旦、桜井の氏子達。
 別に天神社を祀ろうと現在の地に社殿を作り、分離してしまった。是を新天神と
 呼び、当社を古天神と呼ぶようになった。
                           古国分庄屋所記録
                         農商務省明治33年8月6日
⇒ 古天神の由来拡大             第4098号検閲
                                  境内の石碑より


    


    
    戸倉屋漆器


    


     


     


   


          
        店の奥にて ご主人から櫻井漆器について色々と伺いました。


   
左、櫻井漆器の起源 北高生徒の原稿 ( 漢字とカタカナで書かれている ) を解説。
右、また、生徒達のスプーン塗りの体験学習も行っているそうです。


    
    櫻井漆器の起源  今治北校 生徒     ⇒ 櫻井漆器の起源 拡大  


    
    愛媛県越智郡 櫻井町大字櫻井濱地図       ⇒ 櫻井濱地図拡大


    漆器の町桜井
 桜井村が天領になったのは、明和2年 ( 1765 ) です。桑村郡 ( 周桑郡 ) のうち
10ヶ村、越智郡の内8ヶ村、併せて約1万石の松山藩の土地が天領になりました。
そして、桜井村に陣屋が設けられ、桜井村は天領18ヶ村の中心となった。
 天領の年貢米は御用米となり、海上九里の新居浜へ運ばれ ( 一部は大阪へも ) 、
別子銅山で働く人の給米となった。この約5千石の御用米を積み出して送る廻船の
仕事を桜井の人々が取り組むようになり、桜井での廻船業が始まった。
 廻船問屋の帆船は給米の輸送以外に西は九州、東は大阪にまで瀬戸内海を動き、
佐賀県伊万里唐津港で陶磁器を、和歌山の黒江では漆器を買い入れて桜井の
河口港に帰ってきた。
 文化・文政 ( 1804〜1830 ) の頃、このような行商が確立し、桜井には
「 春は唐津、秋は漆器 」 の里言葉が残っており、この行商の船は椀船と呼ばれた。


 桜井漆器の歴史はおよそ200年前に始まると言われ、文政11年 ( 1828 ) には
月原紋左衛門他7名が漆器を製造していたと記録がある。当初は庶民が使う安価な
漆器製品が中心だった。 
 天保年間 ( 1830〜1844 ) に重箱の角を櫛の歯型に組み合わせる櫛指法 ( くしざしほう )
という桜井独特の技法を完成し、一躍全国に名を馳せた。
 その後、輪島や紀州からも熟練工を呼び寄せ沈金、蒔絵などの技法を高め、現在に
伝統を受け継いでいる。


   


   
   色鮮やかな櫻井漆器の数々を眺めていると、心も華やいでくるようです。


    


    
 やがて、売り子の中で資本を蓄えたものは親方となり、大正中期には桜井の全
戸数の3分の一近くが椀船行商にかかわったと言われている。
 大正期以降は漆器以外にも各商品を含めて月掛け販売を進める業者が成長し、
我が国に於ける月賦販売の発祥となった。 しかし、安価な化学製品や生活様式
の変化等の影響を受け、桜井の漆器店・職人はわずかとなったが、伝統、ニーズに
合わせた製造・販売を行っている。


   
   新天神 北鳥居


   
   廻船問屋寄贈の北の大鳥居 ( 1827 )


    


    


   
   荒神


   
荒神社前御手洗。               享保7年 ( 1722 ) 


   
 境内の広さは 約11万平方メートル、約3千本の黒松の巨木と白砂青松の
 景勝地である。


     
     月賦販売発祥記念の碑



     
               ⇒ 月賦販売発祥記念の碑 拡大


   


   
   網敷天満宮 ( 新天神 ) 旧県社
 菅原道真公が筑紫へ下向の時、風波の難により当地に漂着され、郡司越智息利ら
里人とともに道真公の至誠に接し、後に形見の神像を素波神と称して奉祀りした。
 伊予旧記によれば天慶5年 ( 942 ) 9月25日の創建と伝えられる。
 元弘3年9月25日 国主伊予守越智通村より神殿の再建と神田の奉納があり、河野
一門の崇敬厚く、天慶5年素波神を網敷天満宮と称した。
 正徳2年 ( ) 神仏分離により荒神社に合祀したが、享保5年 ( 1720 ) 6月28日
松山藩主 松平隠岐守により現在の地に社殿が建設された。
『 愛媛面影 』 には、網敷天満宮について 「  一  ( 略 )  一  宮殿の結構殊に麗しく
後世神社の頽廃せるもの多し。この神社のみは古に勝りてめでたし。さるはこの神の
恩頼に依りて村民の生業も栄え行く故なるべし 」 と書かれている。 
 桜井漆器椀船行商の隆盛とともに栄えてきた神社であり、椀船関係の石造物が数多く
見られる。


   
   拝殿正面の彫刻




     
伊万里商人からの灯籠。           伊万里 仲間 陶器屋  今治石工 小田太助


    
    拝殿前の玉垣


   
椀船の名が刻まれています。


   
   風呂神社正面。


      
      拝殿の奥にある3つの神社を記した石標。
  

    
    左、桜井神社・・・桜井開祖の神。  中央、風呂神社・・・安産育児の守。  
    右、事代主神社・・・産業繁栄の神が祀られています。


   
産業繁栄の神 事代主神社。   玉垣には大阪商人の屋号も刻まれています。         


   
   風呂神社全景。


   
(ウソ)                     筆塚。


   
   天神様と牛。     ⇒ 天神様と牛 拡大 


    
    吹きっ晒の絵馬堂は 絵馬も文字も消えかけています。


    


   
   絵馬堂。


   


   
   網敷天満神社 西鳥居 天保2年 ( 1831 )


           
           波止浜の廻船問屋奉納常夜燈。


   
   志島ヶ原海岸。


   
   東鳥居 嘉永5年 ( 1852 )


   
   お台場。
 外国船の来航に備え松山藩が築造した砲台場である。 築造当時は3ヶ所あったが
道路の拡幅のために現在一つが残っている。  文永3年 ( 1863 ) 3月 今治藩では
総社川裾、天保山脇、城下の浜、浅川裾に同じく築かれ、台場砲鋳造のために胴や
錫の供出が行われ、お城の神子森移転も考えられた。


   


    


    
              ⇒ お台場 ( 砲台 ) 拡大 


   


   


   
   衣干岩
  菅公が此の地に漂着した時に濡れた烏帽子や衣を干したと伝えられる岩。
 衣干岩標柱歌は明治33年3月に建てられたもので歌は菅公千年祭にあたり、
 太宰府の神宮が記したもの。
     白波のうちおどろかす岩のうえに、
           ねいらで松の幾世へぬらむ
                   明治三十三年三月  太宰府 宮小路康文謹書 


          


   


     


   
   椀船の港。
 桜井の入り江は表紙にもあるように古代には現在の小学校の近くまで、また、
南は長沢の元瀬あたりまで拡がっていたと考えられる。
 鎌倉時代一遍上人の伊予出発が桜井の港から行われたように、古代におい
ては波浪を避ける天然の良港であったと思われる。桜井の入り江を潮の干潮に
よる船の運航、付近の伝承等から、額田王が詠んだ古代の熱田津と主張する人
もいる。 付近には新開、新田、個人の名前がついた土地が多く、これらのホノギ
からも江戸時代以降埋め立てが進み、現在のような河口になったと考えられる。
 引き潮の時には干潟となるが、満ち潮になると50石帆船も停泊でき、かっては
椀船の出発、停泊地であり河口港の西側には漆器の倉庫が建ち並んでいた。
 現在も残る内港は干潮時でも荷揚げが出来るように明治時代に造られた。


   
   現在の河口。


   
   椀船の港。


   


   
   素波神社。
 最初に建てられた一祠。鮮魚を里人に献上されるなどの厚意に感じた道真は、舵柄に
自像を刻み「 私は菅原道真である。もし私が無事帰洛できたなら、この像を証拠として
都を訪ねなさい。私が配地で没したと耳にしたなら、この像を素波神 ( そばがみ ) と称し
祀るように 」 と述べたと伝えられている。 道真公は太宰府で没し、素波神は当地南端の
祠に祀られることとなった。 現存のものは鎮座千百年式年大祭 ( 1997 ) に新築。
 前述の伊予日記には「 天慶5年 ( 942 ) に素波神を網敷天満宮と改称。正徳2年
( 1712 ) 神仏分離により荒神社に合祀。 享保6年 ( 1721 ) 6月28日に社殿を
志島ヶ原に建立す。 」とある。
   

    


    
    石風呂へ。


    
        ⇒ 2010年2月14日、始めて桜井石風呂に
        ⇒ 2013年10月10日、コスモス畑と石風呂薬師にお参り


    


         
         桜井石風呂碑


    
                ⇒ 桜井石風呂碑 拡大 


    
    石風呂。
 石風呂は、自然の岩山をくり抜いた洞窟の中で、シダや松葉を焚き、海水で濡ら
したムシロを敷き詰め、そこに海水をかけ蒸気を発生させるサウナの古代版だ。
 蒸気は60度から70度にもなり何分も経たない内に汗が吹き出る。熱くなつた
身体を涼風に当てたり、海に飛び込んだりしてさますと、心身ともにリラックスできる。
神経痛やリュウマチ、肩こりや喘息に効果があり、風邪を引かないといわれている。
この石風呂は、国分尼寺の開祖 證屋爾尼が始めたとする説、弘法大師が開設した
( 法華寺の 「 温石窟縁起 」 では弘法大師が訪れたとのきろくがある。 ) という伝説
や地元の庄屋長野孫兵衛が都から漂着した姫君の病気を治すために始めたという
説がある。石風呂入り口には南明禅師が日高の嘯月院にいた頃 ( 1676〜1681 )
石風呂に入浴に来られ、その効能をたたえた詩碑がある。
 かつては、瀬戸内海各地に同様の施設があったというが、現在残っているのは
桜井の石風呂の他にわずかしかない。


    
    石風呂は施設の老化により現在休業状態です。


 


   


    
    薬師堂。


          
          薬師堂内。


   
薬師堂の裏にはでっかい石の塔。


    


    
 古天神から始まり〜戸倉屋陶器店〜新天神 ( 網敷天満宮 ) 〜お台場〜衣干岩〜
 椀船の港〜素波神社〜石風呂と、約2時間20分、桜井史談会長 飯野政俊先生の
 ガイドにより 無事皆さんと一緒に楽しく桜井の史跡巡りが出来ました。


   


    
    16時、石風呂を後に大西町へ。


    
    16時45分、大西支所駐車場に到着。