第8回 西国三十三観音巡り 30番〜33番バスの旅 ( 2015-10-07〜10-08 )
6時55分〜約10分間休憩。
7時20分、川之江ICで最後の乗客を乗せて出発。
眼下に 瀬戸大橋の途中にある与島サービスエリア 一度下りてみたいところです。
今回参拝の西國霊場のビデオを見る。
華厳寺総門を入った左側の大型バス駐車場でワゴン車に乗り換え・・・・・
長い距離では無いのですが参道を仁王門前の立花屋さんへ。
仁王門前 ( 西国三十三番 谷汲山 華厳寺 ) の立花屋旅館で昼食。
西国三十三番 谷汲山 華厳寺の荘厳な仁王門を入る。
『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族
大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は
都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立。彼は観音像とともに
会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が
動かなくなってしまう。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを
受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人
(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。
延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が
「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が
鎮護国家の道場として勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。
「谷汲山」という山号は、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が
汲めども尽きなかったことに由来する。
仁王門を入ると、参道の中央に三十三度石があり、石畳の参道が続く
三十三とは、三十三観音など現世利益を願う数だそうです。
ちなみに 百度石も。
本堂 ( 観音堂 ) ⇒ 現世を意味する納経
笈摺堂。 ⇒ 未来世を意味する納経
笈摺堂でお勤め。
当寺には花山法皇が禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したとされる。
この堂には今日も西国三十三所巡礼を終えた人々が奉納した笈摺、朱印帳等が
置かれ多数の千羽鶴が奉納されている。
千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納される。
満願堂。 本尊は 十一面観世音菩薩。 納め札は満願堂で納めます。
⇒ 過去世を意味する納経
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を
第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を
奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行
千有余人を従えて巡幸したという。
苔ノ水地蔵。
身体の部分で悪いところ 気になるところに、水に濡らしたお札を貼って祈ります。
一枚20円、百円玉で5枚・・・・・両手、両膝 頭にも欲張ったかな !!
立花屋さんのワゴンで駐車場へ。
彦根城。
和菓子のたねやさん。
洋菓子のクラブハリエでバームクーヘンを
店を出て彦根城を右に眺めながらバスは・・・・・・・・日本海 ? 琵琶湖でした。
4時30分頃の琵琶湖。
明日は彦根港から竹生島の第三十番札所宝厳寺へ参拝、船が出るか心配。
5時、休暇村 近江八幡到着。
温泉に入り209号室にて就寝。
( 4人部屋でちょっと狭かったけど、楽しく御喋り知らぬ間に夜がふけて・・・・・ )
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