藤山古墳・梅の花
藤山古墳 ( 市指定文化財 )
明治三十六年 ( 1903 ) に発掘されました。地下約50cmのところに青石製臥棺
( 約75cm × 60cm ) があり、その中に朱や辰砂 ( しんしゃ ) で密封された人骨が
収められ、埋葬品は平面丸型銅鏡と鉄剣が入っていました。
藤山古墳下のふるさとこみちの先に尊真親王 陵墓参考地があります。
尊真親王 ( たかざねしんのう ) 陵墓参考地
藤山健康文化公園 陽だまりの丘 ( 藤山古墳 ) の横に木々が生い茂っている一画が
あります。ここは後醍醐天皇の皇子 「 尊真親王 」 の墓とされており、宮内庁が
管理しています。
南北朝時代の初期、延元元年 ( 1336 ) 11月、後醍醐天皇の皇子 尊真 ( たかざね ) ・
満良 ( みつなが ) ・ 懐良 ( かねなが ) の 三親王は南朝の勢力拡大のため、大館氏明、
篠塚伊賀守ら40人余りを従えて大井浦に着きました。 伊予の国司河野道政は これ
をお迎えし、大井寺を御座所としました。 しかし同年12月に北朝方の不意打ち
にあい、多くの将兵は討ち死にし、尊真親王も負傷しました。 尊真親王は大井寺
において阿波、讃岐の北朝の勢力を除こうとしましたが果たせず、延元3 ( 1338 ) 年3月8日に亡くなり、藤山へ埋葬、みたまは大井八幡神社へ合祀されたといわれ
ています。