藤山健康文化公園~妙見山古墳散策
昨日までの寒さがうそのよう散歩にぴったりの良いお天気になりました。コロナ感染や
寒さを理由にすっかり出無精になっていましたが ・・・・・・・・・・ 先ず、今日は思い切って
藤山健康文化公園から妙見山古墳を歩きました。
荒神池
冒険斜面園地への坂道
斜面園地園地を横切って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
斜面園地と陽だまりの丘をつなぐ水道橋へ・・・・・・・・・・・・
水道橋より妙見山古墳を眺める。
水道橋より北駐車場方向の眺めです。
ふるさと小道へ。
藤山古墳 ( 市指定文化財 )
明治三十六年 ( 1903 ) に発掘されました。地下約50cmのところに青石製臥棺
( 約75cm × 60cm ) があり、その中に朱や辰砂 ( しんしゃ ) で密封された人骨が
収められ、埋葬品は平面丸型銅鏡と鉄剣が入っていました。
藤山古墳からの眺め
藤山古墳下のふるさと小道の先に尊真親王 陵墓参考地があります。
尊真親王 ( たかざねしんのう ) 陵墓参考地
藤山健康文化公園 陽だまりの丘 ( 藤山古墳 ) の横に木々が生い茂っている一画が
あります。ここは後醍醐天皇の皇子 「 尊真親王 」 の墓とされており、宮内庁が管理
しています。
南北朝時代の初期、延元元年 ( 1336 ) 11月、後醍醐天皇の皇子 尊真 ( たかざね ) ・
満良 ( みつなが ) ・ 懐良 ( かねなが ) の 三親王は南朝の勢力拡大のため、大館氏明、
篠塚伊賀守ら40人余りを従えて大井浦に着きました。 伊予の国司河野道政は これを
お迎えし、大井寺を御座所としました。 しかし同年12月に北朝方の不意打ちにあい、
多くの将兵は討ち死にし、尊真親王も負傷しました。 尊真親王は大井寺において阿波、
讃岐の北朝の勢力を除こうとしましたが果たせず、延元3 ( 1338 ) 年3月8日に亡くなり、
藤山へ埋葬、みたまは大井八幡神社へ合祀されたといわれています。
かりふぉるにあ船長 住村博士像 久松定武 書
大正14年4月15日、越智郡大井村宮脇( 現大西町 )に生まれる。今治中学校
を経て神戸高等商船学校へ、昭和23年卒業、昭和28年甲種船長免許を修得し、
外国航路の船長を歴任する。同45年2月、第一中央汽船の 「 かりふぉるにあ丸 」
の船長としてロサンゼルスから鉱石を積んで和歌山に向かう途中、9日午後10時
ごろ、千葉県野島沖東方360キロメートルで暴風雨に遭い、船体に亀裂を生じて
浸水し、船体が傾斜し激浪に阻まれて、船員6人が波にのまれる。翌10日、救助の
外国船が到着し、残り22人と漂流中の2人が救助された。住村船長は脱出を断り
船橋から手を振りつつ、船と運命をともにした。その強い責任感は船員魂の権化と
たたえられた。昭和45年2月10日、44歳で死去。故郷宮脇に胸像が建てられました。
忠霊塔
藤山健康文化公園に隣接する忠霊塔は 昭和33年に建立されました。
日清戦争、日露戦争、太平洋戦争で亡くなられた英霊285柱をお祀りしています。
藤山歴史資料館
しょうぶ園
恋の池からの流れは ( 階廻池からの水をポンプで汲み上げ水路を流れた水は又
階廻池へと流れ込む循環式です。 )
2号墳
2号墳沿いから1号墳を眺める。
挨拶を交わして・・・・・・・・・・・・
東屋の奥に妙見神社
西駐車場へ。
日本庭園
皆廻池と親水広場
皆廻池の水をボンプで恋の池へ汲み上げ 水路を流れた水は又皆廻池へと流れ込む
循環式になっています。
恋の池から親水広場に流れ落ちた水は水路を流れて階廻池へと・・・・・・・・・・・・
バイバイ~
恋の池から水路を伝わり流れ落ちる人口の滝。
中池前東駐車場へ。