最初は 2014年9月28日、史跡 竹田城跡。 2015年9月27日、国史跡 備中松山城。
2016年9月25日、国宝 松江城。 2017年10月1日、日本初の世界文化遺産 姫路城。
昨年2018年10月28日は 岡山城と、其々個性のあるお城を巡りました。
今年は、江戸時代に多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城である
彦根城と中国の瀟湘 ( しょうそう ) 八景・近江八景を模したといわれる玄宮園の池に映る
天守閣を期待していましたが、突然の雨で残念ながら池に映る天守閣は・・・・・・・・・・ !!
6 : 15 大西公民館集合。 いずみ観光 ( 株 ) 川口 清運転手・日浅
6 : 30 31名を乗せて出発。 賢四郎運転手のお世話になります。
6 : 45 今治駅 4名乗車。 6 : 48 近見 2名乗車。
6 : 52 今治北IC~しまなみ海道へ。 7 : 05 伯方島4名乗車 ( トイレ休憩 )
7 : 14 伯方島 出発。
7 : 15 大西町史談会 村上勝正 会長挨拶。
旅の日程を説明後、研修旅行資料 ( 国宝・彦根城と大名庭園・玄宮園 ) の説明。
1、彦根城
・彦根城は天守、附櫓、多門櫓が国宝である。天守が国宝指定は5城ある。犬山城、松本城、姫路城、松江城、
彦根城である。彦根城は多くの大老を輩出した譜代大名である井伊14代の居城であった。
・ひたすら主君を想い生涯徳川家のためにつくした三河家臣の面々のうち、なかでも四人が戦歴を残し、功名
を天下に示した人物を徳川の四天王という。その内の一人が井伊直政であった。四天王の中では最年少で、初陣は16歳であった。直正の率いる軍兵はみな赤い旗、甲胄で身を固めたところから、敵は赤鬼と呼び恐
れた。直正は慶長5 ( 1600 ) 年、関ケ原の戦いの後、その軍功により18万石にて、石田三成の居城であった近江国佐和山城の城主となったが、関ケ原の戦傷が癒えず、2年後の慶長7年にわずか42歳で死去した。
・家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直正の遺臣である家老の木俣守勝が、家康と相談して直正の遺志を継ぎ、慶長8年琵琶湖に面した彦根山 ( 標高50m ) に彦根城の築城を開始した。築城には公儀御奉行3名が付
けられ、尾張藩や越前藩など7か国 12大名 ( 15大名とも ) が手伝いを命じられる天下普請であった。
第3期の工事の後、元和8 ( 1622 ) 年すべての工事が完了し彦根城が完成した。その後井伊氏は加増を重ね、寛永
10 ( 1633 ) 年、徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。
安政元 ( 1854 ) 年に天秤櫓の大修理が行われ、その際石垣の半分が積み直され、向かって右手が築城当初からの
「 牛蒡 ( ごぼう ) 積」( 野面積の一種 ) 、左手が新たに積み直された「 落し積み 」の石垣である。
・幕末に大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主になるまでこの城下町で過ごしており、その時に住んだ屋敷は
「 埋木舎 ( うもれぎのや ) 」として現存している。
・彦根城は家康が豊臣秀吉をけん制するために、建てさせた戦いのための城で、壁の鉄砲穴も外から見えないように作られ、敵が中に攻め入っても、階段を上がってくる敵を上から突き落とせるように急な角度 ( 62度 ) になっている。また梯子のような階段は、ただ上の小さな掛かりが掛かっているだけで、敵が登らんとすれば、蹴って階段を落とせる構造となっていた。天守内にはトイレなどの水回りは一切なく、お殿様が住んでいたのは「 表御殿 」で、入城入口の隣にあるお屋敷で、今は「 彦根城博物館 」となっている。
・天守に向かうにはまず「 表坂 」を登っていくが、一段一段妙に歩幅があわないよう不規則に作られ、ここを駆け上がるとつまづきやすい構造になっており、敵が足元に気を取られている間に鉄砲で襲撃するという第1の罠 ( わな ) である。
・なんとか表坂を登ると櫓にかかった大きな橋が見えてくる。この橋は「 廊下橋 」という名で、敵がせめてくると橋の片方を外しておとす。片方が落ちることでてきが渡れないようにする第2の罠である。
・櫓は正面から見ると、両端に荷物を下げた天秤のように見えることから「 天秤櫓 」といい重要文化財になっている。日本の城郭でこの形式のものは彦根城だけであるる櫓の石垣も石の積み方が異なっており、右側の大小さまざまな石がランダムに積み重なっているのが、築城当初の「 牛蒡積み 」である。自然石を作為なく積んでいるように見えるが、実は細長い石が奥にのびるように並べられており、降った雨水が石垣に吸収されるようになっている。左側の石垣は石の接する部分が加工されており、表面がなめらかに見える。その後、修復された際に積み直されたもので、「 落し積み 」という手法で積み上げられている。
・天秤櫓からさらに進むと、彦根城下に時を知らせる「 時報鐘 ( じほうしょう ) 」が見えてくる。当時この鐘の音は約30km先まで聞こえていた。現在も6時から18 時まで 3時間おきにならされる。一般の人が打てるのは大晦日のみである。
・次に素通りしてしまいそうな大きな岩があるが、太鼓門櫓のすぐそばにある3億年前の褶曲 ( しゅうきょく ) 岩盤で、海底にあった岩が地上に隆起して現れたものである。
・彦根城は「 唐破風 ( からはふう ) 」、「 切妻破風 」、[ 入母屋破風 」などを駆使した屋根や、寺院建築の要素なども取り入れられており、現存するほかの天守にはない美しさだといわれ、東西南北の面で佇まいが異なる天守である。
・外観の美しい様子とは異なり、内部は戦いのための仕掛けがあらゆるところに設けられている。内部には隠し部屋と呼ばれる部屋が4箇所あり、それぞれ4~5人が隠れることができる。他に天守閣にはいたるところに鉄砲狭間 ( さま ) や矢狭間を見ることができる。狭間とは攻撃用の穴で、外からは見えないように漆喰壁で塗り固められているが、戦いの時は中から狭間を突き破り、鉄砲や矢で攻撃できるようになっている。隠し部屋や狭間など、天守内には80以上の罠が仕掛けられている。このような仕掛けの数々から、実は「 恐ろしい城 」といわれていた。戦いに備え完璧な守りが施されていたが、一度もこの城で戦いが行われることはなかった。現在、天守最上階からは穏やかな街並みや石田三成の城があった佐和山を眺めることができ、彦根の城下町から琵琶湖の方まで見渡すことができる。
2、玄宮園
・彦根城のもう一つの見所が国の名勝「 玄宮園 」である。彦根城の4代藩主井伊直弼により整備された庭園で、別称「 欅 ( けやき ) 御殿 」ともいわれている。玄宮園は中国の離宮庭園を参考に「 近江八景 」が表現されており、天守を借景に中心の池には4つの島と9つの橋がかかつた回遊式の庭園になっている。当時は庭園北側の水門から船で琵琶湖まで出られるようになっていた。様々な種類の植物と池の色が緑の濃淡の連続的変化を作り出し、美しい雰囲気で、大名庭園ならではの趣を味わうことができる。また紅葉の時期の美しさは格別である。色づく木々に囲まれた玄宮園は息をのむほどの美しさである。
3、彦根城に来たらぜひ会いたいのが、彦根のゆるキャラ「 ひこにゃん 」であるが・・・・・・・・・・・・・・・・・
7 : 40 彦根城と玄宮園の説明は終わりました。ホント ひこにゃんにあえるかな ❔
8 : 04 福山東サービスエリア到着 ( トイレ休憩 )
8 : 1 1 福山東サービスエリア出発 ( お茶の配布あり )
8 : 42 吉備サービスエリア到着 ( トイレ休憩・昼食の買い物、バスの中で頂きます ) 。
8 : 59 吉備サービスエリア出発。
10 : 30 宝塚北サービスエリア到着 ( トイレ休憩 ・とっても美しいトイレでした )
※ 昨年 2018年3月18日 ( 日 ) 新名神高速道路開通 ( 川西IC~神戸JCT間 ) と同時オープン。
10 : 59 宝塚北サービスエリア 出発。
12 : 07 彦根ICを出る。
県道517号 ( 彦根城線 ) 彦根市民会館前~ 護国神社前 交差点より県道518号線
彦根城外堀跡を右折。右手前に彦根観光センターと観光バス駐車場。
正面は 彦根城二の丸佐和口多門櫓へ続く「 いろは松 」県道518号線。
12 : 15 いろは松観光バス駐車場 到着。
2班に分かれて出発 ( 1班、バスの通路より右側・2班、通路より左側の座席 )
ガイドさんによるいろは松の由来は。
色はにほへど散りぬるを・・・・・・・・・・・・・・・・・47文字 47本の松
江戸から帰ってきたお殿様が挨拶を交わす重要な場所。
いろは松
昔は47本あったことから、いろは47文字の頭文字をとって "いろは松" とよばれた。
この松は土佐松で地上に根を張り出さず人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ
高知から移植されたものである。
国重要文化財 彦根城二の丸佐和口多門櫓
佐和口は、中堀に開く4つの口の1つで「 いろは松 」に沿った登城道の正面に位置し
ています。佐和口には、かって中堀に接して高麗門があり、その内側を鈎の手に櫓門が
築かれていました。城門の形式としては最強の桝形で、重厚な構えとなっていました。
埋木舎
幕末の第十三代城主井伊直弼が17歳から32歳までの青春時代15年間を300表の捨扶持で
過ごした舎で、直弼自身は自ら生涯花咲くこともあるまいと埋もれた木に例えて埋木舎と呼んだ。ここで彼は茶道、華道、禅、歌道、武術などの研究に励んだ。
茶道では石川流を学び、裏手にある茶室は 露軒と名づけ、数多くの弟子に一期一会の
茶道精神を伝えた。徳川幕府の大老として幕末動乱期、開国の父となった才能の礎はこの埋木舎で暮らした時代に培われた。建物は昭和60年度から6年間に亘って修復しました。
時間があれば帰りに寄りたいと思いますが ・・・・・・・駄目かも。
桝形の二の丸佐和口多門櫓をはいり接続する馬屋をまわり・・・・・・・・・・・・・
二の丸佐和口多門櫓裏手の二の丸駐車場へ。
表門橋
登 り 石 垣
立 堀
山の下から上へと石垣や竪堀で
敵を防ぐ ( 4ヶ所 )
表御門跡
表御殿 ( 彦根城博物館 )
彦根城博物館は、江戸時代に彦根藩の政庁であった表御殿の復元と博物館機能の一体化を目指し構想・建築され、昭和62年 (1987) 2月11日、市政50周年を記念し開館しました。
彦根は、彦根城を中心とする城下町として栄え、数々の歴史・文化を育んできました。彦根の歴代藩主であった井伊家には、このことを物語る豊富な美術工芸品や子文書が伝えられてきました。その数は約4万5千点にのぼり、武家を象徴する甲胄・刀剣をはじめ能面・能装束・雅楽器・茶道具・調度品や書・絵画などあらゆる分野にわたっています。加えて、彦根および彦根藩に関する資料も収集しています。 ( 彦根博物館パンフレットより )
12 : 40 ~ 13 : 03 約23分、彦根城博物館の観覧 ( 素晴らしいの一言に尽きる )
お城の石段
彦根城へ登る山道は4箇所ありますが、その石段は非常に登りづらいと言われてい
ます。もともと城への石段は、万一敵が攻め入った場合、歩調が乱れ一息で登れない
よう、意図的に不規則に造られているのです。お寺の屋根のように最初はゆるやかな
登が、登るにつれて斜度が急に登りにくくなったり、踏み幅や踏み高と、絶妙に併せ
一定にせず、敵に対しては足元に注意を向けながら登らせ、上から攻撃しやすくして
いるのです。 ( 表坂登り口 説明書きより )
天守に向かうにはまず「 表坂 」を登っていくが、一段一段妙に歩幅があわない
よう不規則に作られ、ここを駆け上がるとつまづきやすい構造になっており敵が
足元に気を取られている間に鉄砲で襲撃するという第1の罠 ( わな ) 。
坂を登りきると堀切に至ります。
廊下橋
敵がせめてくると橋の片方を外しておとす。片方が落ちることでてきが渡れないよ
うにする第2の罠。
櫓は正面から見ると、両端に荷物を下げた天秤のように見えることから「 天秤櫓 」といい重要文化財になっている。日本の城郭でこの形式のものは彦根城だけであるる櫓の石垣も石の積み方が異なっており、右側の大小さまざまな石がランダムに積み重なっているのが、築城当初の「 牛蒡積み 」である。自然石を作為なく積んでいるように見えるが、実は細長い石が奥にのびるように並べられており、降った雨水が石垣に吸収されるようになっている。左側の石垣は石の接する部分が加工されており、表面がなめらかに見える。その後、修復された際に積み直されたもので、「 落し積み 」という手法で積み上げられている。
廊下橋をくぐり石垣沿いに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
歩きにくい石段を登り左折すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鐘の丸へ出て石垣沿いに左折すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
天秤櫓と廊下橋
廊下橋からの眺め。
天秤櫓からさらに進むと、彦根城下に時を知らせる「 時報鐘 ( じほうしょう ) 」が見えてくる。当時この鐘の音は約30km先まで聞こえていた。現在も6時から18 時まで 3時間おきにならされる。一般の人が打てるのは大晦日のみである。
「 聴鐘安( ちようしょうあん) 」・「 時報鐘 ( じほうしょう ) 」の前を右折し太鼓門櫓へ。
太鼓門櫓のすぐそばにある3億年前の褶曲 ( しゅうきょく ) 岩盤は、海底にあった
岩が地上に隆起して現れたものです。
太鼓門櫓及び続き櫓 ( 重要文化財 ) 桃山時代
指定年月日 昭和26年9月22日
太鼓門櫓を入り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
太鼓門裏側
やっと 本丸へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
彦根城天守閣
国宝彦根城天守閣は東西に附櫓 ( つけやぐら ) が、さらに長い多門櫓が重なります。また、破風は変化の妙
に富んでいます。天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化
をもたせ、二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北には唐破風が設けられています。この切
妻破風、入母屋破風、唐破風を組み合わせた 類い希な 美しさは見逃せません。彦根城の天守は、長方形 ( 梁行
に対して桁行が長い ) で、表門から登ると目に入る東の面や、琵琶湖側から望む西の面は、そそり立ち端正な佇まいを見せます。逆に南、北の面はどっしりと幅が広く安定した面持ちです。また、一層目は、大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸になっています。
彦根城の前で記念撮影
左側に付櫓、右側こちらは現在の見学ルートの続櫓 ( 多門櫓 ) 入口へ、
続櫓 ( 多門櫓 ) 入口からの眺め ( 手前に井戸曲輪 )
多門櫓を入る。
多門櫓内。
火頭窓
鎌倉時代に禅宗建築として伝来した建築様式を禅宗様 ( 唐様 ) という。中国の宋時代に行われていた様式をそのまま輸入した様式で、初めは禅宗様式のみに用いられていたが、やがて他の宗派の建築にも波及し、のちには、一般の寺院建築や城、住宅にも広く使われるようになった。
火頭窓には、花頭窓、火灯窓、火燈窓、架頭窓、華頭窓、など、幾つかの字があてられるが、要するに上部が繰形をなすきょくせんから成る窓のことである。石山寺本堂の源氏の間にあるところから「 源氏窓 」と呼ばれることもある。一般的な傾向として、古い形式のものは、竪框が垂直に近く、時代が下がるにつれて脚元がひらいていく、中央頂部が尖塔形となっていて火のように見えることから、火頭窓というが、木造建築では火の字を嫌うので花頭窓と書かれるようになったといわれる。火頭窓の形状に変形があらわれ、その形状により蕨火頭、富士火頭、琴締火頭、などと呼ばれるものもある。
出入り口に火頭形が用いられることは禅宗建築ではあまり行われなくなってしまったが、桃山時代以後、霊廟や茶室の給仕口や茶道口に用いられている。ただし、頂部は尖頭形ではなくアーチ状である。
蕨火頭というのは、上部の窓框が蕨手形に巻き込んだ形をもっているものをいう。 富士火頭というのは、上部を台形に富士山状に整形したもので、大徳寺孤蓮庵方丈玄関の壁面に用いられている。これは遠州好みといわれており、いかにも遠州らしい明晰な意匠感覚による造形といえよう。
( 火頭窓 説明文より )
天守内に入る階段です。
入側 ( いりかかわ ) へ内部の廊下にあたるところです。
井伊直弼像
狭間
天守の壁に設けられた小さな攻撃用の穴を狭間と言います。狭間には弓を射る「 矢狭間 」と火縄銃を
放つ「 鉄砲狭間 」があります。矢狭間は縦長の長方形、鉄砲狭間は三角形 ( 鎬狭間 ) や正方形に近い方形
( 箱狭間 ) に切られています。 これらの狭間は、いずれも板枠を壁に埋め込んで制作しますが、彦根天主
では外面を壁土で塗り塞いで敵を欺く「 隠し狭間 」となっています。
各狭間の高さは、矢狭間が弓の丈の関係で比較的高い位置に切られているのに対して、鉄砲狭間は火縄
銃を座ったり伏せた姿勢で射撃する為、概して低い位置に切っています。
また、各狭間の間隔は、1間 ( 約2m ) に1つずつ配置する例が多いのですが、彦根城天守では、より密
に半間 ( 約1m ) に1つとしています。
( 狭間の説明文より )
鉄砲狭間 ( 箱 狭間 ) 鉄砲狭間 ( 鎬 狭間 )
身舎 ( みしゃ ) 内側の主な空間。
身舎の柱にはロープが張られて中は大勢の天守見学の人でいっぱいです。
中に入ると蛇行したロープに沿って・・・・・・・・・・・・・・・ちょっとずつ進む。
~ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ~
やっと2層階段登り口へ。
階段の向こうは武者留
右側通行の険しい階段です ( 手摺を使って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!! )
3層階段登り口 階段はもっと狭くなります。
天守閣へ。
現在、天守最上階からは穏やかな街並みや石田三成の城があった佐和山を眺める
ことができ彦根の城下町から琵琶湖の方まで見渡すことができる。
資料 ( 昔の写真等 ) と比べながらガイドさんの説明が ・・・・・・・・・・・・
手摺を頼りに急勾配の階段を降りてゆきます。
更に厳しい階段が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後に出口専用階段をあと一息・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天守より付櫓 ( 出口 ) へ。
付櫓より外へ。
左側 付櫓と、右側 多門櫓
ガイドさんの資料は、矢穴に鉄の矢を入れて石を割る様子が描かれています。
破風屋根 矢穴の形が残っています。
西の丸 ( 時間がないので西の丸三重層へは行きません )
黒門・玄宮園へ下りてゆきます。
多門櫓石垣の下を下ります。
井戸曲輪 ( いどくるわ )
黒門から本丸へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。孤状に築かれたこの曲輪北東隅には、塩櫓が築かれ周囲は瓦塀が巡っていました。塩櫓の近くには方形と円形の桝が現存しており、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸だったと考えられます。曲輪の名も、この井戸に因んで名づけられたのでしょう。「 塩 」と「 水 」は、籠城戦ともなれば兵士の体を維持するために必要不可欠なものです。井戸曲輪は小さな曲輪ですが、黒門から侵入する敵兵に対する守りであるとともに、彦根城を守備する兵士の生命維持に必要な物品の備蓄が配慮された曲輪でもありました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なお、この曲輪の上下の石垣は、高さが10mを超える高石垣となっています。特に下方の石垣は高さが19.4mあり、彦根城の石垣の中ではもっとも高く堅牢な構造となっています。
黒門仕切り石垣
黒門から本丸へ至る黒門山道 ( 登城路 ) の仕切り石垣。
黒門山道
苔むした古い石垣
黒門櫓跡。
黒門橋を渡り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
黒門橋の左側のお堀は琵琶湖の水だそうです。
玄宮園へ向かいます。
内堀
井伊直弼生誕地 楽々園建造物 保存整備工事中です。
国指定名勝「 玄宮楽々園 」は、江戸時代に[ 欅御殿 ( :けやまごてん ) 」と呼ばれた旧彦根藩の下屋敷で、現在は庭園部分が「 玄宮園 」、建物部分が「 楽々園 」とよばれています。玄宮園は、魚躍沼と呼ばれる大きな池を中心とした池泉回遊式庭園です。
欅御殿
第4代藩主井伊直興が天保5年 ( 1677年 ) に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として築造され木材は欅 ( ケヤキ ) で、その華麗さは各大名も驚嘆したものである。大老井伊直弼は、文化12年 ( 1815年 ) 10月25日ここで生まれた。これらの建物は数棟の東屋 ( あづまや ) よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時の面影をとどめている。第12代藩主井伊直亮が文化年間 ( 1804年~1817年 ) 楽々之間を増築して以来、欅御殿という正式の名よりはむしろ楽々園の名のほうが有名になった。
楽々園の名は「 仁者は山を楽しみ、智者氏水を楽しむ 」の意からとったといわれ、民の楽を楽しむという仁政の意をもっているといわれている。
雨が降ってきました !!
臨地閣と彦根城
龍臥橋
亀の頭と手の部分
ここは甲羅の部分です。
鳳翔台
水田遺構と遣り水遺構
玄宮園出入り口の東口券売所へ出る。
彦根城お城めぐり屋形船乗場
NHK 大河ドラマ花の生涯記念碑 ( 当時は大勢の人が押し寄せたそうです )
二季咲桜
二季咲桜
昭和47年4月に 水戸市 ( 友好都市 ) より
寄贈されたもので 冬 ( 11 月から1月 ) と
春 ( 4月から5月 ) の年二回か生かします。
※ 可憐な花をつけていました。
馬屋の見学に向かいます。
彦根城の佐和口を入ったところにある藩主専用の馬屋は、元禄年間 ( 1688年~1703年 ) 築で、常に十数頭の藩主用の馬がつながれていた場所です。日本の城郭の中で、城内に往時の馬屋が現存するのは彦根城だけで、国の重要文化財に指定。彦根藩では藩主も駕籠 ( かご ) だけではなく、馬術を尊び馬を使っていたいたことがよくわかります。
建物はL字形で、佐和口の櫓門 ( 現在は桝形のみとなっています ) に接する東の端に畳敷きの小部屋、反対の西側近くに門が備えられ、馬立場 ( うまたちば ) と馬繋ぎ場 ( うまつなぎば ) が配されていました。馬は最大21頭が収容できる立派なものです。
昭和年間 ( 1764年~1771年 ) 、火災により類焼し、修理の際に柿葺き ( こけらぶき ) の屋根が桟瓦葺 ( さんがわらぶき ) に変えられていましたが、昭和48年解体修理の際に往時の杮葺きに戻されています。
彦根城では表御殿 ( 現、彦根城博物館の建つ場所 ) の玄関脇に客用の馬屋が設けられ、玄宮園や小浜御殿には馬場を設けて今の調教を行っていました。
彦根城では馬術が奨励され、250石以上の藩士は馬扶持 ( うまふもち ) が支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠ることはありませんでした。
馬屋へ。
佐和口へ。
井伊大老 ( 直弼 ) 歌碑
安政7年 ( 一八六〇年 ) 正月 ( 同年三月一八日に万延と改元 )、直弼は、正装姿の
自分の画像を御用絵師加納永岳 ( かのうえいがく ) に描かせ、この自詠の和歌を書き
添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられる。
この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いて
きたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、このニヶ月後の三月三日、江戸城桜田門外で刃傷に倒れた。
井伊大老 ( 直弼 ) 歌碑
あふみの海 磯うつ浪の 幾たびか
御世にこころを くだきぬるかな
14 : 51 いろは松観光バス駐車場へ集合。
15 : 00 いろは松観光バス駐車場を出発。
有り難うございました、お世話になったガイドさんです。
16 : 35 宝塚サービスエリア 到着 ( トイレ休憩・お買い物 )
16 : 50 宝塚サービスエリア 出発。
18 : 30 吉備サービスエリア 到着 ( レストランで夕食 )
19 : 20 吉備サービスエリア 出発。
20 : 30 ~20 : 40 瀬戸田パーキング ( トイレ休憩 )
9: 30 大西史談会 村上勝正会長挨拶。
21 : 30 大西公民館 到着。 お世話になりました。
本日の歩いた距離 ・・・・・・ 5.1 km。 歩いた歩数 ・・・・・・ 8143 歩 。