~ クアハウス今治 30 周年記念 ~
内子でのんびり散策ウォーキング
楽しみにしていた「 内子で のんびりウォーキング」は 見学をするところが
多くて、のんびりとはゆきませんでしたが、時間に遅れないようマイペースで
内子の町並を楽しく散策することが出来ました。
6 : 55 2号車 大西支所到着 ( 車内にて受付 )
7 : 04 大西支所出発。
7 : 38 クアハウス今治到着 ( トイレ休憩・風呂道具等棚に置く )
7 : 47 クアハウス今治へ直接来た方の受付開始。
7 : 59 先行の1号車・2号車 出発。
8 : 02 今治湯ノ浦 IC。
松山自動車道へ。ここから内子五十崎ICまで約1時間余りかかるで、
内子五十崎までに幾つトンネルがあるか、その名前を覚えようと思います。
①、妙口 トンネル ( 長さ : 650m ) ②、大頭 トンネル ( 長さ : 770/m )
トンネルを出ると新桜3里の標識が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
③、鞍瀬 トンネル ④、臼坂 トンネル ⑤、千羽ヶ岳 トンネル
( 長さ : 780m ) ( 長さ : 650m ) ( 長さ : 740m )
⑥、相之谷 トンネル ( 長さ : 330m ) ⑦、川内 トンネル ( 長さ : 1400m )
⑧、則之内 トンネル ( 長さ : 370m )
伊予灘サービスエリア 展望所より
8 : 40 伊予灘サービスエリア到着。 8 : 50 伊予灘サービスエリア出発。
( トイレ休憩のみ )
⑨、明神山 トンネル ( 長さ : 2570m ) ⑩、黒岩岳 トンネル ( 長さ : 2310m )
⑪、川中 トンネル ( 長さ : 800m ) ⑫、立山 トンネル ( 長さ : 1710m )
9 : 07 最後のトンネルを出る。
9 : 11 内子五十崎 ICを出て右折。
ここを左に入ると、重要伝統的建造物群保存地区 ( 町並保存地区 ) 入口です。
9 : 15 この先正面右へ入り、 町並駐車場 ( 1・2号車 ) 到着。
後続バス ( 全車・全員 ) 到着まで約30分 余裕があるので「 ねはん坂 」を上り
最後に巡る ⑧ 高昌寺・涅槃仏を参拝。
常香炉 ( じょうこうろ ) 堂で お線香をあげて・・・・・・・
石像涅槃仏
高昌寺18世 慈舟和尚によって創始された「 ねはんまつり 」は250年の歴史を持つ
春まつりです。 このお祭りにちなんで、平成10年に長さ10m、高さ3m、重さ約
200tの石像涅槃仏が建立されました。涅槃はお釈迦様の最後のお姿、その最後の教
えが八戒「 小欲・知足・遠離・精進・正念・定・智慧・不戯論 」です。これらを見
近に感じて実生活に生かしてもらえるよう、涅槃仏をお迎えしたそうです。20年以
上たった今も優しいお顔をされた涅槃仏は美しく輝いています。 また毎年3月15日
には、約250年の歴史を持つ春祭り「ねはんまつり」が行われています。
仏様の足裏 ( 仏足 ) の横を通り高昌寺山門へ・・・・・・・・・・・・・・
護国山 高昌寺
町指定有形文化財 高昌寺の寺院構造一式
護国山高昌寺は、曹洞宗に属し、本尊は観世音菩薩である。境内は、三五〇〇平方
メートルもあって、伽藍の配置は 本山永平寺に似ている。特に均整の取れた桜門、
唐破風の中雀門、回廊三列の石段、禅堂、勧学寮、鎮守堂などは みごとに互いに
調和し、近郷の寺には見ることのできない建築物である。本堂には、戸、柱、欄間
・天井にクス材が使われ、別名を[ 伊予の楠寺 」ともいう。 什宝には、大洲藩主
加藤泰候公の真筆「 大雄殿 」の扁額、御開山一代記、涅槃像の大幅、地獄極楽巻
物、狩野探幽、常信、曽彌荒助子爵などの筆跡が所蔵されている。高昌寺の前身を
さぐってみると、まず嘉吉元年 ( 1441 ) のこと、大功円忠大和尚によって、麓川
沿いに浄久寺が開創されたが、その後九十二年を経て天文二年 ( 1553 ) に、浄久寺
が現高昌寺の地に移されてきた。 そして当時の領主である曽根高昌公は帰依し、
菩提所と定めた。やがて高昌公が死去されると、公の諱をとって「 高昌寺 」と改
称されたのである。時に弘治二年 ( 1556 ) のことであった。
その後、ながく威容を呈していたが文化四年 ( 1807 ) になって出火し、堂宇 什宝
などが焼失してしまつた。しかし、文政七年 ( 1823 ) に再建され今日に至っている
近郷に24ヶ寺の末寺を開創した歴史のある寺である。
平成五年三月 内子町 教育委員会
( 内子町 教育委員会 町指定有形文化財 高昌寺の寺院構造一式より )
高昌寺 桜門 「転法輪」と書かれた扁額が かけられています。
「 中雀門 」山門と仏殿の中間に位置する 回廊。
仏殿 ・本堂
仏殿(本堂) 本尊 聖観世音菩薩
「 大雄殿 」の扁額は大洲藩主加藤泰候公の真筆
⇒ 2011年5月9日、新四国曼荼羅霊場 第五十番 護国山 高昌寺参拝。
9 : 49 最後のバスが到着 ( 全員集合 )
9 : 56 準備体操
10 : 06 約160名が町並駐車場を出発。
町並み入口
江戸時代から明治時代にかけて和紙と木蝋の生産で栄えた内子町。護国、八日市
坂町地区には、商業都市と宿場町、そして産業都市としての性格が混在しています。
かっては松山 ( 大洲 ) 街道、小田街道、そして金毘羅街道であり大勢の旅人や商人が
行き交うみちでした。昭和50年 ( 1975 ) 頃から続く町並保存運動により、今日の景観
が守られています。
① 八日市・護国街並保存センター
内子の伝統的建造物群保存地区です、八日市護国町の町並保存の歴史が展示されて
います。保存事業を実地前の状況と実地後の状態やその仕組みなどが説明と共に展示
紹介されています。また使われてきた道具なども展示されています。この資料館の館
自体も古い木造家屋で見ごたえあり。内子町の出先機関があるとともに八日市護国地
区町並み保存会の事務所も兼ねています。
二階には 、 町並保存の歴史が展示されています 。
全面開放できる町家の正面意匠
大 戸・蔀 戸 ( おおど・しとみど )
江戸時代後期の町家に多く見られる正面意匠は「 大戸 」や「 蔀戸 」です。
「 大戸 」は中潜 ( なかくぐり ) のついた板戸のこと。それを日中は屋内にはね上げ、
梁に吊った金具にかけておきます。「 蔀戸 」は上下2枚の板戸で、下側をすり上げ
上下2枚一緒に外へはね上げて金具に掛けます。この「 大戸 」と「 蔀戸 」を上げる
ことで、通路に面した家の表面を全面的に開放することができ、敷地間口が狭い内子
の町家に合った道具といえます。
鏝絵とは
鏝絵は漆喰の壁に鏝で漆喰を塗り上げ、レリーフを描くように浮彫の模様を描く
左官の技術である。家や土蔵を建築する際に家内安全・不老長寿・大災厄除け・商
売繁盛・五穀豊穣などを祈願するために、妻壁や戸袋などに福の神干支を漆喰で描
いたものをいう。左官が鏝を使って漆喰の壁に細工したもので[ 左官アート ]とか
[ 漆喰繪 ][ 壁絵 ][ 石灰絵 ][ 左官絵 ] 呼び方はさまざまである。全国に
分布しているが関西地方に多い。近県では、鳥取県・佐賀県・長崎県の対馬、大分
県安心院町、日出町、山香町、高知県野市町、土佐山田町。県内では東予市、内子町
野村町、小田町、県内所々で見ることが出来る。塗ってから乾くまでに時間も手間も
かかる。心にゆとりがないとそ出来ばえを楽しむことは難しいと言われている。
静岡県 松崎市に生まれた江戸末期の天才左官入江長八。通称[ 伊豆の長八 ]によっ
て、造られたのが起源だと言われている。 ( 店先の 鏝絵説明書きより )
清正橋 ( せいしょうばし )
清正川 ( せいしょうがわ )
家屋の裏手には、畑や水田などの農地が多くありました。清正川は、農地を潤し
人々の暮らしを支えてきた大切な河川の一つ。
水路や路地は、かっては生活の上で欠かせない都市機能を持っていました。水路
や溝のことを【 いでご 】ともいいます。
② 木蝋資料館 上芳我邸 ( 右側の要ら壁の塀は 内子町立内子中学校 )
木蝋資料館 上芳我邸
この施設は江戸時代から大正時代にかけて、内子の繁栄を支えた木蝋産業について
今に伝えるために、内子町が設置した資料館です。木蝋はハゼノミから採る蝋のこと
で蝋燭や鬢付け油、光沢材や化粧品など様々な用途に使われました。
敷地には明治二七年 ( 1894 ) に上棟された主家のほか九棟の建物が残り、そのすべ
てが重要文化財に指定されています。
また、平成六年 ( 1994 ) に整備した展示棟では、内子町が収集し重要有形民俗文化
財に指定されている。「 内子及び周辺地域の製蝋用具1,444点 」の一部を公開してい
ます。
◇ 開館時間 午前九時 ~ 午後四半まで
◇ 入館料 個人 大人 五〇〇円 小人 二五〇円
団体 大人 三八〇円 小人 二〇〇円
※ 邸内の釜場及び土蔵は無料でお入りいただけます
( 木蝋資料館 上芳我邸入口 案内板より)
資料館の見学をしたかったのですが皆に遅れるといけないので残念ながら・・・・・・・ !!
釜 場
釜場とは蝋を精製するところです。
櫨 ( はぜ ) の実から搾り取ったままの蝋は「 生蝋 ( きろう ) 」と呼ばれ緑泥色を
しています。 そこで不純物を除き、さらに日光と水で晒し純度の高い白い蝋を
つくります。ここでは蝋を溶かして不純物を除き蝋花をつくるまでの作業をしま
す。作業場には明治中頃~明治末期迄使われその後放置されていましたが、昭和
61年に復元しました。
晒場(さらしば)からみる主屋や炊事場
左側の棟には「カフェ」や「 上芳我倶楽部 」などが続いています。
一番向こうの棟から入って・・・・・・・・・・・・・・・・「 上芳我倶楽部 」から出てきましました。
③ 国指定重要文化財 本芳我家住宅
明治二十二年 ( 1889 ) に建てられた豪商本芳我家の屋敷です。本芳我家は、江戸
後期から木蝋生産を始めたとされ、明治期には「 旭鶴 」の商標で海外にも製品を
輸出するほど隆盛を極めました。上芳我家を筆頭に分家や分家の分家が相次ぎ、下
芳我家や中芳我家などと呼ばれる分家が13家出来ました。
主屋には、亀甲の海鼠壁や鶴・亀・波などの漆喰彫刻、鏝絵 ( こてえ ) の懸魚 ( げぎょ )
や鬼瓦など、随所に凝った意匠が施されています。土蔵には商標の「旭鶴」の鏝絵が
見られます。邸宅内は非公開ですが、外観と庭園は見学可能です。
◎ 重要文化財 ( 建造物 ) /2棟、平成2年9月11日指定
弁柄の出格子 格 子 ( こうし )
弁柄とは、酸化鉄を原料にした赤色の顔料のこと、本芳我家や上芳我家に見られる、
弁柄で塗られた凝った意匠の格子や骨太の出格子は圧巻です。
「 格子 」は、町家の正面意匠の一つですが、内子では明治時代に建築されたものに
多く見られます。江戸時代の末期から明治時代にかけて多発した、打ち壊しなどから
家屋を守る意味もあったのではないかと言われています。
土蔵の鏝絵は商標の「旭鶴」
本芳我家の懸魚 ( 龍 )
ここから撮るのは難しい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上手く撮れませんでした !!
八日市資料館 あたらし屋
あたらし屋
江戸時代末期 ( 約三十年前 ) 当家は、ここ内子の地で紋の染物屋を営んでおりました。
紋の型紙その他保管しておりました品々を展示しております。御自由にご覧下さい。
郷土が生んだ日本の美術・デザイン界の先駆者 杉浦排水のポスターも展示しており
ます。 合わせてご鑑賞ください。 あたらし屋
「あたらし屋」入口 横に、上のように書いてたので私も、ちょっと入ってみます。
奥の方に「 杉浦排水のポスター」が掛っていました。
店内には、箱階段や火鉢・蓄音機・文福茶釜・浮世絵など珍しい品物が沢山並ん
んで何時までも見ていたかったのですが遅れては大変・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!
顕彰碑 日本の道百選 No 83 八日市道路
④ 町家資料館
この建物は昭和五十九年三月 当時の「 米岡家 」住宅を町が譲り受け、資料館と
して復元したものです。内部は江戸時代の八日市周辺の一般的な町家の生活様式
がわかり易く展示してあります。
解説
この資料館は、江戸時代の町家の生活様式を学ぶ場として内子町が公開している
ものです。建物は腕木に書かれた文字から寛政五年 ( 1793 ) の創建と思われます。
また構造は、住まいとしての性格よりも商家としての性格がよくでています。現在
までに何度か改修され外観内部共にかなり手を加えられていましたが、この度町家
資料館として開館するにともない、江戸時代の代表的な暮らしを復元いたしました。
用語解説
虫籠窓 ( ムシコマド )
虫籠のような格子をつけた窓のことで京阪地方・瀬戸内海各地によくみられます。
揚げ蔀戸 ( アゲシトミ )
柱の間に入れる建具の 一つで、板の両面あるいは一面に格子を組み上に跳ね上げて
開くようにしたもののことです。この家には、釣り上げ式と、すり上げ式の二種類
のものがあります。
袖 壁 ( ソデカベ )
建物正面の両脇の壁端に取り付けた漆喰塗 ( しっくいぬり ) の袖のような壁のことで、
防犯、防火の役割をしました。
大森和蝋燭屋
ー 二百年の伝統を守り続ける手造りの品 和蝋燭 ー
大森和ろうそく屋の蝋燭は全て職人の手によって一つ一つ丁寧に作られています。
ハゼの実を細かくつぶして、蒸してそれを圧縮して採取したものを木蝋 ( 木蝋 )
と言い、和蝋燭はこの木蝋で作ります。そして、その、製造工程で頼れるのは、
長年受け継がれてきた技術と職人の勘だけです。
大森和ろうそくは、和紙と燈心草 ( い草 ) 、真綿で溜めた芯を竹串に通し
40℃~45℃に溶かしたハゼの実から採取した蝋 ( 木蝋 ) を、素手ですくい上げ、
度も塗り重ねる「 生掛け 」製法です。
天然素材を使用し何重にも塗り重ね上げた和蝋燭は切り口が年輪状になっており
色も絵も全く付けない趣のある和蝋燭です。一本一本精魂込めて作った和ろうそく
は温かみのあるやさしい炎で煤が少なく、蝋が垂れずに長持ちします。
森文醸造
左は、伊豫銀行内子支店。ここの角を右折本町通へ出る。
少し歩くと、家と家の間のお堂「 火防地蔵 」で休憩のご夫婦に挨拶を・・・・・
内子座の見学を勧めてくださいました。
⑤ 商いと暮らし博物館
昔の薬問屋 ( 内子町歴史民俗資料館 )
江戸初期から明治期の商家をそのまま利用し、大正10 ( 1921 ) 年頃の商家( 薬屋 )の
暮らしを人形と 当時の道具類を使って再現しており、店先では「 おいでなはい 」と
人形の丁稚の挨拶に驚きます。併せて内子の歴史や民族、郷土の生んだ人物について
模型、映像などを用いて説明しています。
内子町ビジターセンター
内子町の観光拠点施設「 内子町ビジターセンター 」。実はこの建物、戦前戦後は
旧内子警察署でした。建設は昭和 11年 ( 1936 ) 。昭和40年 ( 1965 ) 代に国道沿いに
移転するまで警察署として利用されました。
平成25年 ( 2013 ) に大規模な改修工事が行われて現在の姿に。今で内子町観光の
エントランスとして重要な役割を果たしています。
急ぐのでぐるっと一回り・・・・・ さすが観光の町内子素晴らしい空間でした。
10 : 46 やっと内子座前を左折 ( 落とし物ではないですかとビジターセンター 受付の方が
腕に巻いていたタオルを届けてくださいました )
10 : 47 やっと内子座へ着きました。
重要文化財 内子座
内子座由来・・・・・・内子座は大正五年 ( 1916 ) に、大正天皇即位の大典を記念して建てら
れた芝居小屋です。 江戸時代から町民、近隣在郷の人たちの娯楽であった人形芝居や
歌舞伎を鑑賞する殿堂として、有志十七名の発起人により「 大典記念株式会社内子座」
を興し、建築費四千三百円余りを投じ、地元の大工、左官をはじめとする職人によって
完成したものです。
建物は、この時代全国的に建てられた芝居小屋の基本に習い、妻側を正面にした木造
瓦葺二階建てで、廻舞台や花道などを整えています。 また洋風小屋組 ( トラス工法 ) で
あるため、舞台から観客席にかけての天井の空間が広々しています。
小屋は時代の変遷とともに、映画館や商工会館に転用され、部分的な改装が繰り返
されました。 しかし昭和四十年代に始まる内子町の歴史的環境保全運動の一環として
保存の 機運が 高まり、三ヶ年の期間と 総事業費 七千二十万円をかけて、昭和六十年
( 1985 ) に復元完成したものです。 愛媛県内子町
正面の扁額は 「 芸 於 遊 」 ― 芸に遊ぶ ―
正面左側に、「 花道 」・「 すっぽん 」・「 桝席 」
花道・・・・・・・舞台から吹き出て客席を貫通した通路規約と役者が最も近付き交流
できる場であり、歌舞伎劇場の特色を最も表している機構。
すっぽん・・・花道の七三の位置にある切穴のこと。 忍術使いや妖怪のたぐいが、
この穴からせり上がる。
桝席・・・・・・・ 一階平席を方形に仕切った見物席。かっては桝単位で売られていた。
回り舞台・・・・・舞台の中央を円形に刳り抜きね回転させることのできる舞台。
場面の推移や変化する場面の対象を高める効果がある。
奈落出口 ( 間違えて出口から奈落へ入ってしまいました )
奈落
すっぽん・・・・・花道の七三の位置にある切穴を特に称する。幽霊や忍術使い
などの妖怪を主としてせり出す。
迫り ( せり ) ・・・・・・・役者さんや大道具を奈落から舞台上へ押し上げる機構です。
内子座の奈落
大正五年 ( 1916 ) に内子座が落成した時、この奈落は人が立って歩けるよう
なものではなく、簡易なものでした。地下水の水位が高く、完全な形の奈落を
造ることができなかったようです。
その後、内子座の持ち主に変遷があり、内部の様相も変わりましたが、奈落
だけは未改修でした。
昭和六十年 ( 1985 ) の昭和の大修理< 第一期大修理 >の時にも奈落改修は
見送られました。その後、抜本的見直しを行い、平成六年 ( 1994 ) 三月に、第
二期改修工事の一つとして、現在のように奈落の改修をいたしました。
奈落とは
舞台や花道の床下の総称です。昔は床下は真っ暗で、まるで奈落 地獄の底
のようだというところから呼ばれています。 内 子 座
大向・・・・・・・客席の二階正面にある低料金の客席。常連や劇通が多いので、
「 大向をうならせる 」とは芝居が上出来のことをいう 」
義太夫床・・・・義太夫狂言で舞台上手 ( 客席から見て右 ) 義太夫語りをする人のいる所。
約15分、大急ぎで内子座の見学済ませて、ゴールの知清公園へ向かいます。
郷之谷川に架かる栄橋を渡り左折。
郷之谷川沿いにこの先の橋の辺りで右折、わき道から国道56線へ出る。
内子駅前交差点を渡り左折。
国道56号線レデイ薬局の角を右折、この先、郷之谷川は小田川に合流。
小田川沿いを歩き知清橋へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小田川の風景。
この先を右折、知清橋へ。
知清橋を渡り左折。
小田川沿いへ。早い人は、もう食事を済ませて、再び町並保存地区を通り
町並駐車場へもどります。途中高昌寺を巡る ( 先行のバスは参拝済です )。
舫 ( もや ) い柳と楠
ゴールの知清公園には4名のグループのみ、みんな 道の駅へ買い物に行ったそうす。
「 道の駅フレッシュパークからり 」で買い物をすませて町並保存地区向かう
方が多くなりました。
からり橋を渡って「 道の駅フレッシュパークからり 」へ
こちらが、「 道の駅フレッシュパークからり 」の国道からの入口です。
昼食と買い物を済ませて引き返します。
しっかりとした吊り橋です。
知清橋交差点を渡り町並保存地区へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
⑦ 文化交流ヴィラ 「 高橋邸 」
・高橋家は、大正時代にさかのぼる古い無歴史をもつ、古い歴史をもつ。
・日本の麦酒業界の繁栄に貢献し、戦後の経済復興に通産大臣として大きな業績を残した高橋龍太郎翁の
生家である。
・長男故高橋吉隆氏 ( 元アサヒビール株式会社会長 ) の遺族により、平成5年 ( 1993 ) に内子町へ寄贈された。
・休館日 : 毎週火曜日
「 止談風月無用者可入 」という墨書の看板を揚げる高橋邸。「 ただ風月を談じるなら、用事がなくても屋敷に入りなさい 」と、なんとも風流で懐の主の言葉。そして邸内へ一歩入ると思わず背筋が伸び、歩き方までしおらしくなってしまう、まるで着物を着たときのような凛とした感覚。
この高橋邸、古くからの庄屋であった高橋家の分家で、内子町の排出した偉人・高橋龍太郎さんが育ったところです。龍太郎さんは、1975年 ( 明治8年 ) に内子町で生まれ、現京都大学卒業後に大阪麦酒へ入社、ピール醸造研究のために6年間ドイツに留学し、帰国後は国産ビール一筋に歩み、大日本麦酒株式会社 ( 現アサヒビール株式会社の前身 ) 社長に就任するなど、日本のビール業界に貢献し、戦後は、日独協会会長、日本商工会議所会頭などを務め、第3吉田内閣においては通産大臣として日本経済の復興に多大な功績を残されました。さらに、78歳の時には、個人出資でプロ野球球団「 高橋ユニオンズ 」を設立。わずか3年間でしたが、プロ野球史において個人名がついた球団はほかにありません。
この龍太郎さんが育った高橋邸は、彼の長男、故・吉隆氏 ( 元アサヒビール株式会社会長 ) が、郷土内子町へ思いを寄せられていたことから、ご遺族によって平成五年、内子町へ寄贈されました。現在高橋家のモナさんの精神を引き継ぎ、遠来の客を迎える施設として住民グループ風 ふう雅 ( 富士森方子さん ) によって運営れています。季節にあわせてさまざまな展示や催しが行われ、別館は宿泊施設としてお客様をもてなしています。入場無料で、常時喫茶 ( 有料 ) は可。開館時間は基本的に午前9時~午後4時30分。火曜日が休館。
用事がなくても、ぜひ一度お立ち寄りください。 ※ヴィラ・・・・・・・ラテン語で「 邸宅 」「 屋敷 」の意味
( 広報うちこ 2005 ( 平成17年 ) 年11/15号 VOI.21 より )
お部屋も見せていただきたかったのですが時間の余裕がありません残念。
高橋邸をお邪魔します。
県道56号線56線を伊豫銀行前で右折。
標識には「 八日市護国重要伝統的建造物群保護地区 」・「 旧街道こんびら
みち街 」・「 美しい日本の歴史的風土百選 」と書かれています。
門を曲がると「 あたらし屋 」
通路にも品物が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
美しい「 手描 花ろうそく」も 通路にでています。
雑貨屋さんを兼ねたサロンです。
とんぼ玉工房「 猫草 」 使い勝手の良い ガラスのアクセサリー があるそうです。
せわだ ( 路地空間 ) ~ 芳我せわだ ~
隣の家との間に道路や水路の空間を残し、上部の桁や派風もきちんと形を塗り
出しているので、【 せわだ 】には独特の面白い空間が現れています。奥に行くに
つれて、塀や納屋や蔵などを連ねた外壁は、家ごとに変化し趣のある【 せわだ 】
を演出しています。
上芳我と中芳我家をつなぐ “ 芳我せわだ ″ の先には背の高い蝋垣 ( 塀 ) 。元晒場
を大切に守っていました。
内子町立内子中学校
芳我家から寄贈された土地で、一部は晒し場だったという。平成20年 (2008 ) 、
現在の木造校舎になった。バイオマスエネルギーを利用し、かつ街並み景観と
調和した造り。
常夜燈
文政8年 ( 1825 ) 建立、四国霊43番札所明石寺から次の札所から次の札所
44番大宝寺までの通り道、お遍路さんにとっては険しい山道に入る前の要所
であった。
竹工芸・武公房
木製手作 ふくろう
楽しみにしていたのに残念、本日は お休みのょうです。
町並散歩ここ迄、駐車場へ。
12 : 31 ゴールの街並み駐車場 到着。
自分の乗ってきたバスに乗車。
12 : 55 1号車より街並み駐車場 出発。
13 : 30 東温市・見奈良のコスモス畑。
温泉で疲れを癒したあと休憩。
16 : 15 大西支所到着。
本日の歩いた距離・・・・・約 8.1 km。 歩いた歩数・・・・・約11973 歩。