史談会研修旅行 大阪城

        大阪城の歴史満喫の旅 

 

 大西町史談会 今年( 2023 ) の お城巡りは 「大阪城の歴史満喫の旅」で、愛媛県今治市大西支所に39 名が集合、午前7時10分 いずみ 観光の大型バスに乗車大阪城へ出発。サービスエリアで2度の休憩 ( 15分 )。 ~  11時、淡路ハイウエーオアシスで昼食・休憩  ( 約50分 )   ~  12時45分 大手前芝生広場前到着  ( 大阪ボランティアガイドさん  )と天守閣迄 ( 約90分のガイド付き )、あとは自由行動。天守閣へ階段で8階天守閣展望台まで歩いて上り、天守展望台からの景色を楽しみました。

 

    

    午前7時10分 いずみ 観光の大型バスに乗車大阪城へ出発。

 史談会村上会長の挨拶、研修旅行 ( 大阪城 ) の資料 読んで説明して下さいました。

    研修旅行 ( 大阪城他 )   

大阪城は、日本一高い堅牢な石垣の上に建てられた巨大な天守と広大な城郭があり、江戸城名古屋城と並ぶ日本三大名城の一つである。 豊臣秀吉が築城したことから 「 太閤はんり城 」と呼ばれ親しまれているが、秀吉の以前に織田信長が築城を開始した場所であり、また秀吉の死後には徳川家康が西之丸にもうひとつの 天守を築城した。「 大坂夏の陣 」での焼失後は二代将軍徳川秀忠が再建した。

1、大阪城の歴史

天下統一統一を目指し、織田信長も狙った大阪城 

大阪城が建つ上町台地は、浄土真宗の本山である石山本願寺が建てられていた場所である。山科の本願寺が焼き打ちされた後、石山本願寺が本山となる。そこに堀や塀、土塁などを築き、城砦としての形をなしていった。また、寺内町も造られ、これが大阪市内の原型になったともいわれる。このとき天下統一を目指していた織田信長か何度も攻め入るが、本願寺の僧侶や門徒がこれに抵抗し、11年にも及ぶ石山合戦が繰り返され、 1580 ( 天正8 ) 年に和議が成立し、信長に明け渡される。信長はすぐにこの地に大阪城の築城を開始するが、明智光秀の謀反による本能寺の変でこの世をさり、その城が完成することはなかった。

豊臣秀吉の財力と権力を誇示した大天守大阪城

本能寺の変の後、清須会議で大阪の地は池田恒興に与えられるが、恒興はすぐに美濃へ国替えとなり、1583 ( 天正11 ) 年に豊臣秀吉が天下統一を目指して、主君であった信長の安土城を超える5層の大天守を持つ壮大な大阪城の築城を開始した。築城奉行は名人と謳われた黒田官兵衛が担当する。 秀吉は安土城を凌駕する城造りを目指し、1599 (  慶長4 ) 年、5層6階、屋根には金の鯱を装飾した 絢爛豪華な天守ができ、「 三国無双の城 」と讃えられるほどの豪華な城郭が完成する。本丸の築城には一年半さらに15年の歳月をかけ、堀を二重、三重にするなど難攻不落の城を築き上げていった。それと同時に大阪の町づくりも行い、近世城下町の先駆けとなる政治・経済・軍事・文化の中心地をつくる。 これにより信長から受け継いだ近世城郭や城下町構想を秀吉が完成させたといえる。

栄華を誇った豊臣家も徳川家康により滅亡させられる。

豊臣秀吉の死後は豊臣秀頼が城主となり、摂津・河内・泉を支配する。しかし実際の権力は徳川家康が握り、大阪城西之丸に天守を築いて政務を行った。1600 ( 慶長8 ) 年  江戸幕府を開くと、大阪の豊臣家との緊張関係がさらに高まり、ついに1614 ( 慶長19 ) 年 「 大阪夏の陣 」が開戦し、徳川軍の20万人にも及ぶ大軍に攻められ、講和による終戦となるも三の丸は破却され、二の丸は埋め立てられ、本丸のみとなってしまう。さらに1615 ( 慶長20 ) 年5月6日、15万5千人余りの徳川軍に攻め入れられ、秀頼、淀君が自刃する。これが「 大阪夏の陣  」と呼ばれる戦いで、豊臣家は滅亡する。

徳川幕府の直轄領地となった大阪城に天下普請で城を再建

・   時代が流れ、大阪城は1619 (  元名5 ) 年に徳川幕府の直轄地となる。1620  ( 元和6 ) 年に2代将軍徳川秀忠の命で、大阪城の再建が始められた。豊臣方の大名たちの勢力を抑えるため、西国と北陸の諸大名46家が命を受け、天下普請により築城され、総奉行には藤堂高虎を任命し、「 石垣の高さ、堀の深さを豊臣時代の2倍にすること」と命じ、天守の高さが58mとなる巨大な城を築いた。大阪城の石垣は大きさだけでなく その堅牢さも格別といえる。 廃城となった伏見城をはじめ、海路を使い瀬戸内の島々からも石が運ばれるなど、大名たちが威信をかけ築城に力を注いだ。  こうして1629( 寛永6 ) 年、3代将軍徳川家光の時代にようやく完成する。 この再建でかっての豊臣時代を象徴する痕跡はことごとく消し去られた。

⑤  大阪城を襲ういくつかの悲劇 ~3度の落雷や大火で焼失 ~

・   江戸時代、落雷などで焼け落ちた城は数多くあるが、大阪城も何度もその悲劇にあってきた。1660 ( 万治3 ) 年には火薬庫に落雷し大爆発が起きる。その5年後には 天守北側の鯱に落雷し、大天守が焼失する。  大阪城は、その後14第将軍徳川家重が  入城するまでの230年もの間、徳川将軍が訪れることはなかった。    江戸末期の  1868( 慶応 3 ) 年に、15代将軍徳川慶喜大阪城に一時的に入城するが、鳥羽・伏見の戦いに敗れると江戸へ退き、大阪城は新政府軍のものとなる。鳥羽・伏見の戦い大阪城内の多くの建造物は焼失し、その後も火災や空襲などに見舞われた。

⑥  戦国三英傑が夢描いた城の跡

・ 天下統一の拠点として織田信長が築城を決め、家臣の豊臣秀吉がその思いを引継ぎ自ら天下統一を目指した大阪城。しかしその後、豊臣家は徳川家康に敗れ、大阪城は徳川家のものとなる。斯うした因縁のある3人が夢見た大阪城は、歴史の礎となり、今も多くの人々に歴史ロマンと言う夢を与え続けてくれている。巨大な城郭を持つ大阪城の歴史には、一時代を築いた戦国三英傑の想いが込められている。

大阪城の縄張り

・ 大阪城の城郭は、本丸を中心に、二の丸、三の丸で囲んだ輪槨式平城で、最大の特徴はその広さである。また、北、東、西が淀川という天然の堀をはじめ、二重、三重の堀で囲まれてた。420万 ㎡ の広さは、現在の大阪城公園の約4倍に当たる。1959 ( 昭和34 ) 年の発掘調査では、地表から約10m 地下に火災痕のある石列がみつかり、1984( 昭和59 ) 年には、深さ1mの地中から高さ6mの石垣が発見された。 これらは豊臣秀吉時代のものであるが、現在は再び地中に埋められている。

〇  真田幸村が築いた出城「 真田丸

・  大河ドラマで有名となった真田丸は、「 大坂冬の陣 」で武将真田幸村大阪城の南平屋口に築てた出城である。難攻不落と言われた大阪城であったが、父・真田昌幸から「 大きいからこそ必ずほころびが出る 」と言われていた。南側が陸続きで弱点となってることから、防護力を高めるため、真田丸を築き、攻撃の拠点とする。 その結果、「 大坂冬の陣 」では徳川軍に大打撃を与えることとなった。現在、その跡地とされているのが三光神社で、真田幸村銅像がたてられている。

3. 大阪城の史跡 ( 重要文化財に指定されている史跡一覧 )

・  現在の天守は、5層8階、約58mの高さを誇り、水堀に建てられた石垣は日本一の高さである。また、現存している大手門や 一番櫓、多門櫓などの史跡は、どれも大きなスケールと高い技術により造られていた。その他にも多くの建造物が重要文化財に指定され、大阪城跡は国の特別史跡となるなど、日本を代表する歴史的構造物である。

 ① 大手門

・ 1628 ( 寛永 5 ) 年に建造された大阪の大手門は、高麗門式となっており、南と北、それぞれに城壁の土塀が続いている形である。 1783(  天明 3 ) 年の雷火を逃れ建築当初のまま現存している。

 ② 桜門

・   大阪城正面入口、天守閣を正面に望む主要な場所にある門である。位置は違うが、豊臣秀吉時代も、桜並木の近くにあることから、桜門とな名付けたと言われている。  桜門枡形を囲む石垣群は、巨石が並ぶ荘厳な造りが特徴である。戦後の台風で倒壊したが、1969 ( 昭和 44 ) 年に復元された。

 ③   一番櫓

・ 大阪城二の丸南側の東端に立つ櫓で、大手門と同じ年代に建てられた。玉造枡形付近から西側の大手口まで合計7棟の櫓が立ち並んでいたが、現存するのは一番と六番のみとなっている。

 ④ 乾櫓

・ 西の丸の西北角に建つ隅櫓は、1620 ( 元和 6 ) 年に小堀遠州の設計で造営された2階建ての二重櫓である。1階と2階の床面積が同じで、天守閣の原型ともいえる。

 ⑤ 六番櫓

・ 1638 ( 寛永 5 ) 年に創建。一番櫓と同様に二重櫓で、当時は、二の丸南面の城壁の要所に建てられた合計7つの隅櫓の一つであった。櫓内には、石垣斜面を登って侵入してくる敵に対し、石を落とすための「 石落とし 」や軍備の跡が伺える。

 ⑥ 多門櫓

・ 大手口枡形部分の石垣の上に建てられた一重の櫓である。防御する土塀の代わりに造られた。総高 14. 7m という大きさの櫓は大阪城に現存する櫓の中で唯一となっている。1783 ( 天明 3 ) 年に落雷で焼失後、1848 ( 嘉永 元 ) 年に再建された。

 ⑦ 千貫櫓

・ 西の丸庭園の西南隅にあり、多門櫓の北側に位置している。1620 ( 元和 6 ) 年 小堀遠州の設計で造られた。乾櫓と共に現存する最古の建造物となっている。石山本願寺時代に織田信長の軍勢が、隅櫓から横矢攻撃に翻弄され、「 千貫払ってもあの櫓を手に入れたい」と言わしめたことからこの名前が付いたとされている。

 ⑧ 金蔵

・ 字のごとく、徳川幕府の金貨銀貨の保管場所として使用されていた。 1625 ( 寛永2 ) 年に2階建てで建てられたものが、1837 ( 天保 8 ) 年に平屋に改築された。

 ⑨ 焔硝蔵 ( えんしょうぐら ) 

・ 1660( 万治 3 ) 年、火薬庫で大爆発が起き、大火災となったため、その後石造りの火薬庫が建てられた。外壁はもちろん、内部の壁、床、天井全てに花崗岩の切り石が使われており、現存する唯一の石造火薬庫となる。

 ⑩ 金名水井戸屋形                                                     

・ 1626( 寛永3 ) 年、天守と同じ時代に建てられた。豊臣秀吉が水を清めるために、井戸に黄金を沈めたという伝承から、金名水の名が付けられている。。徳川時代には、この井戸は「 黄金水 」と呼ばれていた。

 4 大阪城の見どころ

 ・ 広さ約100万 ㎡ を誇る大阪城公園内は、現在大阪城天守閣をはじめ、本丸、二の丸、西の丸庭園、迎賓館、豊臣秀吉が祀られている豊国神社など、豊臣秀吉時代の史跡を楽しめる場所となっている。春には約 3.000本の桜、約 1.200本以上の梅が咲き誇る公園として市民に親しまれている。また、大阪城の特徴の一つである三方を川に囲まれていることから、内壕 ( 堀 )を御座船に乗り、川面から天守を眺めるという 贅沢な遊びを堪能でき、迫力のある巨大石垣を間地かで見ることのできる貴重な機会ともなっている。

 ①  大阪城天守閣

・ 天守閣内は、歴史展示スペースと展望台になっている。豊臣秀吉時代を中心に当時の大阪城の模型や資料、兜や甲冑が展示されている他、シアタールームでは秀吉と大阪城に関する番組を上映。大阪城が「太閤はんの城 」といわれる所以の展示内容である。1階と8階にミュージアムショップがあり、大阪城ペーパークラフトをはじめ、大阪城を模した形の品が揃っている。また2階では、復元した戦国武将の兜や陣羽織の試着体験が出来るコーナーもあり、戦国時代を体験できる。

 ② 本丸

・ 紀州御殿の庭 ( 回遊式日本庭園 ) や重要文化財となっている金庫、金名水井戸屋形桜門などがあり、大阪城の歴史を伝える史跡に触れることが出来る。

 ③ 西の丸庭園

・ 天守閣の西、6.5h a の広さを誇る大庭園は、春には約3000本のソメイヨシノが咲き乱れる桜の名所ともなっている。

 ④ 茶室 ( 豊松庵 )

・ 豊臣秀吉が城内に千利休を招き、茶の湯を楽しんだという史実から、松下幸之助が 1969 ( 昭和 44 ) 年起工、大阪市へ寄贈されたものである。現在は迎賓館の付帯施設となっている。

 ⑤ 豊国神社

・ 「 豊臣秀吉公 」「 豊臣秀頼公 」「 豊臣秀長卿 」が御祭神として建てられ、1961 ( 昭和36 ) 年に、大阪城公園内に奉還された。この地は、かって織田信長が攻め続けた石山合戦の地でもあり、和睦になるほどの、要害堅固な場所であったため、秀吉公もこの地に大阪城を建てたのである。     以上です。

 

 

 7 : 50  石鎚山サービスエリア到着 ( 約15分間の休憩 )

 

 

 9: 40  上坂サービスエリア到着 (  約15分間の休憩 )

 

 

 残念ながら鳴門の渦潮は・・・・・・・・・・・・・・・・・・!

 

 

 

 

 11 :  00  淡路ハイウエーオアシス到着

 

  

 

  

  昼食 ( とっても美味しくいただきました )

 

 

 11 :  50  食事と買い物を済ませて淡路ハイウエーオアシス出発  

 

 

 

 

 

 

 

  

  12 : 45   大手前芝生広場大阪ボランティアガイド協会看板前到着。

 

 

  

  班分けをして、天守閣までの説明が付きます。

 

  

  大手口土橋大手門

 1628( 寛永5) 年に建造された大阪城の大手門は、高麗門様式となっており、南と北それぞれに城壁の土塀が続いている形です。1783 ( 天明3 ) 年の雷火を逃れ、建築当初のまま現存しています。  

 

 

 大手門前で集合写真、 天守閣を入れたかったのですが・・・・・・・・・・・・・・! 

 

  

  班別に分かれて出発。

 

  

  大手門

 1628( 寛永5) 年に建造された大阪城の大手門は、高麗門様式となっており、南と北それぞれに城壁の土塀が続いている形です。1783 ( 天明3 ) 年の雷火を逃れ、建築当初のまま現存しています。  

 

      

      家紋の入った石

 

  

  大手門の柱

 

  

 

  

  大手口枡形の巨石

 枡形とは城の主要な出入り口に設けられた四角い区画の事で、敵の侵入を食い止める役目を果たした。築城技術の進歩に伴って強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石【 おおてみつけいし】は、表面積が約29畳敷 ( 47.98平方メートル ) で、城内第4位、左の大手二番石【おおてににばんいし】は約23畳敷 ( 37.90平方メートル ) で、第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約22畳敷 (35.82 平方メートル )で、第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。  現存する大阪城の遺構は豊臣時代の物ではなく、元和6年 ( 1620 ) から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この箇所は当初肥後熊本藩主加藤忠弘【かとうただひろ】が築き、のちに築後久留米藩有馬豊氏【ありまとようじ】がかいちくした。

 

  

  築城図屏風 ( 桃山時代 )   名古屋市博物館蔵

 

  

  多門櫓

 大手口枡形部分の石垣の上に建てられた一重の櫓である。防御する土塀の代わりに造られた。総高 14. 7m という大きさの櫓は大阪城に現存する櫓の中で唯一となっている。1783 ( 天明 3 ) 年に落雷で焼失後、1848 ( 嘉永 元 ) 年に再建された。

 

  

 

  

  重要文化財 千貫櫓

 大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓【すみやぐら】である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することが出来た。創建は徳川幕府による大阪城改築工事が開始された元和6年 ( 1620 ) で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大阪城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前織田信長が大阪を領していたころにも千貫櫓はあった。名勝の由来に関しては、織田信長が この地にあった大阪 ( 石山 )  本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士の達の間で噂されたという逸話が残っている。

 

  

 

  

 

  

  

  南仕切り門跡・太鼓台跡

 二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの箇所に建てっていたのが南仕切り門である。また門の西側の上は太鼓櫓と呼ばれる二層の櫓があり、共に徳川幕府による再築工事の最終段階に当たる寛永5年 ( 1628 ) に創建されたと考えられる。太鼓台は城内の櫓の内最も小規模で中に太鼓が納められていた。ここには太鼓坊主と呼ばれる僧形【そうきぎょう】の役員が交替えで詰め、彼らは香 【こう】を焚いて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の招集や交代、あるいは緊急時に艇庫を打ち鳴らした。いずれの建物も慶応4年 (=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。

 

  

 

  

  石山本願寺推定地 奥に見えるのは6番櫓

 

  

  石山本願寺推定地

 明応五年 ( 一四九六 ) に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大阪に大阪坊舎を建立した。
 これは現在のところ「 大阪」の地名が史科上に現れる初例である。         「天文日記」によると大阪坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたと言われ当時は小堂であったと考えられる。 その細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大阪の重要性が増すとともに、天文元年 ( 一五三二 ) に法華宗徒により山科本願寺が焼き討ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。         石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の町並の原型となったと考えられる。                       
 その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を撤退した。本願寺教団は、鷲森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。 一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大阪城が建設される。 この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大阪城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。 このような状況の為、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあることは確実と考えられている。   大阪市教育委員会                                       

 

  

  豊国神社

 時間の都合で見学ルートに入っていませんでしたが、ここは「 豊臣秀吉公 」「 豊臣秀頼公 」「 豊臣秀長卿 」を御祭神として建てられ 1961 ( 昭和36 ) 年に、大阪城公園内に奉還された。ここ大阪城跡はかの有名な石山合戦にて石山本願寺の宗徒が11年にもわたり、織田信長の猛攻に対抗し続けた場所です。さすがの信長も攻略をあきらめ和睦を結ぶに至ったほど要害堅固な地であったことから、秀吉公は天下を平定し居城を築くにあたってこの地を選んだとい言われています。

 

  

  桜門

   大阪城正面入口、天守閣を正面に望む主要な場所にある門である。   位置は違うが、豊臣秀吉時代も、桜並木の近くにあることから、桜門とな名付けたと言われている。  桜門枡形を囲む石垣群は、巨石が並ぶ荘厳な造りが特徴である。戦後の台風で倒壊したが、1969 ( 昭和 44 ) 年に復元された。

 

  

  正面に天守閣が見えます。

 

  

  空堀

 

  

 

  

  銀名水井戸の井筒

 この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎 ( 旧大阪市立博物館 ) の裏手にある銀名水 ( 銀水 ) 井戸のものである。銀名水井戸は徳川幕府再築の大阪城本丸に設けられた5つのうちの一つで、本丸御殿【 ほんまるごてん】台所裏に位置し、本丸を警護する役人たちの飲料水として用いられた。大阪城内でもっとも格式の高い井戸の一つで、「 金 」「 銀 」などを井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年 ( 1931 ) 、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築に当たり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道が引かれた。なお現在の金名水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金名水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今は配水池に埋もれていて見ることガ出来ない。

 

 

    

  桜門枡形の巨石

 桜門の内側には、本丸正面の入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「 枡形 」と呼ばれる区画が設けられ、上部には多門櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大阪城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年 (1624 )、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ石材は備前 ( 岡山県 ) 産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】と呼ばれる城内第1位の巨石で表面積がおよそ36畳敷 ( 59.43平方メートル )、 重量は約 108tと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】袖石【そでいし】と呼ばれ、表面積はおよそ33畳敷 ( 53.85平方メートル) で、城内第3位である。なお上部の多門櫓は慶応4年 ( =明治元年、1868 )、明治維新の大火で焼失した。 

 

  

  蛸石【たこいし】

 

  

 

          

 

  

  本丸に入ると、右側には三ライザ大阪城があり、大阪城が目の前に

 

   

 三ライザ大阪城 ( 旧第四師団司令部庁舎 )

 旧第四師団司令部庁舎をリノベーションして利用している、 三ライザ大阪城大阪城本丸広場に位置し、B1Fには「 海洋堂フィギュアミュージアム三ライザ大阪城」、1Fには、観光物産やカフェや たこ焼きなどの気軽に立ち寄れるショップ、2F・3F ・屋上では本格グルメが楽しめ、大阪城が一望できるテラス席も完備しています。  明治から第二次世界大戦にかけて、陸軍の軍用地とされた大阪城跡 ( 特別史跡 )、中世ヨーロッパの城館を思わせる「 旧第四師団司令部庁舎 」は現在の大阪城天守閣と同じ昭和6年 ( 1931 ) 年に築かれました。                     中央に小さな塔を戴く、左右対称の長い両翼をもつ3階建てのこの建物は、天守閣の再興と同じ1931年に、当時の陸軍第4師団司令部の庁舎として建てられた。明治以降、大阪城跡とその周辺は、軍の施設として使われてきた大阪随一の観光地となった現在からは想像しにくいかもしれないが、市民が立ち入ることのできない場所だったのです。 そこにメスを入れたのが、第7代大阪市長の関一(はじめ)。都市計画の専門家として市の近代化を推し進め、御堂筋や地下鉄を整備したことで知られる名市長。関市長は1928年に昭和天皇の御大典記念事業として、豊臣秀吉時代の天守閣を市民の寄付で復興して公園にすることを提案、市内全戸に趣意書と寄付申込書を配布して、整備費用150万円を集めた。実はその半分以上の約80万円が、この第4師団庁舎の建設に充てられている。このプロジェクトを実現するには、まず軍に天守閣と公園のための敷地を明け渡してもらう必要があったが、その見返りとして提示されたのが、城内に分散していた軍の機関を集約する、新しい庁舎の提供だったというわけです。

 

  

 

  

 

  

  中部軍司令部防空作戦室跡

 第二世界大戦の末期、陸軍の中部軍司令部防空作戦室の設置が大阪城南の本丸に建造された。時期は昭和18年 ( 1943 ) と考えられ、ここを拠点に防空作戦の立案、敵機来襲の感知や目標値の予測、迎撃命令の発令、管区内への空襲警報発令などが行われた。 構造は地上3階、地下1階のコンクリート製、地下1階から地上2階までの内部はは吹き抜けで、壁は爆撃に耐えられるよう1メートル以上あった。空爆による破壊を免れて戦後に至ったが、公園整備の一環として昭和45年に解体撤去された。堅牢だったため工事は難航を極めたという。

 

  

  石段を上がり中部軍司令部防空作戦室跡へ

 

  

 

  

 

  

  日本庭園

 昭和6年の天守閣の復興にあわせて、当時あった紀州御殿の庭園として整備されました。池の南側からは、天守閣を借景とした庭園風景を楽むことができます。 

 

  

  日本庭園沿いを歩き・・・・・・・・・・・・

 

  

 

  

  空堀の向うの大阪西の丸庭園を眺める。

 

  

 

  

  日本庭園を歩き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  

 

  

 

  

 1959 ( 昭和34 ) 年の発掘調査では、地表から約10m 地下に火災痕のある石列がみつかり、1984( 昭和59 ) 年には、深さ1mの地中から高さ6mの石垣が発見された。これらは豊臣秀吉時代のものであるが、現在は再び地中に埋められている。  

 

  

 

  

  隠し曲輪

 大阪城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大阪城再築時の物である。  出入り口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。 一時期幕府の焔硝蔵 ( 火薬庫 ) が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。   なおここでは、石垣の築造を担当した 加藤家 ( 伊予大洲藩 )、小出家 ( 丹波園部藩・但馬出石藩 )の刻印をまじかに見ることが出来る。

 

  

    

     加藤家 ( 伊予大洲藩 )、小出家 ( 丹波園部藩・但馬出石藩 )の刻印

 

  

 

  

 

     

 

 

 ひと通りが多いのでボランティアガイドさんが記念写真の段取りを・・・・・・・・・・・・

 

  

  14 : 15  大阪ボランティアガイドさんとはお別れです、有難うございました。

 

  

  ここからは自由行動です。団体の入場口は左側、右側の一般入場口には長い列が !

 

      

      大阪城天守閣

 天守閣内は、歴史展示スペースと展望台になっている。豊臣秀吉時代を中心に当時の大阪城の模型や資料、兜や甲冑が展示されている他、シアタールームでは秀吉と大阪城に関する番組を上映。大阪城が「太閤はんの城 」といわれる所以の展示内容である。1階と8階にミュージアムショップがあり、大阪城ペーパークラフトをはじめ、大阪城を模した形の品が揃っている。また2階では、復元した戦国武将の兜や陣羽織の試着体験が出来るコーナーもあり、戦国時代を体験できます。

 

  

  金名水井戸屋形

 1626 ( 寛永3 ) 年、天守と同じ時代に建てられた。 豊臣秀吉が水を清めるために、井戸に黄金を沈めたという伝承から金名水の名が前が付けられている。徳川家の時代には、この井戸は「 黄金水 」と呼ばれていました。

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 天守閣入口には長い列が続き天守へのエレベーターへは身動きが出来ないほどの行列です。仕方なく階段で8階天守閣展望台迄歩いて辿り ( 大袈裟ですが ) 着きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  下りのエレベーター前も大勢の人が並んでいるので階段で下りることに・・・・・・・・・

 

  

 

  

  何にも見ないで下りてしまいました。

 

     

  石段に腰を下ろし誰か知っている人が下りてこないかと天守閣を見上げる・・・・・・!

 

  

  まだまだ大勢の人が列をつくっています。

 

  

 大阪歴史博物館へ行く約束をしていたのですが、人通りの多い三ライザ大阪の辺りで待つことにしました。

 

  

  三ライザ大阪城 ( 旧第四師団司令部庁舎 )

 明治から第二次世界大戦にかけて、陸軍の軍用地とされた大阪城跡 ( 特別史跡 )、中世ヨーロッパの城館を思わせる「 旧第四師団司令部庁舎 」は現在の大阪城天守閣と同じ昭和6年 ( 1931 ) 年に築かれました。

 旧第四師団司令部庁舎をリノベーションして利用しているのが 三ライザ大阪城大阪城本丸広場に位置し、B1Fには「 海洋堂フィギュアミュージアム三ライザ大阪城」、1Fには、観光物産やカフェや たこ焼きなどの気軽に立ち寄れるショップ、2F・3F ・屋上では本格グルメが楽しめ、大阪城が一望できるテラス席も完備しています。

 

        

        史談会の方にやっと出会いました。

 

    

    三ライザ大阪城でお土産を購入。

 

  

  集合時間が近ずいたので城南バス駐車へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

  城南バス駐車場へ到着 ( 大阪城の滞在時間は約3時間15分 ) でした。

 

  

  16 : 00  城南バス駐車場出発。バスで大阪城外周一周  ・・・・・・・・・・・・・・・。

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

  神戸タワー

 

  

 

  

 

  

  16 : 50  淡路サービスエリアで15分休憩 ( 観覧車を背景に一枚 )

 

 

 明石海峡大橋

 

  

 

  

  大鳴門橋走行中

 

  

  18 : 30  津田の松原 S A (約 15分間休憩 )

 

  

  8 : 11  石鎚山 S A (約10分休憩)

 

  

  20 : 55  大西支所到着。 ( 約13時間 45分の大阪城研修の旅でした )

太西支所出発 ( バス移動時間を除く ) 大西支所到着までの距離と歩数 ( 休憩・昼食含む )

 歩いた距離・・・・・約 14471 m。  歩いた歩数・・・・・・約 20.607歩でした。