大西町内歴史探訪 ( 山之内地区 )

      大西町内歴史探訪 ・山之内地区 ( 2018-05-31 )


        


  
  山之内地区の歴史探訪は程好いお天気に恵まれ 秋山好古記念碑 ⇒
 薬師堂 ⇒ 加茂神社 ⇒ 隠れキリシタン石像 ⇒ 弁天さん ⇒ 衣笠乳地蔵
 ⇒ 衣笠妙見神社 ⇒ 間所神社 ⇒ 長本明一翁遺徳顕彰碑 ⇒ 大井寺 ⇒
 薬師堂 ⇒ 長本氏宅のミカン畑・隠れキリシタン石像 ⇒ 十天堂と13ヶ所
 先生方のお話に耳を傾けながら和やかで楽しい歴史探訪でした。


   
   13:00   大西支所集合。


   
   受付・資料と大西探訪が配られ、村上大西町史談会会長の挨拶。
      参加者は 30名です。


   
   13:03  大西支所出発。
   大西支所を右折し衣黒団地横から諏訪谷を通り県道163号線へ。


   
   13:10  秋山好古記念碑前到着。
   県道163号線を左旧道へ上がると、秋山好古記念碑その上に薬師堂。


   
   衆心和暢化乃成 ( シュウシンワチョウカダイセイ ) 
  みんなの心が やわらぎ のびやかであれば 教育は まさに実って行く
                         昭和3年建立

   陸軍大将  秋山好古揮毫の石碑
  秋山好古大将は、明治37・38年の「 日露戦役 」で騎兵将校として、
  児玉源太郎東郷平八郎乃木希典、そして実弟である秋山真之らと
  ともに勲功と知名度を持つ人物で、愛媛県出身の軍人として歴史に
  その名をきざんだ。
  その功績と活躍ぶりは、作家 司馬遼太郎の小説 「 坂の上の雲 」の
  中で詳細に描かれてある。
  秋山大将は、安政六年 ( 1859年 ) 一月、松山城下の藩士の家に生まれ、
  明治十二年、陸軍士官学校を卒業して騎兵少尉に任官した。「日露戦役 」
  においては騎兵旅団長として出征。
  当時、世界最強と言われていたロシアの 「 コザック騎兵役 」を撃滅し
  日本軍の勝利に貢献した。以後 「 騎兵の父 」と呼ばれている。
  軍務を退いた秋山大将は、故郷、松山の地に居をかまえ、大正十三年
  請われて北予中学校 ( 現・松山北高校 ) の校長に迎えられ、青少年の
  教育に情熱を傾けた。
  昭和五年十一月四日逝去。 享年七十二歳。
  尚、大山祇神社には、彼と共に訪れた政治家・軍人・政界人等の記念
  写真が神社境内に現在も掲示されている。
         設置者 ( 社 ) 今治地方国立公園協会今治地方観光協会 
                ( 陸軍大将 秋山好古揮毫の石碑 説明板より )


        
     青井三郎前大西町史談会会長の詳しいお話が続きます。


  
  新道が出来るまでは 前の道が重茂山に続く主要道路だったそうです。


   
記念碑横の坂道を上ると 野間郡四国八十八ヶ所第七十五番観音堂が建つ。
  ⇒ 2012年2月19日 旧野間郡四国八十八ヶ所 第 七十五番 薬師堂巡拝


   
   観音堂


   
   地域の方々が交代でお世話、お祀りをしています。


  
御本尊の薬師如来像は 大西探訪 P26 105 【 薬師堂 】よりお借りしました。


  


   


   
白いほたるぶくろ ( つりがねそう ) とアザミがさいていました。         


  
  薬師堂から県道163号線へ出て左に入ると加茂神社があります。


  
  13:27  加茂神社へ。


  
  加茂神社


   


   


   
   山之内小山にあり、永仁4年 ( 1296 ) 大島亀山村の村上伝平と
  いう人が 一社を建立し、若宮神社といった。 その縁故のものが、
  明治35年 ( 1902 ) 現地へ奉還し、明治43年 ( 1910 ) に祭神
  を加え、社号を加茂神社と改めた。


       
       クロガネモチ


  
   クロガネモチ    町指定天然記念物
   太さ ( 根回り ) 5.15m。 高さ 20m。 樹齢 250年 ( 推定 )  
   このクロガネモチのある加茂神社は、明治35年に勧請された
   ものであるが、社寺は古墳だったと考えられ、この木も神社
   建立以前の古い樹木と思われる。      
    平成3年3月             大西町教育委員会


   
   ひとつの根っこから2本の幹に分かれそのまた上でくっ付いたり
   分かれたり面白いクロガネモチの大木です。


  


  


   
   13:45  加茂神社前出発 ( 衣笠墓地付近まで車で移動 )


   
   13:50  衣笠墓地 ( 隠れキリシタン信仰石像 ) 付近に到着。


  


  


   


  
ここからは見えません。お墓の前を失礼して正面へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


   


        
        かくれキリシタン信仰石像
   大西町内には、かくれキリシタン信仰のものと思われる石像が多く
   存在しています。 衣笠墓地内のこの像は、ここにあったクヌギ
   大木の穴に隠されていたものですが、木が枯れたため取り出して
   お祀りしました。


   


   


 
 ミカン畑の間を弁天さん ( 衣笠弁天 ) へ。


    
    ミカンの花 ( 小さな青い実がついています )


  


   
  かくれキリシタン遺跡


  


  


     
  弁天堂


   
   弁天さん 市指定文化財
  衣笠の丘に弁天を祀る祠があります。この弁天は近くにある重茂山
  ( 十文字山 ) 城主岡部十郎の息女を弁天として祀ったと伝えられて
  います。重茂山城は、天正十三年 ( 1985 ) 秀吉の命により四国に
  侵効した小早川隆景軍に包囲攻撃され落城する、その際 城主の息女
  若き姫は乳母と共に逃れ出たが、衣笠のあたりで敵兵に発見され、
  自害して果てた。村人たちは悲運の姫を悼み、ねんごろに弁天として 
  お祀りしました。そのまえに姫の墓と共に十字をかたどったマリアを
  刻んだ石像がたっていました。 これが隠れキリシタンの信仰石像で
  姫はキリスト教を信仰していたのではないかといわれています。
  このキリシタン信仰石像は盗難にあい今はありません。
  現在、5月5日には、現地の子供たちによる相撲大会が開かれます。


   
   今年もここ弁天堂の前で子供たちの相撲大会があったそうです。


   
   14:08  弁天堂を後にする。


  
  14:09  衣笠乳地蔵


  


   


    
  本尊は二体の木像の地蔵菩薩で、以前はきれいに彩色されていました。
    乳を授けてくれる お地蔵様として信仰されています。


   


    


  
  14:13  乳地蔵から正面に屋根がのぞいている間所神社を目指し
        て歩きます。


  
  水路の土手にはいつもきれいな花が咲いています。


  


    


  


  


  


   
   どちらを訪ねても下草がきれいに刈られお陰様で清々しい気持で
  歴史探訪を続けられます ( ご苦労様ですありがとうございました )


   


  
  14:28  衣笠妙見神社へ。


  
   衣笠妙見神社  勧請年は不詳
   北極星を仏教では北辰菩薩、またの名を妙見とみなすところから
 近世以前の神仏習合時代に北辰菩薩を祀る集合神社を妙見社といった。
   平成十三年六月の豪雨により 本殿倒壊し平成十五年五月再建。


   


   


   
   倒壊し土砂に埋まった、正面の梁 ・ 左右の木鼻の彫刻などは
  以前の姿を残しています。 


  
   本殿再建に際しては、妙見神社の資料が何もなく困っていたところ
  大西史談会 青井三郎前会長が写した写真を参考にして再建されたそう
  です。当時のお話を聞かせていただきました。


   
   拝殿横の、この大木が踏ん張って崖崩れは免れたそうです。


 
 北辰菩薩( ほくしんぼさつ )
  北極星を神格化したものといわれ、国土を守護し、災厄を除き、
 福寿を増益するという菩薩。尊星王、北辰菩薩ともいう。 
 形像は一定しないが、二臂像、四臂像の形で、雲中に結跏趺坐する姿、
 青竜に乗る姿などに描かれる。


  


  
  14:28  衣笠妙見神社を後にする。


  


   


  


  


  


    


  
  農免道路を横断。


  


   


   
   間所神社ヘ。 この先の長本明一翁遺徳顕彰碑へはへ間所神社
           正面の石段を降りてから訪ねます。


 
 14:41  間所神社境内へ。


  


   
    間所神社  山之内村 旧村社
  社伝によると光仁天皇の朝宝亀十年 ( 779 ) 勒を奉じて大三島
  大山祇大明神を勧請されたと伝えられています。
   祭 神   大山祇神社  雷神  諸山祇神  高靇神
   合祀社   客神社  荒神社等
   境内社   金毘羅神社  若宮神社
  怒麻国造若称尾命が一宇を建営し、大山祇神、諸山祇神を崇祀した。
  伊豫十三浦戸宮の一つであり、間所浦戸明神とも称した。


   


   


   
   間所神社神殿。


  


  


  


   


  


  
 社号標                     芭蕉句碑


  


 


  
  長本明一翁遺徳顕彰之碑
  長本明一翁は、昭和初期、広島県大長から新天地小西村に転入し、
  みかんの栽培をはじめました。その後、この地のみかん栽培の
  隆盛は彼の功績によるものと言えます。


        
 年譜: 明治二十六年十二月十四日、広島県豊田郡大長村 ( 現豊田町大長 )
 で 父 七之丞の次男として出生。明治四十一年大長尋常高等小学校卒業。 
 成人すると共に、家業のみかん作りに取り組む。昭和五年大長みかん出荷
 組合の結成に尽力しその役員となる。 当時より大長に於ける園の拡大の
 限界を知悉していた翁は、小西村に適地が求められることを知り、
 昭和七年六月、翁三十九歳、妻子五人と共に、小西村山之内に移住する
 翁は山之内で大長以上のみかんを作り、その良さを知ってもらうべく妻子
 と共にみかん作りに情熱を傾注する。翁に刺激され小西村のミカン栽培は
 年を追って盛んとなり、小西みかんの名声は、次第に高まっていった。
 然し翁も齢には勝てず、昭和五十四年惜しくも八十六歳で逝去される。
                   ( 長本明一翁遺徳顕彰之碑 年譜より )


  


   


   


  


  
  15:20  大井寺山門前 到着。


     
   野間郡八十八ヶ所 第七十八番札所
  ⇒ 2012年2月19日、野間郡八十八ヶ所 第七十八番札所 大井寺参拝。


  
  大井寺本堂
 大井寺は 山之内間所にあり 嵯峨山 地蔵院 大井寺といい真言宗豊山派
本山は奈良県長谷寺で 本尊は 延命地蔵菩薩、文徳天皇安産祈願仏です。
 弘仁年間 ( 810〜824 ) 瑞秀上人によって開山開創されたと伝えられています。
同年間、弘法大師巡教の際、大井浜の帷子磯 ( かたびらいそ )不動尊を祀り
ました。これが大井寺の始りともいわれています。そのご、大井八幡宮付近に
移り、さらに宮脇に移りました。南北朝時代の延元元年 ( 1336 ) 後醍醐天皇
皇子である尊真 ( たかざね )、満良 ( みつなが )、懐良 ( かねなが ) の三親王
征西将軍として来られた際に大井寺が御在所となりました。 しかし北朝方の
夜襲に敗れ、尊真親王薨去 ( こうきょ )、大井寺は焼失しました。
その後、重茂山城主の要請で明道さんの地に移り整備されましたが、再び
業火に見舞われました。重茂山城主の岡部十郎により城の鬼門除けにと現在の
地に建立したと伝えられています。


  


  


  


  
大井寺の山門を出て土塀沿いに本堂の裏側へ出ます。


   
   薬師堂上り口。


   
   左側に五輪塔


   

  
  
  間所薬師堂
  

   


        
        本尊 薬師如来
  ご本尊の薬師如来鎌倉時代の仏師快慶の作と伝えられています。
  間所大沢氏の先祖がこの地へ背負ってきたと云われ、経験あらたかな
  お薬師さんとして人々から信仰されています。


   
   15:45  間所薬師堂へ。


  


     


   
   長本氏宅前のミカン畑へ。


   


   


    


  
かくれキリシタン石像


   
   昭和五十六年四月十一日落慶


  


 


  
  大勢で押しかけました、どうも有難うございました。


    
    間所薬師堂から大井寺駐車場へ戻ります。


   
   大井寺本堂の屋根。


   
   大井寺の土塀。


  
  16:09  大井寺 出発。


  
  十天堂
  この地にキリスト教が信仰されていたことに由来している。
  明治20年 ( 1887 ) に建立された。


    


        
  ご本尊の台座に 「 開佛地蔵尊 悪事 不来 村中安隠 」 と刻まれています。


   


   
   本日の大西町内歴史探訪 ( は山之内地区 ) はすべて終了しました。


   
   16:28  大西支所 到着。
   きょうも楽しく大西町 ( 山之内地区 ) の歴史を学びました。
   本日の歩いた距離・・・ 3.0 Km。 歩いた歩数・・・ 5063 歩でした。