史談会・町内歴史探訪   

      町内歴史探訪 ( 大井浜・宮脇地区 )

  
  ⇧ ➋ 大井浜 正八幡神社境内

     
    ⇧ ➌   宮脇 大井八幡大神  

  
  ⇧ ➑ 宮脇 貴布祢神社  

   コロナビールス感染予防対策で、予定されていた旧野間郡四国八十八ヶ所巡り
   が中止に・・・・・・・・・! 今回は町内歴史探訪 ( 大井浜・宮脇 ) に 旧野間郡の2ヶ所
  ( 大井浜   第二十三番札所 地蔵堂、宮脇   第七十一番札所 太元堂   第七十三番札所 観音堂 )を
  加え、最初は宮脇川と旧県道の交わる  ➊  宮脇 一里塚  ⇒  ➋  大井浜  正八幡神社
  ⇒  ➌  大井浜  えのき地蔵  ⇒   ➍  宮脇   大井八幡大神社   ⇒    ➎  宮脇 諏訪神社   ⇒  ➏  宮脇   太元堂・観音堂   ⇒  ➐  宮脇   客大名神社 ⇒   ➑  宮脇  貴布祢神社
  車に乗り合わせて 約2時間の町内歴史探訪でした。

 

  
  13 : 20  大西支所駐車場集合 町内歴史探訪の資料配布 ( 参加者25名 )

 

  
  13 : 30   自動車に乗り合わせて大西支所を出発。 

 

    
    宮脇川を下り最初の1 宮脇 一里塚へ信号を越えるとすぐそこに・・・・・・。

 

       1. 宮脇 一里塚 ( 今治市指定文化財 )

          
  ・ 宮脇川と旧県道の交わるところにある。それには「 松山札ノ辻 ( 現在の西
   堀端の北の端 ) より九里 」とあり、古くより旅人の道しるべとして大切にさ
   れたものである。
    ・ 付近には、亀岡の佐方が八里、乃万の阿方が十里、波方の樋口が十里、波止浜
   には十一里の石柱が残っている。当初は木製であったが後に石柱に変わった。

 

  
  一里塚は宮脇川と旧県道 ( 主要地方道 大西波止浜線 ) の交わるところにあります。

 

    

                一  里  塚 

   一里塚は道を行く人に距離がわかるように立てた道しるべである。松山の札の辻
    ( 現在の松山城西堀端の北端地点で、もとここに松山藩の札場=制札を掲示する場
   所があった ) を原点として、一里 ( 約4km ) ごとに立てられたものである。
     この付近の一里塚は
        菊間町佐方に             八里
        今治市 ( 乃万農協の所の四っ辻 ) に    十里
        波方町の樋口 ( 沢の大池の所 ) に     十里
        波方小学校の所に          十一里
   の一里塚の石標が立っていたが、今では紛失して見られない所もある。この一理
   塚は当初は木の柱あったが、寛保元年 ( 1741 ) 祐筆水谷半蔵が達筆をふるい石柱
   になったという記録が残っている。
                             大西町教育委員会 

     

 

    

 

  
  次の、2.大井浜 正八幡神社は線路を挟んだ川下にあります。

 

  
  運転手さん以外は宮脇川沿いを川下へ移動・・・・・・・・・・・・。

 

  
  JR予讃線宮脇踏切を渡り大井浜へ。

 

       2.大井浜  正 八 幡 神 社 

  

 ・貞観元年 ( 859 ) 年、豊前 ( 福岡県 ) の宇佐八幡宮を勧請の時、神意により大井浜に
  奉祀し、その後 寛平12 ( 900 ) 年、大井宮に合祀し大井八幡宮になった。その後
    また神託により、旧神域に八幡宮を勧請して、正八幡宮と称号した。
   ・明治42 ( 1909 ) 年、内務省訓令により、大井八幡大神社に合祀し、現在同社の境外
   末社となっている。

  

  
  13 : 39  宮脇川に架かる大井浜第一橋を渡り、大井浜  正八幡神社へ。

 

  

 

    


  

 

  
  大井浜  正八幡神社についての講師 ( お話 ) は 大井浜の 新居田  利忠さんです。

 

  

 

  
           正 八 幡 神 社
   主祭神   誉田別命 ( ほんだわけのみこと ) 応神天皇 
   合祀祭神  大己貴命 ( おおなむちのみこと ) 大国主命大黒神
        事代主命 ( ことしろぬしのみこと ) 恵比須神
        菊理姫( くくりひめのみこと ) 白山姫命=白山神社祭神
   御由緒
   清和天皇の代、貞観元年 ( 西暦八六九年 ) 宇佐八幡宮を京都の男山に勧請する
   途上、弓杖湾に船泊りしたとき、御神託により大井浜にも仮神殿を造って斎祀
   した。その後、宇多天皇の代、寛平二年 ( 890 ) 年に大井宮に合祀して大井八幡
   宮と改号されたが、その後また 御神託により 旧神域にも斎祀し正八幡宮と称号
   した。故に大井八幡神社との関係は御鎮座以来きわめて深く 現在に及んでいる。
    明治初年、官命により大井浜村の村社と定められ、村内にあった他の社を合祀
   した。明治四十二年に内務省令により、大井八幡大神社に合祀され、その摂社と
   なったが、第二次大戦後、御神霊をまた旧神域の現在地に遷座し斎祀することに
   なった。                  拝殿左側に掛かる正八幡宮 御由緒より

 

    

   八幡宮神社を除いては大井八幡宮の誕生は語れない。
    大井八幡大神社に残る「 村社正八幡神社御由緒 」に次のような記録が残って
   おり、僧行教に対する信託は、現 大井浜の 正八幡神社境内が「 八幡宮垂跡之
   地」てあって、ここに仮神殿が置かれたとある。その三十一年後の八九〇年に、
   大井宮へ八幡宮を合祀しているのであって、八幡神社の御霊は正八幡神社から
   大井八幡大神社に移されたものである。

   消えた諸行事
   お通夜
    一月十四日に、現在の中学二年生以下の男子が、各家庭を廻って米一握りあて
   集めて、お握りを作り、正八幡神社に籠り、横の川原で松の木を燃やして暖をと
   り徹夜をする。時には肝試しで墓場を巡回するなどして遊び通す。翌朝、松の木
   の燃え残りで、正月のお飾りさんを燃やし餅を焼いて食べると風邪を引かないと
   いう伝説があった。   昭和二十年代に無くなった。

   秋祭りの前夜相撲
    正八幡神社の秋祭りとおとうさんは現在でも、どこの部落でも継続されている
   が、私の子供の頃の「前夜相撲 」は、正八幡神社の秋祭りが一番盛大であった。
    紺原や新町の私の従兄弟は、これに出場するために、私の家に泊り、雑魚寝を
   するのも楽しみの一つであった。
    子供相撲と大人相撲があって、いずれも他部落の力自慢が大勢集まり、竹千鳥
   という元本場の相撲取りのお爺さんが行司をしていた。私の国民学校一年生当時
   には、勝てば一円、負けると五十銭で、大人は大金が貰えたようだ。大人の良い
   取り組みには人だかりが出来て、子供の私達は見せて貰えなかったのを覚えてお
   り、それほど盛況であった。

 

  

  大井浜古老の話
   かつて正八幡神社は、大井八幡神社境内の現在の稲荷大明神神殿の裏の小高い
   山腹にあった。当時正八幡神社は拝殿しかなく、秋の小祭 ( 旧九月十四日 ) も
   「 おとうさん 」をするだけだった。
   昭和十三年五月上旬、大井八幡大神宮司 櫛部浄春氏に頼み込んで、正八幡神
   社を元へ戻してもらうことになった。
    しかし、本殿内の小箱に入った御霊だけをくれて、正八幡神社へ納め、宮司
   還宮の儀式をしてくれたが本殿は戻してくれない。
    そこで、宮司が正八幡さんで祝詞をあげている留守の間に、数人の若者が大井
   八幡大神社境内の 正八幡神社本殿 ( 約一間 四方 ) を担いで帰り、一里塚 ( 現ユニ
   オン写真館横 ) に安置して、宮司が帰って行くのを待って、神輿音頭をとりなが
   ら正八幡神社拝殿の後ろへ配置し御霊を祀った。 宮司は後で気が付いたが叱ら
   なかったそうです。

  

  
   むかしの興味深いお話をたくさん聞かせていただありがとうございました。

 

     
     大西町の語り部として、いつまでもお元気でいてください。

 

   
   正八幡神社参道を出て右折大井浜第一橋をわたり えのき地蔵へ・・・・・・

 

  3.大井浜 えのき地蔵  野間郡四国八十八ヶ所

          第二十三番札所  地 蔵 堂  

    

     第二十三番札所  地蔵堂
  本尊  地蔵菩薩  住所 今治市大西町大井浜
 大西大西体育館横のえのきの大木の下に小さな祠
 があり、そこに石のお地蔵さんが祀られている。
 昔から悪霊や村人の疫病を追い払い苦しみを救っ
 てくれるお地蔵さんとして厚く信仰されてきた。
 特に子供を救ってくれる仏様と伝わっている。
 えのきのたもとにあることから「えのき地蔵」と
 呼ばれ親しまれている。

   

    
    橋を渡ると榎木の大木がみえてきます。

 

  
  地蔵堂は倉庫と榎木の間にあります。

 

  

 

  
   榎の木地蔵

    お地蔵さん
   大井浜には、榎の木地蔵と西の地蔵と二つのお地蔵さんがあり、八月二十二日が
  榎の木さん、その、ニ、三日後が西の地蔵さんとなっていた。
   お地蔵さんの日には、現在の中学校二年生以下の男子が、各家庭を廻って米一握
  りを集めて廻り、それをお握りにしてムロブタに並べて地蔵さんに供え部落中の人
  が集まって、光明真言のお経を唱えてそのお握りを食べた。私が四、五歳の頃には
  榎の木地蔵の日には、盆踊りを踊り、他の部落の人々も来て大変賑わっていたが、
  戦後は賑わいは薄れていた。
   西の地蔵さんは、庄屋の木本家の畑にあり、現在の大西小学校の西あたりにあっ 
    て、榎の木地蔵と同じ扱いをしていた。この地蔵さんは、何代目かの大井浜庄屋で
  次々と数人の家族が亡くなったので、悪霊を払うために、庄屋が建造したと言われ
  ている。両地蔵とも、戦後行事は無くなったが、榎の木地蔵だけは、私の母が亡く
  なるまで、隣の青野ヒフミさんと二人で、お賽銭を集めて、当日駄菓子を買い近所
  の子供達を集めて、御念仏を挙げ、駄菓子を配っていた。

                                   大井浜   新居田  利忠さんの資料より                            

 

  

 

    
    14 : 15  車に乗り合わせて 4 宮脇 大井八幡大神社へ。

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          O V S  活 動 

   O V S  活 動とは「 おおにし・ボランティア・サービス 」の略だそうです。
  従来ならば、地元「ともしび会」の方々と一緒に行う行事だそうですが、感染
  対策として学校単独で実地したそうです。

   
   自動車に乗ろうとしているとゴミ袋をさげた大西中学校の生徒さんが・・・・・・?

 

   

 

   
   O V S 活動の実施中だそうです、ご苦労様です。   

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       4.宮脇  大 井 八 幡 大 神 社

  
   神社の創建は大宝2( 702 ) 年で、その後延元3 ( 1338 ) 年に、後醍醐天皇
  皇子尊真親王が合祀された。天正13 ( 1585 ) 年に、国分の府中城主福島正則
  神領を召し上げられたが、後に藤堂高虎により神領に復帰し、松山藩領になって
  から、藩主松平定行が野間郡三大社の一社に定めた。
  宮脇・新町・大井浜の氏神で旧村社である。幅4m弱もある一枚石を使った石段は
  神社のシンボルになっており、5月の大祭には継ぎ獅子が行われ、獅子舞、奴行列
  やぐら、神輿の鉢合わせなど大変賑やかである。
  神社内には、宮脇出身の絵師山本雲渓の絵馬が奉納されている。 ( 市指定文化財 )

 

   
   14 : 20  大井八幡神社到着。   

 

   

    大井八幡大神

御祭神  阿佐利命 ( あさりのみこと )  岩弥尾命 ( いわやおのみこと ) 品陀和気命 ( ほむだわけのみこと)
    帯仲津日子命 ( たらしなかつひこのみこと ) 息長帯比賣命 ( おきながたらしひめのみこと )
    三筒之男命 ( さんつつのおのみこと ) 竹内宿祢 ( たけうちのすくね ) 玉依比賣命 ( たまより
     ひめのみこと ) 尊眞親王 ( たかざねしんのう )
 由 緒 沿 革  
  社伝によれば、文武( もんむ )天皇詔勅により、大宝二年 ( 702 ) 乎智宿祢玉純 ( おちすくねたまずみ )
  が奉行となって神殿を建営、風速野間の 国造 ( くにのみやつこ ) であった阿佐利命、怒麻の国造若弥尾
  の命の2柱を崇祀して大井宮と称した。
   後に清和天皇貞観元年に宇佐八幡大神山城国男山に勧請の時、航路にあたる当郷の弓津恵島 ( ゆず
   えしま ) に船泊した時、八幡神の御神託があり、河野探躬 ( こうのたんきゅう ) が垂跡 ( すいじゃく )
   地に八幡宮を勧請し、仮神殿を建立奉斎した。寛平二年大井宮に八幡宮を合祀し、大井八幡宮と称した。
    延元三年後醍醐天皇の皇子尊真親王がこの郷で薨去され、御霊を当社に合祀した。
                                ( 大井八幡大神社 由緒沿革より )

 

   
          大井八幡神社の山本雲渓作絵馬
    〇 張飛  —  天保 10年 ( 1839年 ) 60歳の作
    〇 牛と童子  —  書画年不詳
    山本雲渓は宮脇出身で、今治藩の御典医で小児科の名医として有名であり、
    また丸山派の大家森狙仙の弟子で画家としても有名である。特に動物画が
    得意で、猿の画は特に素晴らしい。
                             大西町教育委員会

      

  

 

  
  石 段
   宮脇、新町、大井浜の氏神で旧村社。幅4m 弱の 一枚石を使った八十五段の
  石段は、大井八幡大神社のシンボルになっており、五月の大祭には継獅子が行わ
  れ、獅子、奴、神輿などが下りてきます。

    

  
  八十五段の石段を上ると注連石の向うに大井八幡神社の拝殿。

 

  
  拝殿の鈴尾はまだ上げられたままに ( 早くコロナビールス感染が終息しますように )

 

  

 

  

    
    山本雲渓作絵馬
        牛と童子  —  書画年不詳
    

  

    
    山本雲渓作絵馬
        張飛  —  天保 10年 ( 1839年 ) 60歳の作
    

  

 

  
  神殿の裏にある稲荷大明神
 「 大井八幡神社の樹種名 」によると51種類もの樹木で覆われれているそうです。

 

      
       オオミズアオ ( ガの一種 ) が稲荷大明神社入口の山茶花の葉に・・・・・・・・・・・・

 

       

 

    

 

    
    稲荷大明神社にも鈴尾は下がっていません。     ————————————————————————————————————————————————————————————————
      お知らせ  
       御参拝各位  新型コロナウイルス感染症流行につき、
        感染予防のため拝殿の鈴を不使用といたします。 
       流行が収まるまでの間、ご理解いただきますようお願いします。 
                               稲荷大明神社     ————————————————————————————————————————————————————————————————

 

    

 

  
  拝殿の左に出る。

 

  

 

  
  手水舎

 

      

 

  

 

  

 

  
  14 : 45  大井八幡神社出発。

        5.宮 脇  諏 訪 神 社

  
  延元5年 ( 1340 ) 年、信濃国諏訪大明神を勧請した。
  正平14 ( 1359 ) 年、南朝方の河野氏の軍勢が諏訪神社に参篭した後、大勝利を
  収めたため、以後河野氏の尊崇があつくなった。  軍神、五穀豊穣の神としても
  崇敬された。
  明治4 ( 1871 ) 年、官命により大井八幡大神社に合祀したが、地元の氏子たちの
  強い願いにより、明治11年官許を得て還座した。

 

  
  14 : 55  途中で前の車を見失い地図の才鳥池を探して行ったり来たり・・・・・・
       何とか追いつき才鳥池上の路側帯へ駐車。

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  
  左へ行けば、重茂山に行くことが出来ます。

 

  
    神門(随身門)

          神門(随身門) に祀られている随身
  
        左大臣                 左守衛

 

  
        右大臣                  右守衛

 

        
        神門 ( 随身門 ) を出て、石段を上り・・・・・・・・・・・・

 

  
  広い境内へ。

 

    

 

    

 

  
  諏訪神社拝殿

 

  

 

    
    拝殿の右上に、宮脇出身の  山本雲渓作の絵馬 

 

  
 神社拝殿の北側に揚げられている祭礼行列絵馬は、当時の祭礼の様子や民俗、芸能の
 実態を知るうえで貴重な資料です。

 

 
 明治10年8月吉日、宮脇、脇、山之内、新町、大井浜、5村氏子中より奉納。

 

 
 現在は風化が進み祭礼行列の様子をはっきりと見ることが出来ません・・・・残念です。</p

 

  

            諏訪神社と祭礼行列絵馬

  延元5年 (1340  ) 信濃国諏訪大明神を勧請。正平14年 ( 1359 ) 南朝方の河野氏
 軍勢が諏訪神社に参篭して大勝利をおさめたため、以後河野氏の尊崇があつく、軍神
 五穀豊穣の神としても崇敬された。明治4 ( 1871 ) 年、官命により大井八幡大神社に
 合祀したが、地元の氏子たちの強い願いにより、明治11年官許を得て返還座した。
  神社拝殿の北側に揚げられている祭礼行列絵馬は、明治10年8月吉日、宮脇、脇、
 山之内、新町、大井浜、5村氏子中より奉納されたものである。
 この絵馬は当時の祭礼の様子や民俗、芸能の実態を知るうえで貴重な資料である。
                             大西町教育委員会  

 

  

 

  

 

  

 

  
  15 : 12  車に乗り合わせて、太元堂・観音堂へ出発。

 

    6.宮脇 太元堂・観音堂  野間郡四国八十八ヶ所

   第七十一番札所 太元堂  第七十三番札所  観音堂

    

  第七十一番札所 太元 ( 泰現堂 )
  本尊  観世音菩薩
  第七十三番札所 観音堂
  本尊  観世音菩薩
  住所  今治市大西町宮脇
  第七十一番太元堂と第七十三番観音堂は々お堂
 に合祀されている。お堂は今治市大西支所西側の
 道を上って衣黒団地を少し過ぎたところにある。
 第七十一番太元堂の御本尊は観世音菩薩で障子ヶ谷のお滝さんにあったもの。
 第七十三番の御本尊も観世音菩薩で一緒に祀られている。

 

    
    15 : 17  狭い道に入り、宮脇 太元堂・観音堂したに到着。

 

    
    右に、野間郡新四国八十八け所札所の石標。

 

  

 

  

 

  

 

    

 

    
    堂内の古い厨子には鍵がかけられています。

 

  

 

  

 

     
    15 : 24  宮脇奥の客大名神社へ出発。

 

                7.宮 脇 客 大 明 神 社

  
   元禄16 ( 1703 ) 年に建立、京都白山比津神社を本宮としている。諏訪神社
  同じく明治明治4 ( 1871 ) 年、官命により大井八幡大神社に合祀したが、地元の
  氏子たちの希望によりのちに還座した。
  5月の春祭りには、継ぎ獅子も行われ大変賑わう。

 

  
  14 : 26  道路わきに車を止めて狭い道へ入る

 

  
  左折。

 

  
  ゆるやかな坂道を上る。

 

       
       右側のキウイ畑には可愛いキウイの花が咲いていました。

 

  

 

  
  のぼりつめると左側に客大名神社の鳥居が見えてきました。

 

  
  鳥居を入り石段を上がると・・・・・・・・・・・・

 

  
  客大名神社拝殿前へ。

 

  

 

    
   客大名神社扁額

 

  
  拝殿からの眺め。

 

  
  宮脇奥の立派な神社でした。

 

  
  客大名神社の石段を下り、お地蔵さんの横の坂道を行くと・・・・・・・・・・・・ 

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            8.宮 脇 貴 布 祢 神 社

  
   京都の貴船神社を勧請し、洪水により参道が流され大破したので昭和48年に
  この地に移転再建された。

 

  
  客大名神社の前小さな祠 ( お地蔵さん ) の横を上ります。

 

  
  鳥居を入り・・・・・・・・・・・・

 

  
  貴船神社

 

  

 

  

 

  

 

  
   本日の町内歴史探訪の最後は、宮脇 貴布祢神社、一応ここで解散です。

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  
  15 : 47  車に乗り合わせて大西支所へ・・・・・・・・・・・・

 

  
  14 : 52  大西支所到着。

 

  
  車に乗り合わせて大井浜・宮脇の楽しい町内歴史探訪でした。
  本日私の歩いた距離は ・・・・・ 約 2.2 km。 歩いた歩数 ・・・・ 3784 歩でした。