衣笠弁天・衣笠妙見神社・間所神社・大井寺
9月の大西町歩こう会は 山之内 ( 間所 ) 地区です。 手入れの行き届いた
みかん畑 ( 特産品 ) の間を ( 衣笠弁天・衣笠妙見神社・間所神社・大井寺 ) と
可愛い野の花を見つけながら歩き、いい汗を 流しました。 大井寺の門前には
でっかいサルスベリ( 百日紅 ) が可愛いピンクの花をつけていました。
9:00 山之内集会 集合。
井手上先生の挨拶。
今日の案内は、 青井三郎 前大西史談会会長です。
( 愛称 : で愛、ふれ愛ロード )
今治から菊間に至る広域農道の愛称で、国道196号 渦潮B=MAC横信号から
野間馬ハイランド経由して菊間町県道164 松尾までの10,4 キロ区間。
正面に見える 山之内トンネル ( 仮 ) 39m 今治市 2003年 ループトンネル は
今治から菊間に至る越智西部広域農道で一つだけあるトンネルです。
弁天さんへ行くのは右に曲がるのですが ……………………………… 。
かくれキリスタン信仰石像の祠。 【 隠れキリスタン信仰石像 】
大西町には、隠れキリスタン信仰のものと思われる石像が多く存在しています。
衣笠墓地内のこの像は、ここにあったクヌギの大木の穴に隠されていたもので
すが、木が枯れたため取り出して、祠にお祀りしました。
【 弁天さん 】 市指定文化財
衣笠の丘に弁天を祀る祠があります。この弁天は近くにある重茂山
( 十文字山 ) 城主岡部十郎の息女を弁天として祀ったと伝えられて
います。重茂山城は、天正十三年 ( 1985 ) 秀吉の命により四国に
侵効した小早川隆景軍に包囲攻撃され落城する、その際 城主の息女
若き姫は乳母と共に逃れ出たが、衣笠のあたりで敵兵に発見され、
自害して果てた。村人たちは悲運の姫を悼み、ねんごろに弁天として
お祀りしました。そのまえに姫の墓と共に十字をかたどったマリアを
刻んだ石像がたっていました。 これが隠れキリスタンの信仰石像で
姫はキリスト教を信仰していたのではないかといわれています。
このキリスタン信仰石像は盗難にあい今はありません。
現在、5月5日には、現地の子供たちによる相撲大会が開かれます。
五輪塔。
9:28 衣笠乳地蔵堂。
二体のお地蔵様 ( 乳地蔵 )
乳を授けてくれる お地蔵様として信仰されています。
9:37 衣笠妙見神社に到着。
【 衣笠妙見神社 】 勧請年は不詳
北極星を仏教では北辰菩薩、またの名を妙見とみなすところから
近世以前の神仏習合時代に北辰菩薩を祀る集合神社を妙見社といった。
平成十三年六月の豪雨により 本殿崩壊し平成十五年五月再建。
本殿再建に際しては、妙見神社の資料が何もなく困っていたところ
大西史談会 青井三郎前会長が写した写真を参考にして再建されたそう
です。当時のお話を聞かせていただきました。
倉庫の前に収穫した胡麻の枝を束にして立てかけ干し ( 乾燥 ) ているのを
不思議そうに見ています。私も子供の頃 叔父の畑で見た記憶があります。
みかん畑の故郷フラワーロード !! お手入れが大変でしようね。
このトンネルは ( トンネルを入ると左にぐるっとカーブ してトンネルの上を走行する)
ループトンネルです。また越智西部広域農道区間に信号は ありません。
10:05 【 長本明一翁遺徳顕彰碑 】
長本明一翁は、昭和初期、広島県大長から新天地小西村に転入し、
みかんの栽培をはじめました。その後、この地のみかん栽培の
隆盛は彼の功績によるものと言えます。
年譜 明治二十六年十二月十四日、広島県豊田郡大長村 ( 現豊田町大長 ) で
父 七之丞の次男として出生。明治四十一年大長尋常高等小学校卒業。 成人
すると共に、家業のみかん作りに取り組む。昭和五年大長みかん出荷組合の
結成に尽力しその役員となる。当時より大長に於ける園の拡大の限界を知悉
していた翁は、小西村に適地が求められることを知り、昭和七年六月、翁
三十九歳、妻子五人と共に、小西村山之内に移住する。
翁は山之内で大長以上のみかんを作り、その良さを知ってもらうべく妻子と
共にみかん作りに情熱を傾注する。翁に刺激され、小西村のミカン栽培は
年を追って盛んとなり、小西みかんの名声は、次第に高まっていった。
然し翁も齢には勝てず、昭和五十四年惜しくも八十六歳で逝去される。
鳥居の横に 芭蕉句碑。
【 間所神社 】 山之内村 旧村社
社伝によると光仁天皇の朝宝亀十年 ( 779 ) 勒を奉じて大三島の
大山祇大明神を勧請されたと伝えられています。
祭 神 大山祇神社 雷神 諸山祇神 高靇神
合祀社 客神社 荒神社等
境内社 金毘羅神社 若宮神社
怒麻国造若称尾命が一宇を建営し、大山祇神、諸山祇神を崇祀した。
伊豫十三浦戸宮の一つであり、間所浦戸明神とも称した。
野間郡八十八ヶ所 第七十八番札所
⇒ 2012年2月19日、野間郡八十八ヶ所 第七十八番札所 大井寺参拝。
大井寺本堂
大井寺は 山之内間所にあり 嵯峨山 地蔵院 大井寺といい真言宗豊山派で
本山は奈良県の長谷寺で 本尊は 延命地蔵菩薩、文徳天皇安産祈願仏です。
弘仁年間 ( 810〜824 ) 瑞秀上人によって開山開創されたと伝えられています。
同年間、弘法大師巡教の際、大井浜の帷子磯 ( かたびらいそ ) に不動尊を祀り
ました。これが大井寺の始りともいわれています。そのご、大井八幡宮付近に
移り、さらに宮脇に移りました。南北朝時代の延元元年 ( 1336 ) 後醍醐天皇の
皇子である尊真 ( たかざね )、満良 ( みつなが )、懐良 ( かねなが ) の三親王が
征西将軍として来られた際に大井寺が御在所となりました。 しかし北朝方の
夜襲に敗れ、尊真親王は薨去 ( こうきょ )、大井寺は焼失しました。
その後、重茂山城主の要請で明道さんの地に移り整備されましたが、再び
業火に見舞われました。重茂山城主の岡部十郎により城の鬼門除けにと現在の
地に建立したと伝えられています。
本堂の裏側に古い五輪塔があり、石段を登ると間所薬師堂。
間所五輪塔。
【 間所薬師堂 】
ご本尊の薬師如来は鎌倉時代の仏師快慶の作と伝えられています。
間所大沢氏の先祖がこの地へ背負ってきたと云われ、経験あらたかな
お薬師さんとして人々から信仰されています。
本尊 薬師如来坐像
写真は大西探訪 P 24 よりお借りしました。
⇒ 2012年2月28日、野間郡八十八ヶ所第七十七番薬師堂 参拝。
御本尊台座に 「 開仏地蔵尊 悪事不来村中安穏 」と刻まれています。
十天堂の名称は この他にキリスト教が信仰されていたことに由来しています。
明治二十年 ( 1887 ) に建立されました。
山之内集会所へ。
11:13 全員無事 山之内集会所 到着。
本日の歩いた距離 ……… 3.8 Km 歩いた歩数 ……… 6024 歩