天気予報では西日本も雪になるとか 、この冬一番の寒さの中雪になる事も無く、
山之内の ( 坂道の多い ) 史跡を巡るうちに身体がポカポカといい汗を搔きました。
14:00 山之内集会所に集合。
歩こう会 2月11日 ( 土 ) 出発2時 出発場所 : 山之内集会所
コース : 天神社 → 客本地蔵 ( 大河内地蔵 ) → 大河内八幡神社 → せのぼり地蔵
→ 大河内馬之丞五輪塔と社殿 ー今日のの資料をいただきます−
山之内集会所の横にもお地蔵さんがお祀りされています。
14:00 山之内集会所出発。
天神社
山之内本谷にあり菅原道真を祭ると共に猿田彦 ( さるたひこ ) 命、水象女 ( みずはのめ ) 命、高倣加美 ( たかおかみ ) 命、闇倣加美 ( くらおかみ ) 命を祭っている。
天明元年 ( 1781 ) の創立といわれるが詳しいことはわからない。
明治四十一年 ( 1908 ) 九和村鍋地の四郎明神を勧請、同四十三年に菅原道真
を合祀し天神社と改めた。
境内神社には、荒神社、貴布祢神社、三島神社が祀られています。
左より、三島神社 ( 大山祇命 ) 、貴布祢神社 ( 高倣加美命 ) 、荒神社 ( 須佐之男命 )
向こう側の道路沿いに見えるのは 野間郡八十八ヶ所 第七十六番 観音堂です。
山之内橋を渡ると向こうの道と合流。
本尊のお地蔵さまは粗削りで素朴な木像です。
眼病を治すお地蔵さまです。
大河内八幡神社へ。
大河内八幡神社
祭 神 息長帯姫 ( おきながたらしひめ ) 命、帯仲津彦 ( たらしなかつひこ ) 命、
品陀別 ( ほんだわけ ) 命。
合 祀 伊邪那岐 ( いざなぎ ) 命、伊邪那美 ( いざなみ ) 命、
菊理姫 ( くくりひめ ) 命、大河内馬之丞 ( おおこうちうまのじょう ) 。
永禄十二年 ( 1569 ) 大河内氏が伊勢国から山之内村に移住し、八幡宮を勧請して
氏神とした。その後 片上八郎左衛門は曾祖父大河内馬之丞が山之内村を開拓した
功業を讃仰し、八幡宮に合祀して大河内八幡宮と称号し尊崇した。
せのぼり地蔵堂。
せのぼり地蔵。
昔、川下に流されて亡くなつた子供が、元の所へ帰ってきました。村人はこれは
地蔵さんの力に違いないと、お地蔵さんを作り子供の霊を弔いました。
大河内馬之丞五輪塔社殿。
ここをクリック ⇒ 大河内馬之丞縁起 拡大
大河内馬之丞五輪塔
信州軍に敗れた伊勢の北畠具親 ( きたはたともちか ) は毛利を頼って中国に落ち、
後伊予に移り菊間の池原通吉 ( いけはらみちよし ) の援助で高田に住んだ。
具親は重茂山城主岡部十郎の女を娶り馬之丞を生み、性を大河内と改めた。
天正十三年 ( 1585 ) の秀吉の四国征伐に大河内氏は重茂山城の岡部、高田に
協力したが、小早川軍の攻撃に重茂山城は落城。敗戦後大河内一族は性を片上に、
高田は山本に改めた。
秀吉は伊予平定の翌 天正十四年 ( 1586 ) 伊予国内で重要な城十ヶ所を残し
あとはすべて破却させた。片上、山本、神野、岡部らの拠城はすべて取り壊された。
これらの各氏は帰農した。
その後各氏共地方の庄屋に取り立てられ、片上家は山之内村・野間村・波方村・
樋口村、山本家は宮脇村、神野家は別府村・宅間村の庄屋となっている。
梅の木も下から見上げると青空が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山之内橋からの風景。
観音堂へ下りる。
⇒ 2012年2月19日、野間郡八十八ヶ所 第七十六番 観音堂参拝の様子です。
お寺には蘇鉄が植えられているのをよく見かけます何故でしょうか ?
( 色々の説がありますが、蘇鉄の 蘇は、蘇生するの意味。蘇鉄は枯れ
そうになったとき、鉄を与えると再生するといわれているそうです )
五輪塔へ。
五輪塔がありました。
五輪塔は、墓搭として使われる仏塔です。平安時代末期から作られるようになり
鎌倉時代に多く作られました。山之内には、各地にたくさんの五輪塔があります。
立派なピラカンサの木ですね。
これはミカンではありませんキンカンです。
正面に最初に行った天神社がみえます。 山之内川に架かる大井出橋を渡ります。
15:52 山之内集会所到着。