~ 藤山公園〜別府地区 ~
今日の史跡巡りウォーキングば大西町の別府地区です。
みかん畑を眺めながら奥へ々と史跡を訪ねて歩きました。
史跡巡りウォーキング 〜 大西町・藤山健康文化公園 〜
9:30 受付開始
9:45 クアハウス今治 出発 10:15 藤山健康文化公園 到着 ( トイレ休憩・準備体操 )
10:45 バスでウオーキングスタート地点へ出発 10:55 ( 有 ) ヒロ・コーポレーション 駐車場 スタート
( 3km・5km 共通スタート )
11:50 長本明一翁遺徳顕彰碑近く 空き地 ゴール
( 3km・5km 共通ゴール )
⇓
バスで藤山健康文化公園へ移動 ( 昼食・自由行動 )
12:50 藤山健康文化公園 出発
13:20 クアハウス今治 到着
13:30 クアハウス今治より 市内循環送迎バス 出発
〜 クアハウス今治・ウォーキング行程表より 〜
9:40 藤山公園北駐車場到着、受付を済ませます。
何時もは大西支所からクアハウス今治へ、全員集合のあと目的地へ
出発ですが、大西地区は9時50分までに藤山公園北駐車場集合です。
駐車している2台のバスのうち2号車に荷物を置き、( トイレ休憩・
準備体操 ) の為多目的芝生広場へ。
[
10:33 1号車、2号車 ウォーキングスタート地点へ出発。
史跡巡りウォーキングマップ ⇒ 拡大
10:43 ( 有 ) ヒロ・コーポレーション 駐車場到着。
( 3km・5km 共通スタート地点 )
今治方面から来る3台のバスが到着するまで隣接する加茂神社の
境内へ、神社をぐるっとひとまわりします。
加茂神社
加茂神社のクロガネモチは、根周り 5.15 m、高さ約 20 m、
樹齢推定 250年で市の天然記念物となっています。
① 加茂神社
1296年大島亀山村の村上伝平が一社を創立し、若宮神社と称したが、
1901年その縁者のものが祭神を加え、加茂神社と改称。
広域農道沿いの山之内集会所前の横断歩道を左折。
② 天神社
山之内本谷にあり菅原道真を祭ると共に猿田彦 ( さるたひこ ) 命、水象女
( みずはのめ ) 命、高倣加美 ( たかおかみ ) 命、闇倣加美 ( くらおかみ ) 命を
祭っている。
天明元年 ( 1781 ) の創立といわれるが詳しいことはわからない。
明治四十一年 ( 1908 ) 九和村鍋地の四郎明神を勧請、同四十三年に
菅原道真を合祀し天神社と改めた。
山之内橋を渡ると向こうの道と合流。
右側に ④ 客本地蔵堂がありますが帰りにお参り。
左側には大河内八幡神社。
③ 大河内八幡神社
祭 神 息長帯姫 ( おきながたらしひめ ) 命、帯仲津彦 ( たらしなかつひこ ) 命、
品陀別 ( ほんだわけ ) 命。
合 祀 伊邪那岐 ( いざなぎ ) 命、伊邪那美 ( いざなみ ) 命、
菊理姫 ( くくりひめ ) 命、大河内馬之丞 ( おおこうちうまのじょう ) 。
永禄十二年 ( 1569 ) 大河内氏が伊勢国から山之内村に移住し、八幡宮を
勧請して氏神とした。 その後 片上八郎左衛門は曾祖父大河内馬之丞が
山之内村を開拓した功業を讃仰し、八幡宮に合祀して大河内八幡宮と称号
し尊崇した。
3Km コースの折り返し地点。5Km コースはさらに奥へと進みます。
林道山之内線の標識がたっています。
せのぼり地蔵
昔、川下に流されて亡くなつた子供が、元の所へ帰ってきました。
村人はこれは地蔵さんの力に違いないと、お地蔵さんを作り子供の
霊を弔いました。
⑥ 大河内馬之丞五輪塔社殿
( 5Km コースの折り返し地点 )
大河内馬之丞五輪塔
大河内馬之丞五輪塔
信州軍に敗れた伊勢の北畠具親 ( きたはたともちか ) は毛利を頼って中国に
落ち、後伊予に移り菊間の池原通吉 ( いけはらみちよし ) の援助で高田に住んだ。
具親は重茂山城主岡部十郎の女を娶り馬之丞を生み、性を大河内と改めた。
天正十三年 ( 1585 ) の秀吉の四国征伐に大河内氏は重茂山城の岡部、高田
に協力したが、小早川軍の攻撃に重茂山城は落城。 敗戦後大河内一族は性を
片上に、高田は山本に改めた。
秀吉は伊予平定の翌 天正十四年 ( 1586 ) 伊予国内で重要な城十ヶ所を残し
あとはすべて破却させた。片上、山本、神野、岡部らの拠城はすべて取り壊さ
れた。これらの各氏は帰農した。
その後各氏共地方の庄屋に取り立てられ、片上家は山之内村・野間村・波方
村・樋口村、山本家は宮脇村、神野家は別府村・宅間村の庄屋となっている。
客本地蔵
本尊のお地蔵さまは粗削りで素朴な木像です。
眼病を治すお地蔵さまです。
客本地蔵下の山之内橋は渡らずに直進。
みかん畑の間の小道を観音堂参道口まで下りる。
⑦ 観音堂
野間郡四国八十八ヶ所 第七十六番 札所です。
⇒ 2012年2月19日、 第七十六番 観音堂参拝の様子です。
弁天さん 市指定文化財
衣笠の丘に弁天を祀る祠があります。この弁天は近くにある重茂山
( 十文字山 ) 城主岡部十郎の息女を弁天として祀ったと伝えられて
います。重茂山城は、天正十三年 ( 1985 ) 秀吉の命により四国に
侵効した小早川隆景軍に包囲攻撃され落城する、その際 城主の息女
若き姫は乳母と共に逃れ出たが、衣笠のあたりで敵兵に発見され、
自害して果てた。村人たちは悲運の姫を悼み、ねんごろに弁天として
お祀りしました。そのまえに姫の墓と共に十字をかたどったマリアを
刻んだ石像がたっていました。 これが隠れキリスタンの信仰石像で
姫はキリスト教を信仰していたのではないかといわれています。
このキリスタン信仰石像は盗難にあい今はありません。
現在、5月5日には、現地の子供たちによる相撲大会が開かれます。
⑨ 衣笠乳地蔵堂。
二体のお地蔵様 ( 乳地蔵 )
乳を授けてくれる お地蔵様として信仰されています。
衣笠乳地蔵堂横の坂道を下り
⑩ 長本明一翁遺徳顕彰碑
長本明一翁は、昭和初期、広島県大長から新天地小西村に転入し、
みかんの栽培をはじめました。その後、この地のみかん栽培の
隆盛は彼の功績によるものと言えます。
年譜 明治二十六年十二月十四日、広島県豊田郡大長村 ( 現豊田町大長 ) で
父 七之丞の次男として出生。明治四十一年大長尋常高等小学校卒業。 成人
すると共に、家業のみかん作りに取り組む。昭和五年大長みかん出荷組合の
結成に尽力しその役員となる。当時より大長に於ける園の拡大の限界を知悉
していた翁は、小西村に適地が求められることを知り、昭和七年六月、翁
三十九歳、妻子五人と共に、小西村山之内に移住する。
翁は山之内で大長以上のみかんを作り、その良さを知ってもらうべく妻子と
共にみかん作りに情熱を傾注する。翁に刺激され、小西村のミカン栽培は
年を追って盛んとなり、小西みかんの名声は、次第に高まっていった。
然し翁も齢には勝てず、昭和五十四年惜しくも八十六歳で逝去される。
12:50 藤山健康文化公園 出発。
13:20 クアハウス今治 到着。
15:30 市内循環送迎バス 出発。
予定は上記のようになっていますが私は現地解散ここで家に帰ります。
本日の歩いた距離‥‥‥ 8.5 Km。 歩いた歩数 ‥‥‥ 11580 歩。