新町地区 ・ 旧大庄屋井手家〜古寺地蔵他 ( 2017-07-08 )
日々何気なく通っている生活道の中には、昔の町の歴史が数多く残されています。
本日の歩こう会は、新町地区 ( 旧大庄屋井手家・真光寺・田坂槍之助の墓・ 荒神社
厳島神社 ・ 土岐氏の墓・ イブキビャクシン ( 鴨頭邸 ) ・ 古寺地蔵 ・ 美穂神社 ( 昔
大松のあった所から来島どつく拡張の為大西駅裏に移転 ) 等、御手先生の案内で、
約1時間30分、一番身近にある史跡巡りでした。
9:03 井手上先生より、本日の資料 「 新町 」 MAP を参考にコースの説明
クスノキ
根廻り 5.00メートル。 樹高 25メートル。 樹齢 350年以上。
この木のある旧大庄屋井手家は、天正13年 ( 1585 ) に初代井手清右衛門が
当地に居を構え、大屋根に置かれた天水瓶は、大阪の陣のとき徳川方に味方
した功績により、特別に認められたものだと言われています。当時は瓦葺きは
おろか、天水瓶を置くことは固く禁止され、城や代官所にも珍しいほどで、この
格式と権威の象徴は県内では、他に例がありません。 参勤交代のときには、
本陣になっていました。
このクスノキは樹齢350年と言われ、根本には、一字一石の経塚が祀られて
いました。現在の建物は、築200余年と見られ、建物と共に町の指定文化財に
なっています。
平成4年3月 大西町教育委員会
天水瓶のある旧大庄屋井手家
江戸の初期、徳川方に味方した大庄屋井手家は、その功績により 「 何ても望み
をかなえてやる 」 とのお達しで、わらぶきの屋根を瓦にかえ、防火用として屋根に
天水瓶を置く事を許された。
その後、松山藩主の参勤交代の時には、本陣 ( 定宿 ) となつていた。
昭和9年 ( 1934 ) に大井村が譲り受け、同18年内部や窓などを大改造し、役場と
して使用され、同50 ( 1975 ) 年まで続いた。その後農協や漁協にも利用されたこと
もある。 大西町史談会
9:10 井手庄屋前出発。県道15号線 ( 昔の国道196号線 ) 庄屋前の
路地を入る。
清井山淨雲院 真光寺
野間郡四国八十八ヶ所 第六十八番札所
宗派 浄土宗鎮西派。 本山 知恩院。
本尊 阿弥陀如来。
脇士 観音菩薩 勢至菩薩
善導大師 宗祖圓光明照和順大師
この寺は慶長年間 ( 1596〜1615 ) に新町の大庄屋井手清右衛門が
建立し真誉秀道和尚を請じて開創したと伝えられている。
山号の清井山は井手の「井」と清右衛門の「清」の二字をとったものである。
⇒ 2012年2月18日、野間郡四国八十八ヶ所 第六十八番札所 真光寺参拝。
田坂槍之助の墓
田坂槍之助貞緑は来島城主村上康吉(1500年代)の家臣で、 豪邁で武芸に秀で
槍の妙技を持ち、城主から槍之助と命名される程であった。
或る時、十数人の武士を乗せた船が来島瀬戸を無断で通りぬけようとした。槍之助は
すばやくその船を追い、帆別銭を請求した。 然し、船は冷笑して通り過ぎようとした。
槍之助は 「 汝等 天下の法を知らないか、そのままでは航行は許せない 」 というと
「 この広き海を通るのに帆別など片腹痛い。 帆別銭が欲しいのならどこまでもついて
来い 」とあざ笑った。 槍之助は槍をしごいて彼の船に突込み、忽ち二人を突きふせ、
船上での戦に馴れない武士は次から次に突き倒された。 これはいけないと考えた
武士は陸に上がって勝負をしようと言った。 槍之助も之に応じ、桜井の浜で七、八人を
相手に戦ったが、遂に討ち取られた。
桜井村の人々は槍之助の武勇を称え懇ろに葬った。
ここ真光寺にある墓は桜井の分墓である。 大西町教育委員会
田圃を眺めています何がいるのでしょうか?
稲にくっ付いているのは ?・・・・ 外来種タニシのタマゴだそうです。
9:30 荒神社へ。
荒神社・厳島神社
勧請年、由来などは不詳。社殿は平成元年に新築されたもので、それを機に、
5月の春祭りに荒神太鼓が奉納されるようになりました。
荒神社の裏道へ。 お茶花・ねじれ草。
国道196号線へ。
土岐氏の墓
土岐氏は美濃の豪族土岐源氏で、室町時代足利尊氏によって伊予に配され、
河野氏に仕えたと伝えられています。当初は紺原の山崎城に居城していましたが
その後、子孫は藤堂高虎に仕えて今治城に移りました。
イブキビャクシン ( 市指定文化財 )
鴨頭医院の庭園内にある巨木で根周り約3m、樹高約15m もあり、幹がねじれる
ように上に向かっている様は見事です。樹齢300年以上と推定されています。
通常は自由に見ることはできませんが、特別にお願いすれば見学もできるそうです。
古寺地蔵尊由来沿革
ここ古寺には、もともと真光寺があった。同寺が移転したため、松山藩はこの跡地を
処刑場とした。以来、ここは多くの罪人が処刑されてきた地である。 貞享年間、高い
年貢に加え打ち続く凶作のため、百姓の生活は悲惨を極めていた。 延喜村の庄屋、
八木忠左衛門は彼らの生活を座視することが出来ず、藩主に年貢の軽減の直訴に
及んだ。 忠左衛門はその罪を問われ貞享3年 ( 1686 ) せがれ小太郎と共に、ここ
古寺の処刑場で斬首、さらし首に処せられた。 延喜村を中心とする野間郡の百姓
たちは、命を賭して直訴した忠左衛門を義民と称え、ひそかに地蔵尊を建てて、その
菩提を弔った。その後、この地蔵尊は、火難、悪病、厄除け地蔵として人々の信仰を
集めてきた。
下って明治3年 ( 1869 ) 野間郡大庄屋、井手氏により処刑された人々の霊を慰め
るため 「 大乗妙典 一石一字 」 の供養塔が建てられた。
さらに大正13年 ( 1924 ) 、同年5月18日には、下町を中心とする有志の方々によって
近郷近在で御詠歌を唱えて浄財を募ったり部落の方々の寄付により隣接地を購入して
境内を拡張し、新しく御堂が建立された。爾来、新町部落は、この古寺地蔵堂の
維持管理を下町部落に委託し、毎月23日を、御命日として御霊供膳を備えて祭り、殊に
新暦8月23日を、御縁日として下町総出で ダシ ( 藁人形 ) を作り、表通りに飾って賑や
かに供養してきた。 参詣の人々は 「 大井古寺 火難 悪病 厄除お守り 」 を授かり、
盆踊りも盛んで夜店も出るなど大変賑った。
その後、六十余年の歳月を経た御堂も老朽化が進み部落内外の人々から寄付を仰いで
昭和60年3月17日、古寺地蔵堂の新築再建を見るに至った。
ここに古寺地蔵尊の功徳に感謝し、先人の業績を偲ぶと共に、この尊い遺産を後世に
伝え残したい。 昭和六十年 ( 1958 ) 新町部落
古寺地蔵尊。
古寺地蔵を出て駅裏の 三穂神社 ( 恵比須神社 ) へUターン。
石門 ( 神門 ) と、囲い石は、旧政所中原集会所より移築されました。
政所由緒沿革
平成19年前後、数年をかけ株式会社来島どつく工場用地拡張の為、
長年住み慣れた政所の住民十六軒の移転が余儀なくされた。
この地は、野間郡のほぼ中央に位置し、藩政時代に代官所や御蔵元が
置かれたことから戸口も増え、神原村 ・ 現在の紺原から分村し新町村が
生まれたと伝えられ、この地域を番所と呼び、政所の語源ともなっている。
また大きな松の古木があったことから、通称大松 ( 新町甲一〇九四番地 )
の名で親しまれていた。この付近に大井御蔵元があり、新町他十四ヶ村の
年貢米が収納されていた。収納米の管理には代々地域の庄屋が命ぜられ
てきた。 時代の返還と共にいつの日か ( 時代不詳 ) この地に蛭子の宮の
祠が祀られ 「 おえべっさん 」 の名で周辺の人々の信仰を集め蛭子の宮
の祠と共に人々の安らぎの場となっていた。
この蛭子の宮は 明治三年、三穂神社と改号された。
文政三年 ( 1820 ) 波止浜塩田騒動が起き、藩庁では暴動に加わった首謀者
や浜子らを逮捕し大井蔵元に送り、この代官所で過酷な取り調べがなされた
事などが伝えられている。
昭和十九年 「 波止浜船渠株式会社 」 により造船所の建設が始まったが
翌二十年 終戦となり 建設は中止され、昭和三十年三月三十一日 町村合併
( 大井村 ・ 小西村 ) となり、昭和三十六年 来島船渠株式会社を誘致し
同年八月から跡地のドックを利用し大西工場建設に着手。
昭和四十二年周辺の人々による浄財により前身の三穂神社の社が新築され
その後、昭和五十八年地域住民の寄り合いの場として、新町部落より政所
中原集会所が新築された。
平成二十一年これら歴史あるすべての土地建物も移転余儀なく、平成二十二年
三月新町部落により現在地に新築移転されるに至った。
私達は此れら由緒ある政所の沿革を、後世に伝えていきたいと思う。
平成二十二年三月 新町部落
こちらは ⇒ 2010年2月21日、大松集会所 ( 恵比須神社 ) の様子です。
当時境内には、恵比須神社の案内板が立っていました。
10:30 井手庄屋跡大楠到着。
約1時間30分の史跡巡りでした。
来月8月12日の歩こう会、高仙山登山・ブルーベリー園についての説明の後解散。
本日の歩いた距離・・・3.4Km。 歩いた歩数・・・5320歩 でした。