大山祇神社参拝と道の駅山陽道やかげ宿
コロナ過により大山祇神社への参拝は3年間お休みが続きましたが今年は神社参拝を
終えて、道の駅山陽道「矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区 」へ出発しました・・・・・。
8: 30 ( 有 )矢代モータース集合。 9: 00 出発の予定。
8: 55 全員集合。一号車 ( 大型バス ) より出発。
9: 03 今治ICへ。
9: 05 近見山トンネル。
来島海峡大橋は ( 来島海峡第三大橋~来島海峡第二大橋~来島海峡第一大橋 ) で
繋がっています。
9: 25 大三島ICを出て県道21号線を走り三村峠を越えて道の駅御堂へ。
9: 38 道の駅御堂前、おみやげナガノ駐車場到着
大山祇神社正面の二の鳥居前をはいる。
( 一の鳥居は瀬戸内海に面した宮浦港の大山祇神社参道入口前にあります )
参道の右側に「 斎 田 (さいでん ) 」
大山祇神社伝統の神事 御田植祭 (旧暦五月五日) と抜穂祭 (旧暦九月九日 )は
この神田に於いて行われます。このとき、愛媛県無形民俗文化財 一人相撲が
奉仕されます。
総門
2010年4月、688年ぶりに再建された大山祇神社総門は 約3億2000万円の総工費で
製作された総ヒノキ製の総門 ( 高さ約12メートル、幅10メートル、奥行き5メートル )
の両翼舎。
神社を守る随身像は高さ2.5メートル、重さ250キロの武者姿で、池川敏行 香川大学
名誉教授 ( 東温市出身当時82歳と次男の直さん当時52歳 ) の彫刻家親子が 境内に植わ
っていたヒノキを使い2年をかけて完成したそうです。
境内
天然記念物 乎知命御手植の楠
御島 ( 大三島 ) に 祖神大山積大神を祭った乎知命お手植え楠 ( 樹齢2600年 ) と
伝えられ古来御神木として崇められています。
乎知命手植えの楠駒札より
神門
寛文元年 ( 1661 ) 松山藩主松平定長からの寄進で、素木造の屋根は切妻造檜皮葺で
あったが 老朽化のため355年ぶりに建て替えられ、2016年12月4日竣工式が行われた
今まではいなかった随身像が両脇に鎮座し随身門となつた。なお、元の神門は高橋市
川面町の大山祇神社へ平成29年に移築され屋根は銅板に葺き替えられた。
総鎮守 大三島宮 大山祇神社 由緒
御 祭 神 大 山 祇 大 神
御祭神大山祇大神は天照大神の兄神で山の神々の親神に当たり ( 古事記・日本書紀 )
天孫瓊々杵尊の后妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、
和多志大神 ( 伊豫国風土記 ) と申し上げる。 海上安全の守護神である。
他神・海神兼備の大霊神として日本の国土全体を守護し給う神であることから古代より
日本総鎮守と尊称され 朝廷を始め 国民の崇敬は各時代を通して篤く 中世は 四柱詣、
五柱詣の中心となり、平安時代既に 市が立ち現在に続いている。
御分社は、全国に10000余社祀られ、延喜式名神大社に列せられ伊豫国一の宮に
定められた。
明治以降は国弊大社に列せられ、四国で唯一の大社として尊崇されている。
境内の大山祇神社由緒より
大山祇神社 拝殿 ( 国の重要文化財 )
室町時代の応永34年 ( 西暦 1427年 ) 再建、慶長7年 ( 1602年 ) 大修理。
素木造りで 屋根は切妻造檜皮葺。正面中央に一間の向拝を設けるる
祈祷受付所、神附授与所。
神職さんがご案内
ここから撮影禁止です。
———————————————————————————————————————————————————————
9 : 55 ドーン・ドーンと神職の打つ太鼓で神事 ( 御祈祷 ) が始まりました。
10 : 05 滞りなく神事 ( 御祈祷 ) 終了。本日の御祈祷は紺原部落だけのようでした。
———————————————————————————————————————————————————————
神事が終わり、ひとりひとりに御神酒がふるまわれました。
ありがとうございました。
10 : 17 出発は10時40分、
店内へ、お勧めは ( 伯方の塩使用 銘菓 塩まんじゅう )だそうです。
10 : 40 おみやげナガノ 駐車場出発。
10 : 50 大三島IC
山陽道へ
赤坂トンネル。福山SAまでで2.6kmです。
11 : 28 福山サービスエリア到着 ( 自由昼食 )
バラ園。薔薇の見頃は春と秋 ( 夏はキレイに刈り込んでいます ) 時間があれば
ドッグランへも・・・・・・
食事を済ませ、お土産を・・・・・・・・・・・・・・・
出発時間迄には間があるのでドッグランへ・・・・・・・・・・・・・・・。
中々こちら ( カメラの方向 ) を向いてくれません !
ありがとうやっとこちらを向いてくれました。
12 : 35 福山SA 出発。
山手トンネル
牧谷トンネル。
鴨方ICを出る。
右折 ⇨ 県道64号線へ。
遙照山トンネル
小田川に架かる弦橋 ( つるはし ) を渡り右折大型バス駐車場へ。
13 : 13 道の駅大型バス駐車場到着。
山陽道やかげ宿駅舎へ。
やかげまるごと道の駅 矢掛見どころ 観光 map を参考に・・・・・・!
宿場町矢掛
矢掛の町は、江戸時代初期 ( 1620年 ) に作られ現在もその町並みが残る旧山陽道の
宿場町です。そのため江戸時代から令和までの建物が独特の景観を創り出しています
しかも、この街は観光のために保存されている街ではなく、今現在も住民が生活する
場として、「 生きている 」街です。
矢掛見どころ 観光 mapより
13 : 20 入口から裏通りへの橋台小路へ下りて右折、本陣通りへ。
~ バスが出発する3時までの約2時間40分、矢掛宿を散策 ~
本陣通りへ出ましたが・・・・・・・・・・・・?
右へ行こうか・・・・・・・・・・・・?
左へ行こか・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 思案中。
虫籠窓 ( むしこまど ) が珍しい正面の 矢掛ビジターセンター「 問屋 ( といや ) 」さんへ。
お店かと思って入ったのですが、やかげなんでも案内所でした。
参勤交代は百人もの団体で 大名行列 のビデオが流れていました。
立派な鎧兜一式
奥のお庭も見せていただきました。
スリッパに履き替えて二階へ・・・・・・
美しい原画が展示されていました。
手摺に沿って時計回りに・・・・・・
見事な梁に見惚れてしまいました。
矢掛ビジターセンター「 問屋 ( といや ) 」さんでは貴重な体験を・・・・・・ !
テンペ料理 発酵亭 カフェ ワルツ
満天茶屋 ( お食事処 )
アートギャラリー本陣
おこのみやき 大 黒 屋
友達にやっと追いつきました・・・・・ ( 右側の妻入り五軒並び ) 巧く入りません残念。
屋根を入れての注文に・・・・・・・・・・・・・・・!!!
坪井畳店の前で ひと休み。
山辺花店、左は和洋設置の内装川田肉店。
塩尻美容室
福本屋 百貨 ( サラダ館・結婚相談所 )
やかげ町家交流館 ( やかげ茶屋・お食事処 )
綿屋小路
重要文化財 矢掛本陣 石井住宅
重要文化財 旧 矢 掛 本 陣 石 井 家 住 宅
昭和四十四年六月二十日 指 定
昭和五十八年六月二日 追加指定
石井家は江戸時代初期 ( 1620年頃 )、この地に居を構え、中期以後は代々大庄屋を
務めるかたわら、本陣を兼ねた旧家で、元禄頃からは酒造業を営んで繁栄したという。
屋敷地は旧山陽道に面し、間口がおよそ二十間 ( 三十六メートル )、約千坪 ( 三一六四
平方メートル ) ある。街道に沿って東から主屋、座敷、御成門を配し、これらの背後
には米倉、酒倉、絞り場、麺室の酒造関係施設と内倉、西倉、中門、隠居所、番所等が
建ち並び、南の敷地境には、裏門座敷長屋がある。これらの建物は、一部安永・天保
頃の物もあるが、幕末から明治時代にかけて現在の姿に整ったものと考えられる。
主屋は、街道側から「 店棟 」、「 台所棟 」、台所棟の西方に「 居室棟 」が、それ
ぞれ棟を違えてつづき、中央に中坪 ( 坪庭 ) がある。主屋の建築は安政頃、「 店棟 」の
建築から取り掛り、「 向座敷 」( 店棟の土間を挟んで東側に配される部屋 )、「台所棟」
「 居室棟 」と順次建築し、明治時代になって完成した。その後、大正十年頃と昭和
二十年前後に修理を行っている。さらに昭和六十一年から平成三年にかけて、大規模な
修理を行い、現在に至っている。主屋の西に接続する屋敷は五室からなり、正面中央に
唐破風付きの玄関を構える。梁の墨書から、天保三年 ( 一八三二 ) の建築であることが
知られる。 主屋の建て替えに伴って東側九畳のトコ構えの一部を変更し、明治末から
大正頃にかけて屋根葺き替え等があり、このときに十二畳西側の大トコ等の改造が行わ
れた。
旧矢掛本陣は、規模が大きく、建築の質も優れ、付属屋に至るまでよく保存されて
いて、主要街道の本陣として類例も極めて少なく、その構えと風格をしのぶ遺として
価値が高いことから、昭和四十四年六月二十日付で各建物が重要文化財に指定された。
また昭和五十八年六月二日には 現在の屋敷構え全体を保存する上からも、宅地、家相
図、隠居所等を含め、追加指定された。 矢掛町教育委員会
石井醤油店
この家は明治四十二年、本家石井家から分家し、副業であった醤油醸造業を引継ぎ、
北石井と呼ばれました。以来、今でも奥の蔵で伝統的な製法で醤油を生産しています。
懐かしいと言うほどの年齢ではありませんが・・・・やっぱり懐かしいですね。
暖簾を出てもしばらく余韻が残っていました。
左から、山陽新聞矢掛支局・井上美容室・武井本店。
横山精肉店。
左に、ぼっこう堂 ( 手焼きせんべい )。赤い橋が見えたので急ぎます。
ここからUターン・・・・・・・・・・・・・・・
旧 邊辺たばこ店 若木屋教材社。
観音寺小路
観音寺 ( かんのんじ ) 小路 ( 北 )
奈良時代に開創されたと言われる真言宗の忍辱山観音寺へ続く道です。
本堂は寛政十二年 ( 1800 ) に再建されました。鬼瓦、屋根瓦は庭瀬藩御用
職人・瀬崎卯三郎の作と言われています。
矢掛町産業観光課
観音寺小路を入ると正面に立派な山門。
「 備中西国十七番札所 忍辱山 観音寺 」
境内
本堂
木造 十一面 観世音菩薩 立像
矢掛町 重要文化財 ( 彫刻 )
昭和五十年三月二十一日指定
所在地・矢掛町 矢掛三一〇七
管理者・観音寺
この立像は一本造りで高さ 一 . 二一 メートル。
観音寺は 鷲峰山 捧澤寺 隠居寺で捧澤寺より分譲 受けた仏像と寛永十六年
( 一八三九 ) に檀徒が京都に行き購入して迎えた。この十一面観世音菩薩像の
霊仏がある。
寺伝によると、慈覚大師の名作と伝えられている秘仏で、鎌倉期以前の作と
推定されている。 矢掛町教育委員会
木造十一面観世音菩薩立像の駒札より
誰も見えなくなったので遅れては大変と・・・・・・・・・・・・・・・
最初の散策出発点、 矢掛ビジターセンター前まで戻り急いで右側の道を歩きます。
国指定重要文化財 旧矢掛本陣 高草家住宅
大名の泊まる本陣職が世襲であったのに対し、老中等が泊まる脇本陣は随時指定され
ていました。庭瀬藩の会計であり、藩札の発行もした脇本陣高草家の建物がそのままに
残され本陣と共に国の重要文化財に指定されています。
基壇とは 小田川氾濫の為、基壇を設け、かさ上げした建物
薬医門と松陰楼
大高草 ( おおたか )小路。 通り過ぎてしまいました。
Take-1 ( スープ.ドリンクの店 ) ・ 山陽新聞矢掛販売所。
ミヤケスタジオ ( 明治44年創業 )
史 跡 旧 山 陽 道 一 里 塚 跡
一里塚とは、一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って、木を植えた所をいい
ます。 一里塚を造り始めたのは 織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に
広めました。
江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし、街道の両側に榎・松等を植えさせました。
これは旅人の里程の目安となり木陰は休憩所となりました。
現在、矢掛町内には、3ヶ所の一里塚跡が確認できます。東は東三成の真備町境に
あり、道路の拡幅工事とともに松木が伐採されました。中央の一里塚は 旧矢掛宿内の
東町の一里塚で、南北とも黒松で、北側の松は明治十六年頃に積雪で倒れ、南側は昭和
十六年に省営バス路線工事のため伐採されました。西は浅海の毎度の西端にありました。
平成 十 六 年 やかげ歴史の道復元事業の説明書より
交譲会館前の由加神社と常夜燈
ぼけ封じ・ねがいうけ観音
中国楽寿観音霊場第八番札所
高野山真言宗 多 聞 寺
中国楽寿観音霊場第八番札所
備中霊場 第九十六番 札所
千体地蔵尊 水子供養の寺
高野山真言宗 多 聞 寺
四王山 多 聞 寺 縁起
当山は天文二年 ( 一五三三 ) 三月五日 西三成奥迫の地 ( 東北東 一、五キロ ) に
精良上人によって開創されました。
元禄五年 ( 一六九二 ) 第二十一世中興法印快翁上人の代に現在の地に移転
当寺の本堂は 矢掛本陣の当主石井氏の寄進による二間四面の大師堂でした。
文化九年 ( 一八一二 ) 三月九日大火に遭い本堂焼失 文化十二年 ( 一八一五 )
法印恵則上人により再建されました。
明治中期より大正初年まで矢掛村役場として活用され村政を担いました。
高野山真言宗
本 尊 毘沙門天王
脇本尊 薬師如来
弘法大師 ( 伝御自作二十八体之一 )
合掌の鐘 ( 鐘楼堂 )
水掛観音
この観音様は、西国三十三番の観音様です。
この観音様に水をたむけ、祈願すると、西国巡拝の御利益がいただけます。
水子供養のお地蔵様
本堂
「 念ずれば 花ひらく 」 「 心の垢を 清めましょう 」
ぼけ封じ願い受け観音
納経所
拝観させていただきありがとうございました。心に残る美しいお寺さんでした。
小路を入り近道をして駐車場へ急ぎます。
15 : 00 道の駅矢掛大型バス駐車場 出発。
話題は山頂 二つの天文台。
15 :18 鴨方IC
新尾道大橋走行中・・・・・・・・・・・・・・・
16 : 00 大浜パーキングエリア到着 ( トイレ休憩 )
16 : 15 大浜パーキングエリア出発 ( 2号車が先に出発します )
大三島大橋
今治北IC出口( 何時もはこちらを利用しています )
16 : 51 今治ICを出る。
17 : 03 2号車 ( 有 )矢代モータース 到着。
運転手さんお世話になりました。とっても楽しい研修旅行旅行 ( バスの旅 )でした。
本日の歩いた距離は・・・・ 5.1 km。 歩いた歩数は・・・・ 8787 歩でした。