大西町歩こう会・四国遍路 ( 栄福寺〜仙遊寺 ) ( 2016-05-21 )
5月の大西町歩こう会・四国遍路 ( 栄福寺〜仙遊寺 ) は 清々しい新録の中を出発
御手洗稔会長の道案内で 今まで歩いたことのない険しい遍路道を 助け合いながら
約 10.5km の道程を 約 5時間 ( 昼食・休憩を含む ) 全員で歩ききりました。
午前9時大西支所集合、自動車に乗り合わせて、9時18分、玉川町八幡の御旅所跡へ。
県道沿いの石標。 民家との間にある狭い遍路道に入る。
セメントで固めた坂道を石垣沿いに約 2〜3分 登ると・・・・・・・・・・・・・・・・・
石清水八幡神社参道に出る。
境内へ入ると 修行大師と お願い地蔵尊が迎えてくれます。
栄福寺は弘法大師の開創と伝えられます。寺伝によれば、弘仁年間(810〜24)当地を
巡錫した弘法大師が、近辺の海で海難事故が多いことから、海神供養の護摩を修しました
その満願の日、海中から阿弥陀如来が出現したので、府頭山(八幡山)に一宇を建立して
安置したことに始まるとされます。
箱車。 ( この写真は 2011年8月12日、写す )
昭和8年、足の不自由な15歳の少年が箱車を犬にひかせ母親と四国八十八ヶ所を
巡礼中、栄福寺の境内で、少年の乗っていた箱車が倒れ、少年は転倒し体を強打
ところが、不思議なことに、それ以来子どもは歩けるようになったそうです。
⇒ 2011年8月12日、第57番 栄福寺参拝
御手洗先生のお話は、栄福寺の歴史、 少年が犬にひかせて巡礼をした箱車の話や
「 ぼくは坊さん 」の映画で 始めてエキストラ ( ボランティアで ) 撮影に参加した時の
事など、色々と お話してくださいました。
札所等・・ 四国八十八ヶ所 第五十七番札所
名称・・・ 府頭山 無量寿院 栄福寺
本尊・・・ 阿弥陀如来
宗派・・・ 高野山真言宗
開基・・・ 弘法大師
所在地・・ 愛媛県今治市玉川町八幡甲200
☎・・・・ 0898-55-2432
↑ 栄福寺参拝記念散華 【 平成28年 閏歳限定 】
9時58分、そろそろ次の札所へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参道を下り左折、次の札所は 第58番 作礼山仙遊寺です。
正面の山、作礼山へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
犬塚樋。 犬塚。
むかしむかし、58番札所仙遊寺と57番札所栄福寺をひとりの住職さんが兼務していて
一匹の黒い犬を飼っていました。 この犬はとても賢かったため、住職さんは愛犬に
二つの寺の使いをさせていました。 山の上の仙遊寺で鐘が鳴れば山を駆け登り
山の麓の栄福寺の鐘が鳴れば山を駆け下りて、住職さんにその用事を伝えるという
利口な犬でした。 しかし、ある時、仙遊寺と栄福寺の鐘が同時に鳴ったため、愛犬は
どちらに行けばよいのか迷ってしまい、右往左往するうちに途中にある池で溺れ死んで
しまいました。これを悲しんだ村人が、池の湖畔に犬塚をもうけて、その池を犬塚池と
呼ぶようになったと言われています。
この池は今も、仙遊寺と栄福寺の中間にあり、静かに水をたたえています。
青息吐息で石段を上り切ると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 農道に。
車道 ( 作礼山 参道 ) に入る。 徒歩 40分、車 5分の立て札あり。
お遍路さんを乗せた県外ナンバーの貸し切りバスが通り過ぎて行きます。
金剛力士像。
阿坊仙人像。
昔、阿坊仙人と 称する僧が、ここで40年間仙人のような生活をした後 雲のごとく
姿を消してしまったしといわれており、このことから 仙遊寺という寺号が付いたと
いわれています。
弘法大師 御加持水。
弘法大師が錫杖で掘ったと伝えられる井戸で、疫病に苦しむ里人たちのために
弘法大師が祈祷をし、清水を湧かせて病気を治したのだと言われています。
お大師様の後ろ姿が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう一息頑張ろう。
境内へ。 ⇒ 2011年8月12日、四国霊場 第五十八番 作礼山 仙遊寺参拝。
御本尊・・・・・・・・・・・・千手観世音菩薩
札所等・・・・・四国霊場 第五十八番札所
名称・・・・・・作礼山 千光院 仙遊寺
本尊・・・・・・千手観世音菩薩
宗派・・・・・・高野山真言宗
開基・・・・・・越智守興
所在地・・・・・愛媛県今治市玉川町別所甲483
☎・・・・・・・0898-55-2141
↑ 仙遊寺参拝記念散華 【 平成28年 閏歳限定 】
作礼山頂上付近、お天気は良いのですが遠くは霞がかかって・・・・・・・・ !! 残念。
キツツキの突いた穴です。 下りは滑らない様に注意して・・・・・
参道沿いのアジサイの花も咲き始めています。
五郎兵衛坂。
昔々、仙遊寺には、伊予の守から奉納された大きな太鼓が置いてありましたが
この大太鼓は、音もたいへん大きく、桜井の海岸にまでその音が聞こえたそうです。
この大きな音に、魚が逃げて漁ができないと、五郎兵衛という漁師がたいそう怒り、
仙遊寺に登り、包丁でその大太鼓を破った上、仏様に悪口雑言をあびせました。
その帰り道、この坂でころんで腰を打ち、その時の怪我がもとで亡くなったそうで、
それ以来、この坂を、五郎兵衛坂とよび、この坂を歩くときは、気をつけてゆっくりと
歩くようになったといわれています。
本当に、この坂は難所中の難所 ( 急な坂道と積もった枯葉に何度も足をとられそうに )
へんろ道、👈 国分寺 👉 日本三霊場・四国霊場番外・智慧の文殊尊道。
⇐ 国分寺 5.6 km の道しるべを左に。
道ばたの タンポポの綿毛が太陽にキラキラと輝いています。
鳥越地蔵堂横を出ると、石清水八幡神社参道にでます。
【 鳥越地蔵尊の伝説 】 昔、城下塔という城 ( 城の塔ともいう ) がありました。
ある時、戦争が起こり城主や家来の奮戦健闘も空しく、敵の猛攻にあい落城、
城主は愛する妻と娘二人を残して自害をしてしまいました。
妻と娘達は父の霊を慰めながら人目を忍び さびしい毎日を送っていましたが
傷心のあまり病の床に倒れ、三人ともこの世を去ったといわれています。
( 一説には、お姫さんが落城の際、自害したとも言われています )
あわれに思った村人たちは、お地蔵さんを作って丁重にお祀りをしたそうです。
この地蔵さんは、なんでも願いごとを、かなえてくれるといわれ 特に目と腹や
進学等には ご利益があるといわれ、今では近郷近在はいうに及ばず、松山、
西条、新居浜方面からも お参りがあるそうです。
参道を下り淨寂寺へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
途中に 石清水八幡神社の登り口があのますが通過します。
⇒ 右へ 200 m 淨寂寺参道 、小さな祠 ( お地蔵さん ) の前を入ります。
入定の松 ・ くろまつ ( 今治市指定保存樹 )
享保 十七年 ( 1732 ) 三月、蒼社川の氾濫、ウンカの害などで窮乏に苦しむ人達を
見かねた淨寂寺 ( 五十嵐 ) の住職随転は、民の救済を願って食を絶ち、土中に入った。
知らせを聞いて駆けつけた村人が塚をを取り巻き合掌する中で、かすかな読経の声と
鈴の音が七日七夜聞こえたという。塚の傍らに植えた等身の松は、二百六十年成長を
続け、市指定 保存樹 第一号の 「 入定の松 」となり、随転和尚を風雨から守るように
幹をくねらせ塚を見守っています。
淨寂寺を後に、石清水八幡神社南参道へ逆戻り。
石清水八幡神社南参道入り口へ。
石清水八幡神社境内。
境内からは 今治市街を一望することが出来ますが、「しまなみ海道 」は靄で・・・・・・・
本日は残念ながら見る事が出来ませんでした。
⇒ 2012年12月20日は お天気もよく遠くまで見渡すことが出来ました。
右上の端っこ 黒っぽいのが 今治城です。
江戸時代までの四国霊場五十七番札所は石清水八幡宮(現在の石清水八幡神社)で、
別当の栄福寺が納経を司っていました。石清水八幡神社の別当は栄福寺と浄寂寺の
2ヶ寺でしたが、もっぱら栄福寺が納経を司ったようです。 現在は栄福寺が札所に
なっています。
石清水八幡神社拝殿。
石清水八幡神社本殿。
拝殿の裏の方に、伊加奈志神社への道があるはずですが・・・・・・・・・・・・・・
下に道があるそうです、降りようか引き返そうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
降りたのは僅か6名 !! 後の方は、境内から石清水八幡神社表参道上り口へ。
伊加奈志神社拝殿。
祭神
•五柱命(天地創造神)
•五十日足彦命(いかたらしひこのみこと、垂仁天皇の皇子)
•伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)
この地に国造として派遣された物部氏の系統の一族が彼らの祖神とする
伊迦賀色許男命を祀ったのが起源という説がある。
鎮座地の「五十嵐(いかなし)」も「伊迦賀色許」がなまったものという説がある。
歴史
『延喜式神名帳』伊予国越智郡に記載された「伊加奈志神社」に比定される。
古くから「総社明神」と呼ばれ、近くを流れる川は蒼社川(総社川)と呼ばれた。
また鎮座地周辺は鴨部(かんべ、神戸)郷と呼ばれていた。
安政5年(1858年)に社殿が火災に遭い、古文書や宝物が焼失してしまったという。
伊加奈志神社境内。
今日は頑張って みんなよく歩きました。凄く疲れましたが気分は爽快です。
2時27分、解散 大西支所へ。
本日の歩いた距離・・・ 10.5 km。 歩いた歩数・・・ 16470 歩。