曇り空の中を 57番栄福寺を出て山裾から田圃の畔道を通り抜け遍路道へ
第56番泰山寺が3Kmコースのゴールです。もう少し頑張って5km コースの
今治市民の森へ到着。歩きながらの風景は中々巧く撮れませんでしたが・・・
照りもせず降りもせず、ウォーキングに最適、楽に歩くことができました。
午前10時、何時もより遅く大西支所集合です。
大西町は昨日今日と町民祭です、また々ウォーキングとダブってしまった。
10時45分、四国霊場第56番札所栄福寺へ向かってウォーキングスタート。
瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が
海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として信仰されている。
縁起によると、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは
弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を
修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。
この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが
創建といわれ、勅願寺とされた。
栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)
大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)
の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、
この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の
阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して
社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。
この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を
刻んだ石塔の道標が立っている。明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から
山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。
現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。
⇒ 2011年8月12日、四国八十八ヶ所 第五十七番札所 栄福寺参拝。
⇒ 2010年11月27日、境内の紅葉が美しい栄福寺へ。
修行大師像とお願い地蔵尊。
境内を出て上の石段を上ると山頂に石清水八幡宮の境内に出ます。
⇒ 2012年12月20日、石清水八幡宮へ 。
参道の脇道を下り 次の札所 第五十六番札所 泰山寺へ。
石清水八幡宮鳥居と道しるべ。右に曲がると石清水八幡神社表参道上り口。
田圃の畔道を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
蒼社川沿いを・・・・・・・・・・・・・・・
突き当りを左に曲がると ⇒ 2010年11月24日、泰山寺奥の院龍泉寺へ。
泰山寺は右折。
泰山寺はもうすぐそこに・・・・・・・・。
泰山寺参道前駐車場。
「 四国第五十六番霊場 泰山寺 」
寺伝によると弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が梅雨期に当地を訪れた際に
蒼社川が氾濫していたが、村に伝えられる悪霊の祟りと考えられていました。
空海は村人に堤防を築かせ、完成後に 河原で土砂加持の秘法を行ました。そのとき
満願日に空中に延命地蔵菩薩が現われた。そこで空海は地蔵菩薩像を刻み、堂宇を
建て本尊として安置したという。 泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」から
とったものである。一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれる。
天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模と
なったものの数度の兵火により衰退し、金輪山の山上より麓の現在の場所へ移築される。
⇒ 2011年8月12日、四国八十八ヶ所第五十六番札所 泰山寺参拝。
本尊は 地蔵大菩薩。
地蔵車。
これを回すと六道輪廻の絆を断てるといわれる。
六道は、地獄・餓鬼など衆生が背負う六つの迷界。
鐘楼。明治14年(1881年)建立。今治城内の太鼓楼の古材で再建された。
3kmコースは、ここ泰山寺がゴールです。泰山寺駐車場からバスで市民の森へ。
5kmコースは、市民の森まで歩きます。
三島神社前へ下りて。
信号の手前を左に曲がり今治市民の森フラワーパークへ。
売店。大西地区は一番奥の第3駐車駐車場のバスに・・・・・・・・・
12時40分、市民の森出発。
12時50分、さいさいきて屋到着 ( 約30分間 自由行動 )