東平 ( とおなる ) 東洋のマチュビチュ

   東平 ( とおなる ) 別子銅山の産業遺跡 ( 2013-11-18 )


   
時雨橋のたもとに東平 ( とおなる ) の入り口が有り車が一台入って行きました。
午後4時10分、余り時間の余裕も無いので、行くだけでも行ってみるかと・・・・・・・ !!


    


 


   
    インクライン跡。

       
 旧インクライン跡 ・・・大正5年 ( 1916 ) 頃 東平・端出場索道の物資運搬の
 接続施設として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に斜長95m、
 仰角21度で インクラが設置された。動力は電気巻き上げであつた。
 複線の斜路は連動していて、片方があがれば片方が下がる仕組みになっており、
 必要な物資や生活用品が引き上げられ、抗木などが引き下ろされていました。


        
 インクラライン跡を利用して平成6年 マイントピア別子東平ゾーンの整備時に、
 220段の長大な階段に生まれ変わりました。


 
 索道停車場跡へ上って見たかったのですが・・・・・・・ 時間が無くて。


 


 
 索道基地跡 ( 花木園 ) 明治33年、東平の索道基地がここに完成しました。
鉱石・生活用品・資機材等を 東平・下部鉄道黒石駅 ( 昭和10年から端出場 ) まで
運んでいました。現在は、東平ゆかりのシャクナゲやドウザンツツジ等を栽培した
花木園になっています。


   
更に階段を下りると・・・・・・・・・・・・・・      娯楽場・病院跡の標識が。

   
    娯楽場跡。

       
 東平娯楽場は明治45年 ( 1912 ) に設置され、東平抗が閉抗される昭和43年
 ( 1968 ) までの56年間 東平の人々の憩いの場として親しまれました。
 収容人数は2000人と言われ定期的に映画や劇が上演され、その際には、
 東平の人々がここに集まり住宅が空っぽになるくらいの人気がありました。
 また住民が自ら劇団を結成お祭りの際には披露をしていました。
 撤去後は植林がなされ、現在は手前の橋が残るのみです。


   
    保育園跡。

       
 保育園は 昭和25年 ( 1950 ) 開設され、昭和43年 ( 1960 ) までの 18年間
 幼児教育の中心の場として利用されました。
 東平全域から ( 3歳頃〜小学校入学まで ) の園児が 通っていました。
 発表会には娯楽場を利用していました。


          


    
    配給所跡。

        
 配給所・・・東平生協は 明治39年 ( 1906 ) に配給所として開設され、閉山迄の62年間、
 東平の台所として多くの人々に親しまれてきました。そして、昭和33年 ( 1958 ) 6月1日
 に配給所から生協として新しく生まれ変わりました。
 ここには何時も新鮮な魚や肉、その他にも生活に必要な品物は ほとんど揃っていたと
 言われています。


    
     病院跡。

        
 住友別子病院 東平分院は 当初 東平出張所として 明治38年 ( 1905 ) 11月1日に開設。 
 昭和43年 ( 1968 ) 3月31日に廃止されて、63年間、東平の人々の健康を守り続けて
 きました。 明治開設当初、内科、外科の診療が行われました。普通の病室の他に
 隔離病棟と避病舎も設置されており、法定伝染病の人たちの収容も行われました。


    
 病院跡左の階段を登ると広場に繋がる道路にでました。


 
 ここは駐車場上 旧保安部跡、現在は東平マイン工房として親しまれています。


    
 東平マイン工房・・・工房では誰でも銅板レリーフが体験でき (材料込500円 )
 その体験を通して、レリーフを作る楽しさを感じられる施設です。


    
    工房から展望広場へ。

 
 展望広場。


 


 


         
 旧保安部跡・・・明治35年 ( 1902 ) 頃に第三通洞の開鑿や電車用の変電所として
 設置された。その後、林業課の事務所になり、その隣が電話交換所となった。
 明治38年頃から 消防部門や警備部門を担当した保安部門としてしようするように
 なつた。時代と共に建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所として
 現在は 銅板レリーフが体験出来る「 マイン工房」として活用されています。


    
 まだまだ色々と行ってみたい箇所が有ったのですが時間がなくて・・・・・残念。   
 次に来る時は余裕をもって回りたいと思います。