一年ぶりに今治城へ

 

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     明日はまた雨、このところ歩いていないので今治城と近見山へ登ろうと

   晴れている間に今治城へ。昨年2月20日 吹上神社前の梅を見に ( 蕾は固く

   見頃はまだまだ先のようでした ) 何枚かお城の写真を撮ってお堀の回りを

   ウォーキングの途中カメラが壊れてしまった苦い経験が・・・・・・・・・・・・・・・!! 

    今年は暖かかったので梅の花はすっかり散ってメジロも見ることが出来

   ませんでしたが、小学校の生徒さん ( 孫と同じ4年生 ) が遠足に、見てい

   るだけで 可愛くて元気 ( パワー ) をもらった様な楽しいひと時でした。

 

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   旧町名 山里通 ( やまざとどおり ) 

 藏敷村領分で大正三年から帳簿にあらわれるようになった。西門から入った一帯を

山里と称したが、初代松平忠房は隠居後この地に隠居所を建て「 山里様 」と呼ばれた。

付近には家老や上級武士の屋敷があり、山里門を通って登城した。

                           ( 石標 旧町名 山里通より )

 

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  この橋は海水の循環口。

 

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   標柱と高麗門

 

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   高麗門を入ります。

 

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  山里門上り口。

 

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    山里門

 

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  三の丸跡。

 

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   藤堂高虎公像

                碑 文
   藤堂高虎公は 弘治二年 ( 一五五六 ) 近江の国に生れた羽柴秀長 豊臣秀吉などに仕えて

  宇和島・大洲八万石の大名となり慶長五年 ( 一六〇〇 ) には関ヶ原の戦功によって徳川家康

  から今治二十万石を加増され 伊豫半国二十万三千石の領主となつた。

  今治城は高虎公により慶長九年( 一六〇四 ) に竣工を見た 三重の堀に海水を引き入れ 舟入

  を持つ日本有数の海城である。五層の天守は層塔式で白漆喰が映え 近世城郭のモデルとされた

  築城に合わせて城下に町割りを行い 地名を今張から今治に改め 現代の今治市の原型がつくら

  れた。築城の名人と称された高虎公は  多くの天下普請の城を築き 慶長十三年 ( 一六〇八 ) 伊勢

    ・伊賀に転封された そして大阪陣の後 朝廷と幕府間の斡旋役を務めるなど徳川幕府体制の基礎

  固めに大きく貢献し 寛永七年 ( 一六三〇 ) 七十五年の波乱の生涯を閉じた。

   築城四〇〇年にあたり この像を建て高虎公の業績を子々孫々まで伝えるものである。

     像の制作は 文化功労者芸術院会員の中村晋也先生
     題字は 文化勲章受賞者 村上三島先生の揮毫による
        平成十六年九月吉日
     今治城築城・開町 四〇〇年祭実行委員会    今治市
                        ( 藤堂高虎公像台座の 碑文 より )

 

 

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   今治城 沿革

  藤堂高虎公は慶長五年 ( 一六〇〇年 ) 関ヶ原の合戦に 東軍徳川家康方の先鋒として

 戦功をたて伊予半国二十万三千石を与えられた 当時諸大名中随一の築城の権威で

 あった高虎公は内海において 海陸の要衝であった今治を城地と定め 渡邊勘兵衛を

 築城奉行に 木山六之丞を普請方として 慶長七年より同九年にかけて城壁高さ六間

 乃至八間を築き 本丸には五層の天守閣 その外には 櫓  城門等二十数棟を配し 三重

 の城濠をめぐらして  これに海水を導入して 当時としては類例のない一大平城を

 構築した また公は家康に信任され慶長十三 年伊勢の津に国替え増封されたが天守

 閣は公が家康から丹波亀山の築城を命ぜられた時 献じて亀山城に移築した  その後

 今治城は義子高吉が二万石で維持し更に寛永十二年 ( 一六三五年 ) に伊勢長島より

 久松定房が入城し後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった

  現在の天守閣は昭和五十三年十月十日 今治市制六十周年記念として再建され往時

 の偉容を再現するに至った

  今治城跡は 昭和二十八年十月九日  愛媛県教育委員会から史跡として指定を

  受けている                 今治市教育委員会

 

 

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     吹上神社前の梅の花はもう散っていました。 

    2017年2月27日、満開の梅の花メジロを撮ることができました。

 nobubachanpart3.hatenablog.com

                                         上 メジロの写真をクリックしてください。

 

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   御金櫓横の石段から石垣の上に。

 

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   御金櫓

  

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   もう一段高い所月見櫓跡へ。


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   月見櫓跡から見た天守閣。 

 

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     吹上稲荷神社の向こうに天守閣。

 

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   南隅櫓跡石垣から月見櫓跡 ( 石垣の出っ張ったところ ) とその向こうに御金櫓。

 

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   南隅櫓跡石垣から西隅櫓跡を石垣の下は犬走り。

 

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   上小学校 ( 旧美須賀中学校跡地 )

 

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     西隅櫓跡左側には 開市記念 時報 ( 今は使われていないようです )

    その右側の記念碑は 大正十一年十月二十二日 皇太子殿下 ( 故 昭和天皇 ) 御野立の所。
 

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    吹上神社神殿裏に下ります。

 

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    吹 上 ( ふきあげ ) 神 社

    御 祭 神   天 照 大 神  八 幡 大 神  事 代 主 神

            厳 島 大 神  藤 堂 高 虎  久 松 定 房

     例 祭 日   五月第二土曜日

    住吉より今治市内に鎮座していた神明宮、藏敷八幡宮厳島神社夷宮の四社を廃藩の際

    旧社地の故を以て城内に合祀社殿を造営し 明治五年十一月十九日遷座 旧城名をとり吹上神社

    と称す。即日郷社に列し 明治十五年縣社に昇格す。後に藤堂高虎及び久松家祖神をも奉遷す。

     昭和三十三年戦災の復興をなしたるも 昭和五十五年放火により焼失。昭和五十八年現神殿

    を再建す。

 

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       吹上神社手水舎前より。

 

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   天守 / 御金櫓 / 山里櫓  /  鉄御門・武具櫓  共通観覧券 ( 65歳以上 400円 )

  

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   天守閣へ・・・・・・・階段を・・・・・・・・・・上がります。

 

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 鉄御門・武具櫓

 

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  みなと交流センター 「はーばり 」 その向こうにしまなみ海道

  

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 山里櫓と内堀。左側の近見山は しまなみ海道今治ICへ抜けるトンネルが貫通。

 

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 左、今治国際ホテル。中央の鉄塔の付近に今治市役所。

 

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 正面に上小学校 ( 旧美須賀中学校跡地 ) と国際ホテル その向こうが玉川・松山方面

 

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 本丸跡 ( 現・ 吹上神社 ) と南隅櫓跡。

 

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 中央 鉄塔後ろの連なった山は 左 「 世田山 」と右が 「 笠松山 」ですが、その上に

薄っすらと石鎚山が見えました ( 分かりにくいので写真をクリックして拡大 )

 

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  御金櫓 ( おかねやぐら )

  二の丸東隅の二重櫓。ずっと向こうに天保山 ( 大きなセメントタンク有り ) 右は桜井方面

 

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   ① 天守 の観覧を終えて次は、② 御金櫓へ。   

  

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   二の丸東隅の ② 御金櫓へ。

 

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   御金櫓 ( おかねやぐら )

   金倉の役割を果たした櫓、昭和60年 ( 1985 ) に再建され内部は現代美術館に

  なっています。「 郷土ゆかりの作家たち 」の展示をしていました。

 

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  ④ 鉄御門・武具櫓 ( くろがねごもん・ぶぐやぐら )

  平成19年 ( 2007 ) に周囲の多門櫓とともに再建され、内部公開するとともに、

  テレビ放映・パネル展示を行っています。

  

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    石落 ( いしおとし )
   石落は、床に開けられた細長い蓋つきの穴のことで、ここから石を落としたり
  鉄砲を撃ったりして、下にいる敵兵を攻撃します。
  この鉄御門のように門の上に櫓を載せた櫓門では、門を突破しようとする敵兵を
  攻撃するため、扉の真上に石落が設けられいいました。

 

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    格子窓からの眺め。

  今治城は 外側に高麗門、内側に鉄御門という二重構えの城門を設置しました。

  白く塗装されたところが 外側の高麗門跡。

   

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    格子窓
    格子窓は、敵兵の侵入や矢玉を防ぐために太い格子をつけた窓の事です。
   格子の間隔は、敵兵の頭が入らず、かつ内側から鉄砲を撃ったり矢を射る
   事ができる幅で作られています。

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  狭間 ( さま )

  狭間は、壁面に開けられた小窓のことで、ここから鉄砲や矢を放ちます。

 外側の口を小さく、内側の口を小さく作っています。敵兵から射撃されにくく

 内側からは、鉄砲や弓を幅広く発射することができます。 また、石垣の上に

 ある狭間は、敵兵を狙いやすいように下に向けて作られています。

 

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  枡形虎口。
  枡形虎口とは、石垣や土塁で囲った四角形の広場( 枡形 ) を

 伴う城の出入り口( 虎口 ) のことです。それまでの枡形虎口に

 は一つしか門がありませんでしたが藤堂高虎今治城おいて、

 外側に高麗門、内側に鉄御門という二重構えの城門を設置しま

 した。さらに高虎は、枡形の三方に長屋状の櫓 ( 多聞櫓 ) を巡ら

 せました。敵兵が枡形に侵入しても周りの多聞櫓からの集中攻撃

 で全滅させることができる史上最も強固な虎口を考案したのです。

 日本で始めて試みられた今治城での枡形虎口の形式は、その後、江戸城大阪城など徳川幕府の主要

城郭にも採用されていきました。     

 

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        鉄御門 ( しろがねごもん ) 再建 遺構と石垣の案内。

 

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    こちらは、今治城 鉄御門 ( しろがねごもん ) の案内をしています。


 

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    鉄御門・武具櫓内をの観覧を終えて 最後は正面に見える ③ 山里櫓へ。

 


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   山里櫓 ( やまざとやぐら )

  名前の由来は城内の庭園「 山里 」の方向に位置するため。平成二年 ( 1990 ) に

  再建され、内部は小美術館になっています。

 

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   ① 天守 ⇒ ② 御金櫓 ⇒ ④ 鉄御門・武具櫓 ③ 山里櫓の順に観覧終了。

 

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  12時20分、今から鉄御門を出てお堀の周りを一周します。

 

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    勘 兵 衛 石   今治城で最大の石

 城主の権威を示すために目立つ場所に据え付けられた

 巨石 ( 鏡石) で、今治城の入口の正面にあります。

 石の名前は、今治城の築城奉行と伝わる渡邊勘兵衛に

 因んだもので、江戸時代には既に 「 勘兵衛石 」と呼

 ばれていました。

 

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  土橋を歩いて産業道路へ。

   

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   今治城の堀のふしぎ 〕
   今治城の堀は海に隣接しており、水路で今治港につながっています。潮の満ち引き
  に応じて海水が出入りして水位が変わり、海水魚がたくさん泳いでいます。
  また、堀底から真水が染み出している場所があり、そこには淡水魚のミナミメダカが
  泳いでいます。今治城の堀は、海と川の生き物が同居する全国的にも大変珍しい環境
  になっています。                 ( 今治城の堀のふしぎ 案内板より ) 

 

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  産業道路より。

 

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   時計回りにお堀を散策。

 

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  見る角度によって天守閣が見え隠れします。

 
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  天守閣は御金櫓に隠れています。

 

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  左から、南隅櫓跡。 中央、御金櫓。 右、武具櫓・鉄御門・土橋。  

 

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  堀の南側 ( 旧 南堀通 ) より…

 

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  昨年の2月20日 、ここまで歩いて後ろを振り返りシャッターを・・・・・・・

  液晶画面に「 カメラエラー 」の表示が現れ壊れてしまった所です。    

 

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  左から西隅櫓跡・南隅櫓跡・月見櫓跡 ( 石垣の出っばったところ ) ・御金櫓。

 

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    旧美須賀中学校跡地記念碑   

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    平山邦夫画伯 しまなみ海道五十三次スケッチポイントより。

  

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   民家の角を右折して。

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  吹上公園北交差点前より。

 

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   海水導入口。

  

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  堀端を一周して土橋に入ります。

 

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  山里門より多門櫓と天守

 

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  1時20分、「旧 山里通」石標前に帰ってきました。