周辺地方歴史探訪   

   新居浜市 ① 住友住宅 ~ ⓼ 端出場水力発電

   令和5年9月21日( 木 ) 大西町史談会の周辺歴史探訪 ( 新居浜・Ⅲ ) に参加
  しました。  

  
  ① 住友山田住宅

  
  ② 広瀬歴史博物館

  
  ③ 旧広瀬邸

  
  ④ 山根公園 

  
  ⑤ 別子銅山記念館

  
  ⑥ 煙突 ( えんとつ ) 山登山

  
  ⑦ マイントピア別子

    
  ⓼ 端出場水力発電
   新居浜観光ガイドの会・石川会長が案内して下さました。

 

    
    7 :  45  大西支所出発 ( 壬生川産業産業道路、西条産業道路経由 )

 

      
     周辺歴史探訪 (新居浜市・Ⅲ ) の資料を見ながら村上勝正会長の訪問場所と
      ( 出発・到着時間 )の説明。

 

  

          1 住友山田住宅

 ・新居浜市発展の象徴である住友山田住宅が、登録有形文化財となる。住友山田社宅は住友の社宅群で、昭和4年に開発が始まり東西約 900 m、南北約 200 mの約18h a に最大290戸があったとされ、市の発展を象徴する住宅群である。

 

  

 

  

  山田住宅横の施設へ駐車

 

  

  生垣沿いに山田住宅入口へ

 

  

  住友山田住宅( 旧住友鉱業株式会社別子鉱業所長社宅 ) 前

 

  

 新居浜観光ガイドの会・石川 会長 の挨拶。山田住宅前は外国人技師住宅、道路の向う側は沼地だったそうです、銅を掘った土を埋め立てに使ったそうです。

  

  

  住友山田住宅前より外国人技師東住宅を眺める

 

  

        

        写真は「 住友山田住宅 平成6年 ( 2004 ) 頃撮影 」

 

  

  旧住友鉱業株式会社別子鉱業所長社宅の門を入る。 

 

  

  玄関、その向こうに内玄関

 

    

 

  

  応接棟

 

  

 

  

  旧住友鉱業株式会社別子鉱業所長社宅 図 赤い矢印に沿って進みます。

 

  

  廊下

 

  

  

  

  客間

 

       

       広縁

 

 

 

     

        別子鉱業所長社宅 広縁・畳廊下

 【 広縁 】 客間の南んら食堂まで十間以上も続く長い縁側が設けられています。縁側のちょうど中央付近に杉の引き違戸を建てて結界としています。杉戸の上には吹寄せの筋違欄間を入れ、結界から東寄りには縁の一部に畳を敷いて入側としています。広縁からは、南庭と遠景に広がる山の景色を眺めることが出来ます。

 【 畳廊下 】当時は、年始上司宅へ新年挨拶に行く習慣があったため、部下が訪れた時にはこの畳廊下に座り挨拶の順番を待っていたと言われています。

  

  

  広縁・畳廊下

 

  

 

     

 

  

  食堂 ( ダイニング )

 

  

  厨房と食堂の間にあります。

 

  

  厨房

 

 

 脱衣所                 お風呂場 

 

    

         別子鉱業所長社宅   茶 室

 茶室は、八畳座敷と四畳半の前室からなり、八畳座敷の南から西にかけてまわりは縁となっています。八畳座敷には炉が切られており、広間茶室としても機能する座敷です。東にまぐち一間半の地袋を設け、その上の南より半間のところに少し曲のある桜の皮付き柱を立てて床柱とし、その右の半間を床の間としています。床の間の上が網代の平天井で、残りの一間分は磨小丸分太の垂木に斑竹と削木の木舞を交互に並べた化粧屋根裏にするなど、数寄屋造りにふさわしい入念な意匠が見られます。         企業企業経営の煩わしさから離れ、私的な時間を静かに過ごす場であったと考えられます。南に広がる庭から眺めると、大きな瓦葺の屋根に下屋を付す主家に風格が感じられるのに対して、銅板葺の庇を深く付け下ろした外観には、精神の安息所にふさわしい静かな庵の風格が漂っています。

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

   別子鉱業所長社宅 女中室・呼び鈴

 

     

 昭和時代 幹部クラスの各社宅では 女中が家事を行っていたので、各社宅には女中室が設けられていました。女中がいつの頃の時代まで働いていたのかは不明です。住友山田社宅での女中は、単に家族の食事や掃除など身の回りの世話や、来客時の食事、応対な家事全般全般を行うだけではなく、地元の子女が住友の幹部社宅に置いて行儀見習いのような方法で近代的な生活文化を理解して身につける場であったと考えられます。 この機械は呼び鈴です。各部屋から女中を呼び出す時に利用されていたもので、部屋で呼び鈴を押すと、女中室にある表示板の部屋番号が作動して表示されるしくみです。 10部屋分の表示がありますが、内玄関や応接室など5部屋の名が書かれています。  

  

    

    電話室

 

    

   内玄関

 

   

   表玄関を出て旧住友鉱業株式会社別子鉱業所長社宅の楽しい見学会でした。

 

  

  茶室

 

    

    ガイドさんはしっかりと雨戸を閉めて後の点検をしています。

 

  

  炊事場跡が残っていました。


 

  

 

  

  旧住友鉱業株式会社別子鉱業所長社宅 出発。  

 

  

  バスの中より星越駅跡を・・・・・・・・・・・・

 

  

  星越駅構内跡

 

  

 

  

  星越駅構内 ( 昭和20年代 ) の写真



  

 

 

 広瀬歴史博物館 駐車場 到着。

       2  広 瀬 歴 史 記 念 館

・幕末から明治の激動期に別子銅山の経営を支え、日本の近代産業を育成した住友家初代総理人・広瀬宰平の足跡を通して、新居浜の生い立ちと日本の近代化の歩みをたどる施設である。

  

  裏門 ( 広瀬歴史記念館 ) 入口

 

  

 

 

 広瀬歴史記念館  

 

  

 

  

 

  

  広瀬邸の模型

 

  

 

  

 

 

 

   

   山駕籠 江戸~明治時代                                                    広瀬宰平が使用した当家伝来の物。別子銅山への登り折に利用された。               銅山の重役や来客だけが乗り降りを許された。 

 

   

   手押車                                                                      晩年の広瀬宰平が常用したもの。方向を操作するためのハンドルがある。

 

 

 

 

 足元に新居浜市の航空写真

 

 

  亀 池                                                                        幕末、住友家が別子銅山の飯米確保のために、潅漑用のため池として作ったのが始まりです。明治31年の宰平古希祝賀会の会場とするため、石積みの周遊路や中島「千歳島」などが造られ、千歳島には弁財天が祀られました。古希祝賀会後は、一般に開放されました。                                    

 

  

 

 

 

  

      広瀬宰銅像
 明治31年 (1898 ) 宰平の古希記念として住友家から贈られた広瀬宰銅像は、東京美術学校で製作された。原型木型を高村光雲、鋳造を岡崎雪 が担当した。           昭和18年 ( 1943 ) 戦時供出により失われたが、平成15年 ( 2003 ) 3月、高村光雲の原型木型を用いて東京藝術大学の手で復元された。

  3 旧広瀬邸 ( 国指定重要文化財・国指定名勝 )  

明治維新の動乱から別子銅山を守り、さらに近代化を促進した広瀬宰平の業績や、その生活ぶりを後世に伝えるために、新居浜市が設置した広瀬公園の中にあり、展示館と旧広瀬邸からなる。 ・邸宅は伝統的な日本建築様式を持ちながら、戒告により西洋から輸入されたマントルピース、洋式便器、板ガラス、避雷針といった新しい文化が取り入れられており、その二つが見事に調和している。                                                                     

  

  敷石に沿って旧広瀬邸へ。

   

 

 

  

  馨原文庫 ( 煉瓦書庫 )  読書を奨励した広瀬満雅 ( 宰平長男 ) が、地域の人たちの知識発展のために建てた書庫です。大正12年に外観が完成し、昭和2年に内装が完成しました。                          

  

  

   

  

 

  

  靖献堂 広瀬家の持仏堂で、大正11年に完成し、13年に開堂式が行われた。  

 

  

 

  

  内庭

 

  

  新座敷

 

  

 

  

  母屋

 

  

  広瀬邸玄関

 

  

  母屋 玄関。右側の入口から入ると・・・・・・・・・

 

  

  使用人の出入り口でした。    

 

  

  母  屋

 

  

  居間

 

  

  茶の間

 

    

    板を外して収納場所に使われていました。

 

 

 料理場 見事な天井の梁

 

    

 

  

 

  

  居間 暖炉の前、主人 ( 広瀬宰平 ) の座る位置からは・・・・・・・・・・・・

 

  

 目の高さに配置された板ガラス張りの定位置から人の出入りを見ることが出来ます。

 

  

 

  

  本座敷

 

  

 

  

 

  

 

 

 新座敷

 

 

 

  

  横にスライドする雪見障子  

 

  

  内庭 

〇ガイドさんからのクイズ・この庭に当時日本にないものが一つあります何でしょう。  

 

 

 皆さん、 庭園を見ながらいろいろと答えましたが・・・・・・・・残念、誰もわかりません。  答えは・・・・目の前に見える  芝生 でした。

 

  

 

  

  新座敷湯殿

 

  

  新座敷脱衣所

 

  

  階段を上がります。

 

 

 展望楼  宰平は「展望楼」と名付けた母屋2階から瀬戸内海に面した住友の工場や蒸気汽船を眺め、新居浜の発展を見守っていたと言われています。

 

 

 北レンガ塀 ( 明治23年頃に完成。透かしの意匠が施されています。 ) 桜園の向うは駐車場です、乗ってきたバスが見えました。

 

  

  

  

  避雷針

 

 

 乾 蔵 ( 重要文化財 )

 明治20年に久保田家より移築されたもので、江戸時代末期の建築とかんがえられます。 邸内で唯一の本瓦葺きです。  

 

 

 

    

    2階の洋式トイレ

 

 

 母屋2階へ

 

 

 母屋2階より眺めた表門へ続く通路。左側に  金物蔵・米倉・門番所 。        右側に 指月庵 ( しげつあん ) 明治21年に建てられた茶室。地元の儒者遠藤石山によって 命名されました。園遊会などでは煎茶や紅茶がふるまわれました。

 

  

 

  

  ここに、内庭への門があったそうですが台風により壊れたそうです。

  

  

  表門 ( 重要文化財 )                              明治23年頃の建設。表門から玄関、台所、料理場が一直線に配置されています。

 

    

   楠の大樹 金子村久保田の旧邸宅より移植したもので、樹高30メートル、三幹に分かれた見事な大木である。 移植時小降りではあったが、狭い悪路を牛5頭を使い、苦労して運搬した。

 

  

  人力車小屋                                 明治23年頃に建てられたと考えられます内部に展示してある人力車と馬車は、広瀬家で使われていたものです。

 

  

 

  

 

  

 広瀬歴史博物館 駐車場  ⇒  別子銅山記念館施設の駐車場へバス移動。

        4 山 根 公 園

 ・生子山 ( 通称エントツ山 ) のふもとに位置する山根公園は、ゆうぐに、広場に、屋内プールに、遊びにも、スポーツにも楽しめるスポットになっており、秋祭りには新居浜太鼓が勢ぞろいする所である。

 

 山根公園競技場 石垣の観覧席で昼食。

     山根競技場観覧席【 国の登録有形文化財

 昭和2年、別子銅山の最高責任者となった鷲尾勘解治の指揮のもと、住友各企業の社員による作務と呼ばれる勤労奉仕により建設されました。400mのトラックを持ち、収容人員は約6万人と言われ、当時は住友企業の運動会に、現在では太鼓祭りのかき比べ会場として、多くの観覧者で埋め尽くされます。

 


山根公園秋祭りの様子です。

 

       5 別子銅山記念館

 ・新居浜市の南東に位置する別子銅山は、元禄3( 1690 ) 年に発見され、以後283年の歴史を体感できる、山根公園に隣接する博物館である。鉱山坑内を彷彿させる半地下構造で、歴史資料や採掘道具など約300点が展示されてる。             記念館の屋根には、別子銅山が開坑許可された5月にちなんで、サツキが1万本植えられており、5月下旬には満開の風景を楽しむことが出来る。

 

 県道47号 ( 新居浜別子山線 ) を歩き、大山祇神社 ( 別子銅山の守護神 ) 注連石 ( しめいし )を入る。

 

  

  別子銅山記念館は、大山祇神社大鳥居の右手前を入ります。

 

  

 大山祇神社大鳥居と奥に大山祇神社神殿。鳥居左側には「別子一号機関車」が展示  されています。

 

  

  別子一号機関車

 展示されているきかんしゃは広瀬宰平によって敷設された上部鉄道を走っていた実物です。明治26年完成の上部鉄道は、海抜約1.100mの山中を距離5.532mで日本初の山岳鉄道でした。当時松山を走った伊予鉄道の「 坊ちゃん列車 」と同じ、ドイツのクラウス社製です。

 

 

 別子銅山記念館へ。

 

  

  別子銅山記念館入口。

 

  

  受付ロビー                          

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           別子銅山記念館 ( パンフレットより )

        

  

    ■ ロビー 大迫               ■ 泉屋コーナー

ロビー 大迫 定められた寸法に刻み上げられた鉱石を、飾り藁で結束し、古式により毎年元旦、鉱山守護神大山祇神社に奉献していました。これは昭和48年 ( 1973 ) に奉献された別子銅山最後のもので、鉱石の重さは約300キログラムあります。

泉屋コーナー 近世初期に銅山師・銅商として台頭した泉屋 ( 住友 ) の歴史を、江戸時代の絵図、古文書や、明治時代の古文書、図巻、器物、諸記念品で紹介します。        棹銅、丁銅、丸銅 江戸時代、銅山の荒銅 ( 粗銅 ) を大阪の銅吹所 ( 精錬所 ) で精銅にし、長崎貿易用と、国内販売用のものをつくりました。                  棹銅 貿易用で御用銅とも言います。  丁銅、丸銅 国内販売用で地売銅とも呼ばれました。

  

  ■ 歴史コーナー              ■ 生活・風俗コーナー

歴史コーナー 元禄3年大露頭発見、翌4年開坑より閉山迄の別子銅山経営の推移を、古文書、絵図、図録図表、器物、模型等で、特に明治以降は写真類を豊富に使用して紹介しています。また室の中央に大露頭、筏津鉱床脈全巾鉱石や別子銅山坑道模型、住友グループ各社発展略図、明治中期の別子銅山諸施設復元模型、昭和後期の四阪島模型があります。

生活・風俗コーナー 江戸末期より昭和年代に至る、山内作業、風俗や、坑内用諸道具類、諸行事、服装、諸施設等を紹介しています。

 

    ■ 技術コーナー              ■ 地質・鉱床コーナー

技術コーナー 採鉱法・支柱法・大立坑模型や、明治より昭和に至る照明器具、採鉱用小道具、鉄道用品、鉱山救護隊用品、さく岩機等を紹介しています。

地質・鉱床コーナー 別子銅山や周辺の地質・鉱床のあらまし、鉱石標本等を紹介しています。  黄銅鉱 主に銅・鉄・硫黄からなる鉱物で、銅品位の高い鉱石です。

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  6 煙突 ( エントツ ) 山・生子山 ( 庄司山城 )

 ・麓の山根公園から15分程上がると高さ約145m の「 エントツ山」があり、さらに標高300m の地点に生子城跡がある。天正の陣 ( 天正13年7月 ) で、小早川隆景に攻められ落城した松本三河守安村の松本氏歴代の本丸あって、生子山は「 エントツ山」と 呼ばれ、市民に親しまれており、別子銅山の名残の高さ20mの煙突のみが残され、国の登録有形文化財となっている。 ・生子山城は南北朝時代に築城され、規模は小さく周りは藪で覆われた山頂 300.4 m に築かれた松本氏の城であった。 ・生子山には、南北朝時代南朝重臣越智俊村が城を設けて、北朝側の足利氏 具体的には細川軍と戦い その攻撃を防ぎ、安土桃山時代天正の陣では、松本三河守がここに拠って、小早川隆景の大群と戦った。 ・明治21年、現在の別子銅山記念館前の広場に、山湿式精錬所が設けられ、それと同時に両岸を結ぶための生子橋が架設され、山頂には大煙突が建設されたことにより、人々は以来煙突山と呼称した。

 

  

  県道47号 ( 新居浜別子山線 ) を歩き えんとつ山へ。

 

  

 煙道跡 ( 明治21年~28年 ) 距離約145メートル。最大斜度45度。       登山所要時間は 健脚の方・・・・・・10分程度。 並足の方・・・・・・18分程度。

 

  

 

  

  入口より370m地点、左に行くと奥の宮 ( 大山祇神社 ) 。
 右折すると、煙突まで 145m。

 

  

 

  

  煉瓦の煙突が見えてきました。

 

  

  

  えんとつ山より生子山城跡を眺める。

  

 

     

 

  

  煙突山を下りて駐車場へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  

  別子銅山記念館施設の駐車場から、 道の駅マイントピア別子駐車場へバス移動。

  7 マイントピア別子    

 ・新居浜市発展の礎となった、別子銅山300年の産業文化遺跡を生かした鉱山観光地として、平成3年 ( 1991 ) 年6月5日オーブンしたテーマパークである。     明治26年 ( 1893 ) 年に開通した我が国初の鉱山鉄道を模して、トンネルや鉄橋を白煙を吐きながら走る。観光坑道では、江戸時代の採鉱風景から未来の鉱山へと、その歴史の変遷を人形や模型・映像等により、解説している。

  

  道の駅 マイントピア別子駐車場到着。

 

  

  マイントピア別子本館前で記念写真を・・・・・・・・・・・・

 

 

  

マイントピア別子本館の横を上がり・・・・・。  鉱山列車「 開運駅 」の前を通り・・・・・

 

  

線路沿いに歩く・・・・・・・・・・・・。        牡丹園へ左折、千寿亭前を右へ・・・・・・

 

  

芝生広場沿い紅葉並木抜け・・・・・・・・・・・・    足谷橋を渡り向こう岸へ・・・・・・・・

 

     

     右側の千手亭から、左側の足谷橋への並木は ( 春は桜・秋は紅葉 ) が
    美しく彩ります。

 

     

     マイントピア別子本館。

 

  

旧端出場水力発電所への通路から・・・・・・・・県道47号 ( 新居浜別子山線 ) へ・・・・・。

      8 旧端出場水力発電

 ・別子銅山の近代化を支えた旧端出場水力発電所の5年に及ぶ耐震補強工事が終わり、3月28日から再び一般公開が始まった。発電所は大正元 ( 1912 ) 年 別子銅山に 電力を供給するため、操業開始から59年間  銅山と 工業都市の発展を支え、昭和45( 1970 ) 年に廃止された。れんが造りの壁やアーチ窓といった洋風の外観に加え、重い屋根を支える為三角形を組み合わせたトラス構造の建築美も見どころの一つである。   内部には操業時の姿をとどめるドイツ製発電機や周波数変換機、別子銅山発電所の歴史資料を展示するエリアもある。 ・山の斜面に水槽を設置し、水圧鉄管を通して当時東洋一と言われた597mの落差を利用して発電した。銅の精錬施設があった今治市の四阪島に電力を供給するため、1922年に敷設した全長約40キロの海底ケーブルは当時世界最長であり、いずれも最新鋭の技術を駆使したものであり、国の登録有形文化財にもなっている。企業発展の礎を築いた産業遺産が完成から110年の時を経て新たによみがえつた。

  

 

       

     旧端出場水力発電所へは、県道47号 ( 新居浜別子山線 ) 沿にあり
    旧端出場水力発電所を上から見下ろす場所に設置されています。   

          

  

  年寄りには危なさを感じる階段でした。

 

  

 

  

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                      ( 旧端出場水力発電所パンフレットより )

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  旧端出場水力発電所見学を終えてマインとビア別子本館へ・・・・・・・・・・・・。

 

  

  足谷橋を渡りきる途中右側に、四通橋と第四通洞。 左上の白いガードレールは
 県道47号 ( 新居浜別子山線 ) 。

 

  

  マイントピア別子本館で ( お土産などの買い物 ) を済ませ端出場大橋を出る。

    

 

    

    新居浜観光ガイドの会・石川 会長さんとは山田住宅付近でお別れです。
    最高のガイドさんでした有難うございました。

 

  

  17 : 45  太西支所到着。
  本日の歩いた距離・・・・・・9983m。  歩いた歩数・・・・・・14,262歩でした。