大西町歴史探訪 ・ 九王地区 ( 2016-05-28 )
昔は九尾と書いたそうです。それは この村の所有地が、樋ノ口、紺原、新町、大井浜、
宮脇、脇、別府、佐方、種の 九ヶ村にまたがっていたからだといわれています。 後に
九尾を九王にあらためたのだという。
今日は、朝から雨が降ったり止んだりの空模様、尊敬する先輩会員さんからのお誘いで
大西町史談会の 大西町歴史探訪 ( 九王地区 ) に参加させていただきました。
午後1時、九王集会所 ( 駐車場 ) に集合。1時10分、小雨のなかを資料のプリントを手に
村上史談会 会長の案内で、 1、藤ケ埼地蔵 〜 2、小坂大師堂 〜 3、金毘羅さん 〜
4、本龍院 〜 5、五右衛門新田開拓碑 〜 6、富山八幡神社 〜 7、九王地蔵堂 〜
8、龍神社 など、 9ヶ所を訪ね歩きました。
地蔵堂ヘ。
藤ヶ埼地蔵堂。
藤ヶ埼地蔵 ( ふじがさきじぞう )
左右 二体のお地蔵さま、左は 享保年間 ( 1716〜1735 )、右は 寛永 2 ( 1749 ) 年。
藤ヶ埼の人々の安全と健康を守ってくれるお地蔵さんとして、大事に祀られています。
お堂の前のお地蔵さんは踏切の安全と列車事故で亡くなった子供の霊を慰める
厄除地蔵です。
藤ヶ埼地蔵堂の裏側。
子供の病気が大流行したときに、病気封じのために お大師さんを勧請し
お祀りするようになったそうです。
金毘羅さん ( こんぴらさん )
向かって右が金毘羅さんで、元は向山の金毘羅山にあった。
上の絵馬は 慶應 4 ( 1868 ) 年に奉納されたようです。
いちばん大きな この絵馬も元治 元 ( 1868 ) 年、の奉納。
本龍院 ( ほんりゅういん )
向かって右が本龍院で、野間郡四国八十八ヶ所 第二十五番札所である。
天台宗寺門派で、本山は近江 ( 滋賀県 ) 圓城寺である。
本尊は十一面観音で、河野通清の嫡子通信が、船軍大将として出兵する際に
船魂十一面観世音菩薩像を彫刻し、戦勝の祈願をして当寺に安置し、崇拝
したといわれる。
⇒ 2012年2月5日、 野間郡四国八十八ヶ所 第二十五番 本龍院 巡拝。
県道15号線より内方 ( うちかた ) 踏切を渡り五右衛門新田開拓碑前へ、続いて
左の小山をのぼり富山八幡神社へ。
五右衛門新田開拓碑 ( ごえもんしんでんかいたくひ )。
安芸国 広島藩の家老てあった桧垣五右衛門は、あることにより藩主の怒りにふれ、
国を追われ浪人となり、寛永15 ( 1638 ) 年に、妻子とともに波方村の庄屋で富豪の
長谷部家に寄居することになった。
五右衛門は前々から新田開発に関心を持ち、よく研究もし、暇をみて新田開発の
適地を求めた。そして、苦心の末、九王村に開拓できる広い土地を見つけた。
当時の九王村は農地が少なく、農民たちは貧しい生活をしていた。
その後、九王村に居住を移し、なかなか村人の賛成と協力が得られないなか
夜になると一軒一軒の家を訪ねて、開拓の目的や方法について、熱意を込めて
詳しく説明して廻った。五右衛門の計画の正確さと誠意に動かされ、村人の協力が
得られることになり、工事に着手した。機械の無い時代の土木工事は大変な労苦と
時間を要した。村人とともに、辛苦、惨憺、困苦、欠乏に耐え、寛永17 ( 1640 ) 年
三年がかりの大工事は完成し、新田の開発に成功した。
村人たちはこの開拓地を「 五右衛門新田 」 と名付け、その恩恵を受けてきた。
その偉業をたたえ、明治32 ( 1899 ) 年に記念碑を建立した。
五右衛門新田の説明を聞く、また子供の頃 この開拓碑に上って遊んだ
思い出話なども。
富山八幡神社へ。
富山八幡神社参道入口。右側は車道。
富山八幡神社鳥居。
石段途中の狛犬。
石段の中間あたりに 荒神社。
富山八幡神社 ( とみやまはちまんじんじゃ )
九王冨山にあり、旧村社である。 文武天皇の 慶雲 4 ( 707 ) 年、国司越智玉純が
勅を奉じて、安芸国厳島大明神を、伊予国八ヶ所に勧請した中の一社である。
後醍醐天皇の延元 元 ( 923 ) 年、国司伊予守が勅を奉じて、豊前国宇佐八幡宮を
勧請し合祀したことにより、富山八幡宮と改号した。
富山八幡神社拝殿。
富山八幡神社扁額。
富山八幡神社 内陣。
県道15号線沿いの九王地蔵堂へ。 藩政時代のいつの頃か地蔵堂の参拝者が
たくさんふえ賽銭が多く集まったので、そのお金で堂を建てることを松山藩の役人に
願い出たが農民に倹約を進めていた時代で許可が出にくかったので、葬式の線香場
として必要であることを理由に願いでて許可を得たともつたえられています。
野間郡四国八十八ヶ所第二十六番札所。 ⇒ 2012年2月5日第二十六番札所参拝
春祭りには境内で 継ぎ獅子が披露されます。
こちらは ⇒ 2010年5月16日、地蔵堂で行われた春祭りの様子です。
九王地蔵堂 ( くおうじぞうどう ) 今治市指定文化財
享保6 ( 1721 ) 年、左甚五郎の流れを汲む阿波の大工 ( 弟子 ) によって、建て
られたと伝えられている。建築様式は唐様で、斗栱 ( ときょう・軒を支える組み物 ) の
組立て構造も その各々が相調和し、木鼻の龍、唐獅子をはじめ、頭貫 ( かんぬき ) 等
に施された彫刻も素晴らしく、そりのある屋根の勾配の美しさを中心に、堂全体の調和
も見事である。正面の梁の彫刻、格子天井など、非常に手の込んだ作りとなつている。
昭和51年から解体大修理に取りかかり、52年春に完成した。
堂の中に三体の地蔵尊が祀られており、正面に三界万霊、左側に享保6 ( 1721 ) 年、
辛丑 ( かのとうし ) の年、右側に野間郡九王村願主御十人造立とある。
この地蔵尊は、九王村の庄屋の霊を弔うために造られたともいわれる。
堂の周囲には庄屋であった村瀬家の立派な墓石や、他の家の墓石も沢山ある。
九王海岸へ。春祭りには この沖で船上継ぎ獅子が行われます。
⇒ 2008年5月18日、春祭りに孫達と船上継ぎ獅子見物に
龍神社へ。
平成三年九月の台風により、本殿、拝殿悉く流失 依って 氏子及び町内外の
崇敬者有志の寄附により再建される。
龍神社の鳥居は海中にあります。
龍神社 ( りゅうじんじゃ )
伝説によると、昔 神武天皇東佂の砌、この辺りで激しい嵐にあつたが、龍神の
助けで無事九王の浜ヘ難を避けることができたため、八王龍王と海神をこの地に
祀ったのが、龍神社の始まりとされる。その後 天皇も合わせて祀ったので、八王に
一王を加え、九王の地名が誕生した。
雨の神、海の神、農業の神として、農民の信仰が厚く、松山藩の雨乞いの祈祷所
として、霊験を顕わしている。
5月の春祭りに行われる船上継ぎ獅子は、宮出しをした神輿が船で対岸へ渡る間に
お供しながら船上で行われるもので、江戸時代に始まり、現在まで200年以上も
受け継がれており、大変有名で、多くの見物客で賑う。
狛犬。
平成三年の台風では、本殿、神殿はおろか石垣ごと流され何も無く岩肌が剥きだし
だったそうです。
九王地区の歴史探も龍神社で終り 県道15号線へ出て九王集会所へ。
4時40分、みんなそろって九王集会所へ到着、解散。
本日の歩いた距離・・・ 5.3 km。。 歩いた歩数・・・ 8074 歩。
お蔭様で雨に降られることもなくとっても楽しい歴史探訪でした。