大西町内歴史探訪  ( 別府・星浦地区 ) 

   大西町内歴史探訪   ( 別府 ・ 星の浦地区 )


   別府地区 一説には、ここに昔怒麻の国造の別館があったので、別府という
   地名が起こったそうです。
   ⇒ 2015年9月12日、 歩こう古里の文化・別府コースに参加しました。


   
   13:00  大西支所集合。 ( 大西町内歴史探訪 別府 ・ 星の浦地区 の資料配布 )
   13:10  車に乗り合わせて、大西支所出発。


   
   13:20  大山八幡神社駐車場到着。


   


   
   屋根付きの注連石 ( しめいし ) は珍しいそうです。


   
   大山八幡神社
祭神・・・・・・・高淤加美神。 誉田別命。 帯仲津彦命。 息長帯姫命。 雷神。
境内神社・・・諏訪神社。 得居神社。 加代之宮社。 小祭神社 ( 龍神社等八社 )
天明天皇和銅五年 ( 712 ) 雷神、高淤加美神を勧請、清和天皇貞観元年 ( 859 )
奈良大安寺の僧 行教が宇佐八幡宮より勧請した。
また、宇多天皇の弘安五年 ( 1282 ) 国守 河野通有筑前の宮崎八幡宮より
勧請したとも伝えられています。


    


    


   


   
   諏訪神社


   
 境内にある諏訪神社・得居神社は安産の神として崇拝され、妊婦は境内の砂を
一握り持ち帰り、無事出産すると、お礼として浜の砂を倍にしてお返しする風習が
あります。


   
   13:55  別府海岸へ。


     
     怪島 ( けしま )
   別府の沖に浮かぶ台形の島で 面積は 2 . 3 ヘクタールあり、怪しい島と
  名付けられている様に、昔は海賊が住み着いていました。
  戦国時代は 河野氏の将、神野佐馬充が城を修築し、来島城の支城として
  斎灘を制していました。


   


   
   14:10  国恩寺へ。


       
       野間郡四国八十八ヶ所 第二十二番札所 国恩寺
   ⇒ 2012年2月5日、野間郡四国八十八ヶ所 第二十二番札所 国恩寺参拝。


   
  寛文12 ( 1672 ) 年、俊忍法印が開山したと伝えられている。
  また、別府には昔、国造りの別館 ( 別府 ) があり 徳政が行われたので、
  この地にあった清蓮寺を再建した際に、国造りの徳を慕い、国恩寺と改称
  したと伝えられています。


    
    本堂。
   昭和4 ( 1929 ) 年 四国霊場 第五十四番延命寺の本堂が移築される。


    


      
境内の左側 墓地の片隅に、怪島城主だった神野佐馬充の墓と言われている墓石。


   
   14:30  別府の山中に残る隠れキリスタン碑へ。


    
    竹藪を登ります。


    


    
    表面にくっきりとマリア像と思われるレリーフが見えます。


    


   


   
   14:53  安野農機へ。


   
    安野農機
昭和初期に建てられた木造瓦葺 のこぎり屋根の工場が当時のまま残されています。
江戸時代の文化年間 ( 1804〜1817 ) 別府村に唐箕 ( 穀物を風によって選別する
農機具 ) を制作していた人が数人いた。同村の安野徳五郎は、もつと便利で能率の
よいものにしたいと、親の許しを得て、3年間、九州、中国、近畿地方を巡って実地に
研究し、帰国後、改良唐箕の政策を始めた。 多少の紆余曲折はあったが、次第に
発展し、明治の末期 ( 41年頃 ) には、職工数人で年間の製造個数二百数十個、価格
千三百円に達した。大正15年 ( 1926 ) 唐箕の小型化に成功していよいよ有名になり
鉄道の開通と相まって販路も日本全国に拡がり、朝鮮、満州方面まで及んだ。
昭和に入ってから生産量はますます増大し、戦後には従業員も増加し、製作工程も流れ
作業方式で量産化されね生産量は1日40台に達した。このように全国的に有名になった
安野唐箕も、昭和35年頃から新しい農業機械の発展と普及により、次第に需要が減少
していった。唐箕の減産に伴い、同工場では養鶏用ゲージなどの新しい器具の製造を
併せ行うようになった。


    
    のこぎり状の窓から差し込む光で明るい工場の内部。


         
 安野農機株式会社は 唐箕 ( とうみ ) 穀物を風によって選別する農機具を生産し
 全国に出荷、鉄道が直接が工場に引き込まれる位の勢いだったそうです。


     


     
     「 唐 」 ・  「 箕 」  の鬼瓦


   


         
    15:15  別府地区・安野農機より星浦地区の碇掛天満宮駐車場へ。
          JR予讃線沿いの坂道を碇掛天満宮へ。
   ⇒ 2014年12月14日、クワハウス・ウォーキンク 史跡巡りで別府地区へ


    
    菅金助君碑
石碑には大きく不撓不屈 ( ふとうふくつ ) と刻まれています。あらゆる困難に立ち
向かい様々な事業に成功しただけでなく、世のため人の為に尽くした人です。
特に昭和21年、前年の台風で破壊された平田池 ( 新池 ) を復興させた功績は大きく、
それらの功績をたたえ昭和25年記念碑を建立しました。


          


   
   下の鳥居を入り碇掛天満宮へ。


          


    
    注連石 ( しめいし )


    


    
    鳥居


    


    


   


          


 
 碇掛天満宮拝殿前で記念写真。


    
    碇掛天満宮
 星浦村旧村社。宇多天皇の仁和4年 ( 888 ) 讃岐守だった菅原道真公が伊予国
視察して帰る途中、大しけにあわれ、星浦に碇を止めて上陸、カゴノキ大木の傍らの
津の神に安穏を祈りました。その後、天慶5年 ( 942 ) 大宰府より道真公の霊を勧請
しました。難を逃れた碇石が残されたことにより、碇掛天満宮と呼ばれることになりま
した。


   
   碇掛天満宮神殿。


    
    碇石は讃岐で採取されるサヌカイトでできており、境内の祠に大切に
    祀られています。


   
   車道は境内まで来ていますがUターンをする場所が・・・・・・・?
   帰りはこちら側から下ります。


   


   
   15:53  星神社へ。


   
   星神社
 延元2年 ( 1339 ) 当地に星神 ( 隕石 ) が落ちました。そのため、この辺りの地名が
星浦となっています。その星神 ( 隕石 ) を祭神として祀ったのがこの星神社です。
昭和12年に6000年祭が行われました。


    


          
          越智岩太郎記念碑
 溜め池がなく日照りの年には干害に悩む星浦農民のために弘化4年 ( 1847 ) 一身を
捧げて平田池 ( 新池 ) を普請しました。その功績をたたえ 大正12年 ( 1923 ) 記念碑を
建立しました。


   
    16:10  越智岩太郎記念碑前へ。


   


     
 越智岩太郎記念碑の後ろの石柱・上部、十文字の切り込みは・・・・・・・・・・・・
 何の為にあるのでしょうか。


   
   16;25  成道寺へ。


   
   成道寺
 星浦の成道寺は、僧都山光弘院成道寺といい、新義真言宗で、本山は奈良県
長谷寺です。現在は、宮脇・法隆寺のご住職が兼務しています。
野間郡八十八ヶ所 第八十二番札所です。


   


   
   16:35  来月の歩こう会の説明のあと、解散。
   本日の歩いた距離・・・2.5km。  歩いた歩数・・・4122歩でした。
   今回は、自動車で回りました。