第1回 西国三十三観音巡り 第二番 紀三井山 金剛宝寺 〔 紀三井寺 〕
【 紀三井寺 縁起 】
宝亀元年 ( 770 ) 、唐僧為光上人によって開基。和歌山城からほど近いところに
あるため、歴代藩主が訪れ、紀州徳川家の繁栄を祈願した。宝暦9年 ( 1759 ) に
本堂を新築。 内部には10代藩主治宝が寄進した多宝塔が安置されている。
本尊の十一面観音は50年に一度開扉される秘仏となっている。寺名は境内の
清浄水・楊柳水・吉祥水の3つの井戸に由来。
⇒ 2011年5月21日、高野山へ御礼参りの途中 紀三井寺へ参拝しました。
金剛力士像。
結縁厄除坂。
地上より 231段、是より上 210段。 ( 25段、33段、42段、61段 ) と 厄歳を踏み
越える石段が続きます。参詣者泣かせの この急坂は、結縁坂(けちえんざか)と
呼ばれ、次のような”いわれ”が伝えられています。
「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど
孝心篤い青年でした。ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣り
しておりましたところ草履の鼻緒が切れてしまいました。 困っていた文左衛門を見かけ
て鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の
宮司の娘「おかよ」でした。これがきっかけとなり、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え
二人は結ばれて後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を
江戸へ送って大もうけをしました。紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった
紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになったそうです
紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き
水の一つで紀三井寺の三井水(さんせいすい)として名水百選に選定されています。
清浄水は参道石段の途中右側にある小滝です。楊柳水はそこから小道を入った突き
当たりにある井戸ですが、遅れては大変、先に本堂でお勤めを、帰りの楽しみに。
紀三井寺の香炉。
本尊真言・・・・・・・・おんまか きゃろにきゃ そわか
札所等・・・西国三十三観音霊場 二番札所
名称・・・ 紀三井山 金剛宝寺 [ 紀三井寺 ]
( きみいさん こんごうほうじ [ きみいでら ] ) 本尊・・・十一面観世音菩薩
宗派・・・救世観音宗 ( 総本山 )
開基・・・為光上人
創建・・・宝亀 元 ( 770 ) 年
所在地・・・和歌山県和歌山市紀三井寺1201
紀三井寺 散華 TEL・・・073-444-1002
お身代わり賓頭盧尊者。
十一面観世音菩薩坐像。
大師堂横の石段を上ると、正面に三社権現、護国院多宝塔、開山堂と続き本堂前へと
下りる事が出来ます。
春子稲荷 ( はるこいなり )
天正13 ( 1585 ) 年、豊臣秀吉の 紀州攻めの時
紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵と
して出陣、しかし僧兵軍は散々な目に遭い、自身も
ひん死の状態で逃げ帰る。 その平太夫にすがって
泣いたのが観音堂につかえる巫女の春子姫。恋仲に
あった平太夫が息をひきとると、春子は 観音堂へ
こもって お経を唱え始め、やがて声が激しくなると
一匹の白狐となって石段をかけおりました。
白狐は、迫っていた攻撃軍の大将、秀吉に話し合いを求め、秀吉から「 寺に無礼が
あってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する 」 という証文をとりつけ、それを
持ち帰り、観音堂で絶命しました。そのお蔭で紀三井寺だけは 焼き討ちをまぬがれ
たと言われています。
護国院多宝塔 ( 国指定重要文化財 )
護国院多宝塔 ⇒ 拡大
千度石と百度参詣塚。 手水舎。
紀三井寺の樟樹 ( 天然記念物 )
境内がら和歌の浦を望む。
「 新仏殿 」 本堂と向かい合って建っています。
木像立像では日本最大「 大千手十一面観世音菩薩 」 無料公開中でした。
大千手十一面観世音菩薩像。
高さ 約 12m、重さ 30トンの巨大な仏像は 京都の仏師・松本明慶作で
寄木立像としては日本最大。3階からも十一面のお顔を拝む事が出来る。
身代り大師堂前の石段を降りて。 更に左へ・・・・・・・・・・・・・・
楊柳水を引き込んだ水飲み場 ( 念のため、飲用の際には煮沸してお飲み下さいと ) 。
清浄水 ( 参道石段の途中右側にある小滝 )
紀三井寺の寺名の基となったとされる「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水で
紀三井寺の三井水(さんせいすい)として 昭和60年(1985 )名水百選に選定される。
楊柳水はそこから小道を入った突き当たりにある井戸。吉祥水は境内からいったん
楼門を出て右(北)へ数百メートル行ったところにある井戸である。楊柳水と吉祥水は
荒廃していたのを20世紀末に復旧整備したものである。