令和元年度 新居浜市探訪 1 マイントピア別子
令和元年度 新居浜市探訪は 世界的な産業遺産の里マイントピア別子と東洋の
マチュピチュ「 東平 ( とうなる ) 」へ。 ここへは 何度も訪れていましたが 今回は
地元のガイド ( 語り部 ) さんが同行、別子銅山100年の歴史を詳しく聞きながら
お陰様で大西史談会一行は楽しく歴史探訪に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
( 東洋のマチュピチュ索道基地跡前 14時35分頃、逆光で残念な写真に )
( ↑ 上は2013年11月18日16時32頃の写真です )
9 : 30 大西支所集合 ( 本日の参加者 23名の内 大西から18名乗車 )
9 : 35 出発 ( 9 : 45 出発予定でしたが10分早く出発 )
9 : 45 JAおちいまばり彩菜来て屋前で3名乗車
9 : 58 ここ 道の駅湯ノ浦温泉前で2名乗車
何年振りでしょう国道196号線を新居浜へ。
( 最近は 湯ノ浦ICから高速で新居浜へ行くことが多くなりました )
10 : 00 ~ 10 : 25 本日の資料を見ながら予備知識 ( 予習を ) ・・・・・・
「 別子銅山 」
・日本三大銅山の一つ「 別子銅山 」は、今から約330年前の元禄4 ( 1691 ) 年に
開鉱し、昭和48 ( 1973 ) 年に閉鉱するまでの283年間、連綿として繊維有数の 65
万トンもの銅を産出してきた。地中深くから掘り出された銅の鉱石を、坑内電車で
東平 ( とおなる ) まで運搬し、そこで選鉱後 貯蔵庫に貯め、索道を利用して端出場
( はでば ) へと輸送していた。
・市内には採鉱跡など貴重な近代化産業遺産が数多く残り、別子銅山の産業遺産は
四国山脈の海抜 1300 m の 別子山上から、瀬戸内海の海上の四阪島まで 11ヶ所に
散在している。その内 現在テーマパーク・マイントピア別子として、道の駅とし
ても人気の「 端出場ゾーン 」と東洋のマチュピチュと「 東平ゾーン 」の 2つの
エリアに分かれて活用されている。
・採鉱当初は、別子山上から時代とともに新居浜市側へ移ってきて、江戸時代は
長崎からオランダ、中国へと輸出された。明治維新後は、西洋の最新技術を導入し
当時の支配人広瀬宰平は、採鉱・製錬・運搬の近代化を成功させた。明治26 ( 1893 )
年、精錬所の煙害問題が発生し、支配人 伊庭貞剛は その解決のため 沖合 20 ㎞ の
四阪島へ精錬所を移し、明治38 ( 1905 ) 年に操業を開始し、そのその後 35年の歳月
をかけ脱硫・中和装置を設置し、昭和14 ( 1939 ) 年 煙害問題は解決した。
端出場ゾーン
・海抜 156 m、国領川の両岸に位置する。明治26 ( 1893 ) 年、下部鉄道の終点とな
り、物資輸送の中継所から発展した。明治45 ( 1912 ) 年 水力発電所が建設された。
大正4 ( 1915 ) 年に第四通洞が完成し、昭和5 ( 1930 ) 年に採鉱本部が東平から移転
し、昭和48 ( 1973 ) 年の閉山まで採鉱の拠点であった。
・平成3 ( 1991 ) 年に端出場ゾーンがオープンし、火薬庫を利用した 延長 333 m の
観光坑道で当時の様子を体験できる。その他 当時のままの中尾トンネルや足谷川鉄橋
を鉱山鉄道が走る。 また 旧水力発電所や住友の共同厚生施設だった旧泉寿亭などが
残っている。
東平ゾーン・インクライン跡・貯蔵庫 索道場跡・東平歴史資料館 等の予備知識を
県道13号線 ( 産業道路 ) に架かる新加茂川大橋からの眺め。
10 : 56 国領川に架かる 新田橋 ( 県道47号 ) を渡り山根公園前を右折、
( 新居浜別子山線 ) を道の駅マイントピア別子へ。
11 : 02 端出場大橋 道の駅 マイントピア別子
マイントピア本館
鉱山観光鉄道 開運駅前でガイトの入江さんと合流。
【 蒸気機関車別子1号 】 車両編成 全長 31.2m
この鉱山観光列車は、平成31年3月1日にリニューアルしたそうです。
【 かご車・人車 】【 一般客車 】【 バリアフリー客車 】【 銅婚客車 】
【 電気機関車キッズ専用車 】帰りは電気機関車が先頭になります。
11 : 20 開運駅出発。端出場隧道 ( 中尾トンネル ) を抜けると・・・・・・・端出場鉄橋・・・・・
端出場鉄橋を渡ると 直ぐに幸運駅に到着。
幸運駅
駅裏でガイドさんのお話を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
坑口橋へ。
端出場坑道前 坑道内へ。
坑道内の温度は18.1℃ ひんやりとしています。
四国の地質構造図・別子銅山周辺地質図・別子銅山 ( 本山 ) の歴史年表等を
見ながらガイドさんのお話を皆さん熱心に聞いています。
歓喜抗 切り上がり長兵衛
歓喜抗は元禄4年 ( 1691 ) に開かれた別子銅 別子銅山の歴史は、人跡未踏の銅山峰の
山の最初の坑道でした。人々はこの将来 南側で元禄3年 ( 1690 ) 阿波生まれの鉱夫
有望な銅山の坑口に立って、前途を祝福 「切り上がり長兵衛」が露頭を見つけた
し、抱き合って歓喜したところからこの ことに始まったと伝えられています。
名がつけられたといいます。 翌年幕府の許しを受けて大阪の泉谷( 住友
の古い屋号 ) により 採掘が開始されました。
( 尚、ガイドさんのお話しによると、切り上がり長兵衛さんの、その後の消息は誰も分からないそうです )
負夫と堀子
坑口の上には銅山の守護神がまつってありました。背に葛で編んだ篭を
背負った運搬夫 ( 負夫 ) と採鉱夫 ( 堀子 ) は螺 ( さざえ ) の殻でつくった
明り取りを手にして坑内に入りました。
堀場 ( つぼ )
採鉱は主に「 つち 」と「 のみ 」などを使い、手作業で行われました。
また、地表近くで通気の良い所では、薪に火をつけ、この熱で砕き、鉱
石を採る方法も使われました。
湧水の引き上げ
鉱石を採ると、石の目を伝って水が溜り、採鉱が難しくなりました。そこでこの
湧水を夜も昼も、坑外へ汲み出す作業が行われました。
坑口と風呂場
別子銅山では、歓喜抗を出るとすぐ共同浴場があり、たいへん便利に作ら
れていました。鉱山で働く人々は、その日の作業を終えると、これを使い
疲れを癒しました。
砕女小屋 ( かなめごや )
運び出された鉱石は、砕女 ( かなめ ) と呼ばれる女性たちによって、かなづちで
1寸 ( 3㎝ ) 角位の大きさに砕かれ、色の濃淡によって選別されました。
銅の精錬
選別された銅は、多くの工程を経て製錬されました。それは別子だけではなく
大阪にも送られて、ようやく製品となったのです。銅製品は、輸出用の棹銅、
また国内向けの板状にした丸銅や丁銅と呼ばれるもので、それそれ形が変え
られていました。
焼鉱
鉱石を焼くことで、鉱石中の硫黄分を知り除くと、鉱石の重さは 2~3割
減って、銅・鉄の酸化物と石英、少量の硫黄を含む焼鉱になります。
「 一番吹き 」または「 珀吹き ( はくぶき ) 」
焼鉱を珪石、木炭とともに、吹床 ( ふきどこ ) に入れ、「 ふいご 」で風を
送って熱して溶かすと、成分の比重によって、”カラミ” と ”カワ” に分離する。
”カラミ” は銅をほとんど含まない鉄分の多い残りカス。 ”カワ” は、銅分を含
んだもの ( 硫化銅 ) で、”カラミ” に比べ比重が重く、下に沈む。
「 二番吹き 」または、「 真吹き ( まぶき ) 」
”カワ” を真吹き床にいれ、前工程と同じように、硅石とともに木炭の加熱で溶かす。
すると、さらに ”カワ” の中の硫黄分が 亜硫酸ガスとなって発散し、硫化鉄は珪酸鉄
となって除かれ、硫化銅は酸化されて銅分 97 ~ 98 % となる。これを「 粗銅 ( そどう ) 」
という。輸出用の粗銅は棹銅の形にされる。
銅製錬 今昔物語
別子山が開抗したのは、1691年。それから300年以上過ぎた現在も輸入した
銅精鉱を原料に、銅の精錬が続けられています。銅精錬の歴史は、煙害問題
解決の歴史でもありました。精錬所を山から海へ移動したり、煙害を処理す
る技術を確立したり、様々な苦労を経て現在にたどり着きました。環境問題
が叫ばれる今日、すでに別子の山には緑が蘇り、四阪島ではリサイクル工場
が稼働し、東予工場では無公害の精錬が行われ、環境の世紀を先取りしてい
ます。
仲持ち ( なかもち )
仲持ちとは、運搬夫 ( 婦 ) のことをいいます。 銅山から、行きは粗銅や
半製品の銅のかたまりを、帰りには米や味噌などの生活用品を運びました。
粗銅改め
山で作られた粗銅は、山役人の立会いのもとに、つくられた量を計られました。
当時、銅山税として、生産量の 13 %が幕府に収められていました。
山神社 ( さんじんじゃ )
山神社とは、昔から鉱山を行う者が信仰した大山祇神 ( おおやまずみのかみ ) を祀る
もの。 抗内にこの神を祀り、無事を祈った。
近代ゾーン
この動く巨大ジオラマは「 別子銅山 」 ( 旧別子・東平・端出場 ) の明治から
昭和の規模を一か所に集約したものであり、大きさ・配置等は実際と異なり
ますが、近代の模様を表しております。正確な配置については、パネルをご覧
ください。 ( 動く巨大ジオラマ前の立札より )
童心に帰って鉱山列車が来るのを・・・・・・・・・・・・・・アラアラ通り過ぎてしまいました。
体験ゾーン
湧水の引き上げ体験・仲持体験・持ち上げ岩体験・湧水の引き上げ体験等。
仲持体験 持ち上げ岩
仲持は、粗銅の中川仲宿 ( 中継地 ) まで ~ 僕も 私も 力持に変身 ~
運んで、帰りは日用品を運んで戻りました こんなに大きな岩でも 軽々と持ち上
その距離は片道6kmとなります。女性 30 げられるよ。
kg、男性45kg の 荷物を背負って、険しい 岩の下に入って両手で岩を持ち上げ
山道を登ったり下ったりしていたのです。 てください。 記念写真にどうぞと
元禄4年から、明治13年まで運んでいまし 書いていたのですが ・・・・・・・・・・・。
た。
一番人気は削岩機体験のようで~す。
猿飛橋へ出る。
猿飛橋からの風景、川下に見えるのは坑口橋であの橋を
渡って坑道内へ入りました 。
煉瓦水路
坑内水流水路の一部です。ここから。また木製の水路に継ぎ、鉄道線路脇の
抗水路で山根収銅所に流送して浄化処理をしました。明治35年 ( 1902 ) 標高
約 750 米 の所に第三通洞延長約1800 米が出来ると上部地区の鉱石の運び出し
が便利になると同時に、坑内水も排出されました。
坑内水は、地表から浸透した水が含銅硫化鉄鉱と接触して強い酸性となり、
銅や鉄の折出金属を含んだ鉱毒水となります。この水を川に流すと土壌が汚染
され、環境が破壊されますので、坑口から木製の水路を連ね、途中、水流変更
箇所には会所 ( 水溜池 ) を、急流部には煉瓦水路を作って、急峻な山肌を延々と
流してきました。 これからは、公害防止努力の証言者でもあります。
鹿森社宅・東平社宅の人々の生活 ( 子供達の楽しく遊んでる様子 ) 等を
パネルを見ながら説明してくださいました。
いょかんアイスとっても美味しかった~。
ここで一枚記念写真を。
緑茶のお接待。
鉱山列車到着。
端出場鉄橋を渡り開運駅へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開運駅・マイントピア別子本館到着。
本館2階を横切り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 旧端出場水力発電所(登録有形文化財)
- 足谷川右岸に建つこの建物は、明治45年(1912)に建設された水力発電所です。急峻な山の南を流れる銅山川などの水を利用し、日浦通洞(明治44年貫通)と第三通洞(明治38年貫通)を通り、水路で石ヶ山丈の煉瓦造の水槽まで引水し、当時日本一を誇った落差597mの水力を利用して、国内最大級の3000キロワットの発電を行いました。大正11年に発電機と水車を増やし、四阪島へ海底ケーブルを使い昭和45年まで電気を送っていました。現在は、運転開始時のドイツのシーメンス社製の発電機などがそのまま残っています。平成22年4月、住友共同電力株式会社から寄贈。内部は現在は公開していません。
旧端出場水力発電所 ( 登録有形文化財 ) は、ここからよく見えます。
12 : 38 道の駅マイントピア別子 端出場大橋を右折、東平ゾーンへ。
マイクロバスは、第2清瀧橋・第1清龍橋・鹿森ダム・5つ ( 霞トンネル・風花トンネル
・野分けトンネル・新緑トンネル・清滝トンネル ) の美しい名前のついたトンネルを抜け
ると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
足谷川に架かる「 時雨橋 」の手前、左側に東平 ( 東洋のマチュピチュ ) 入口。
県道47号 ( 新居浜別子山線 ) から市道へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
道幅が狭くて離合が大変・・・・・・・・・・と思う間もなく対向車が !! バックしてくれました。
山々は住友林業の植林により緑を取り返したそうです。
道路の両側には、苗木4500本が植林されているそうです。
木々の切れ目から新居浜市街が見えてくる、ずいぶん上まで上りました。
道路下、この辺りは社宅があったそうですが今は植林され鬱蒼とした林に・・・・・・・・ !!
銅山の里「 自然の家 」ここには、かって、小 中学校がありました。
この銅山自然の家は、各種団体の研修の場や、家族連れの憩いの館と
しても利用されています。
鉱山の里 自然の家は現在工事中です。 接待館跡。
貯鉱庫・索道基地跡への案内板がみえてくる。
13 : 05 駐車場 ( 採鉱本部跡 ) 到着。
早速それぞれ好きな場所でお弁当 ( 昼食 ) 。
駐車場前展望所より下を覗くと採掘集落を復元の赤茶色の屋根が見えました。
横に回ると新居浜市街も見ることが出来ます。
13 : 30 東平歴史資料館前の 鍰煉瓦 ( からみれんが )を 展示している場所
に集合。鍰煉瓦 を持ち上げると凄ーく重かったそうです。
鍰煉瓦 ( からみれんが )
鍰で作った煉瓦、重さは約 60kg 。鍰とは鉱石の製造過程で生ずる
廃棄物で、スラグ ( siag ) 、鉱滓ともいう。この鍰煉瓦は、明治38年
( 1905 ) に操業を開始した。四阪島精錬所で造られたものであろう。
銅製錬、銅鉱石中の鉄分を取り除くため、珪石 ( シリカ ) を混ぜ、
珪酸鉄 ( 鍰 ) として銅と分離させたのち、型に入れて鍰煉瓦を造った。
別子銅山関連施設では、護岸や擁壁の材料として使用されたが 門野
小学校でも運動場観覧席の擁壁に使用されたことがわかります。
東平歴史資料館
山の町として栄えた最盛期の東平の生活文化を、ジォラマや写真、映像で
紹介しているほか、銅に係わる様々な製品鉱石、赤石山系のしぜんも紹介
展示しています。
歴史資料館は、平成10年2月に「 銅を用いた建築コンクール」で3位に
入賞したそうです。
東平
280余年の別子銅山の歴史のなかで、東平時代は、採鉱本部が東延から移転
してきた大正5年から、端出場に移転する昭和5年までの15間です。
しかし、この期間の粗鉱量は著しく、全体の五分の一を占めています。
鉱山集落としての東平は昭和43年になくなりましたが、新居浜の原風景と
して残り、都市の明日を思索するには、またとない地となっています。
懐かしい東平時代のパネルを指しながら1枚々丁寧に説明を・・・・・・・・・・・・・・。
別子銅山の模型を指しながら熱心に説明。
史談会の皆さんも、凄ーく熱心に聞いています。
娯楽場の模型
5月の山神祭りの3日間、東平は祭り一色に包まれました。
その主な舞台が、明治45年に建築された娯楽場でして。ここでの上方
歌舞伎は圧巻で、役者たちは山かごに乗って東平に来たそうです。
回り舞台があり桝席や花道もあった本格的なものでした。戦後は、映画
の上映や楽団による演奏会、ダンスの練習、集会などに使われました。
学校の模型
この学校の60余年は、東平の盛衰をそのまま映し出しています。
明治39年、私立住友東平尋常高等小学校として児童20人で開校し、
昭和2年には 695人を数えました。昭和36年に新居浜市へ移管され、
昭和43年3月 東平抗休止にともない閉校となりました。私立時代は
先生も「 社員 」でした。戦後は、剣道、卓球、コーラスなどに優秀
な成績を残しています。
厳冬のため、冬休みの方が夏休みより長かったそうです。この学校の
跡地は、現在、銅山の里「 自然の家 」となっています。
( 鉱山列車で学校にグランドピアノが運ばれましたがトンネルの幅ぎりぎりで通過したとか )
社宅の模型
東平の住宅は、そのほとんどが社宅でした。 これは明治30年代末頃に
建築した呉木の社宅で、第三通洞が開通した後の東平地区では最も古い
ものの一つです。冬の雪に備え屋根はトタンでした。
鍵もかけず、無料の共同浴槽や共同水場もあり、これが社宅内を家庭的
な雰囲気にしていました。山中だけに火事には細心の注意を払っていま
した。
東平郵便局 コーナー
半鐘 「 ふしぎな花 」の点検中
昔,半鐘は火事など異変を知ら この「 ふしぎな花 」」花がゅっくりと咲きま
せるときに使われました。銅・ す。これは形状記憶合金とよばれる銅を含んだ
錫・亜鉛の合金で、高い音を出 合金で、できているからです。普通、金属は好
すには銅の割合を高めればよい きな形に加工出来るのが特徴ですが、形状記憶
と言われています。 合金は力を加えて変形させても過熱すると元に
戻る特質をもっています。
~ 上の展示室へ行くスロープ の壁には人々の生活の様子が展示されています ~
最初のパネルは坂道と厳しい冬景色。 かご電車。
お母さん お父さん
楽しい運動会・町から来た商人から買い物 坑内電車で仕事に向かう大勢のお父さ
をする楽しそうなお母さん達の写真です。 んの写真等。
~ 写真をクリックすると拡大します ~
シアタールーム
団体行動、時間がないので残念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
銅製品の展示。
アカモノ
ツツジ科の高さ 5 ~ 10 ㎝ の 常緑低木で、銅山峰周辺から東赤石山の
西端部までに点在し、ツガザクラと並ぶ、銅山峰の代表的な鉱山植物に
なっています。
カラマツやアカマツ林の林床の半日陰を好みますが、雑木が茂ってきた
ので、今では登山道や岩場に多く見られます。
東平歴史資料館を出て産業遺産がよく見える展望所へ。
上は、東平の施設取り壊し前の写真、 煙害克服の島 四阪島精錬所
下は、施設を取り壊し後の写真です。 美濃島 ( 居住区 ) と 家の島 ( 工場区 )を
もっと残してほしかった・・・・・・・ !! 埋め立てた四阪島精錬所、トレドマーク
であった煙突は現在、ありません。
日本初の山岳鉱山鉄道 別子銅山鉄道「 上部線 」白い点と、目印の点が合い
ませんでした残念 !!
インクライン跡前
旧インクライン跡 ・・・・・大正5年 ( 1916 ) 頃 東平・端出場索道の物資運搬の
接続施設として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に斜長95m、
仰角21度で インクラが設置された。動力は電気巻き上げであつた。
複線の斜路は連動していて、片方があがれば片方が下がる仕組みになっており、
必要な物資や生活用品が引き上げられ、抗木などが引き下ろされていました。
インクラライン跡を利用して平成6年 マイントピア別子東平
ゾーンの整備時に、220段の長大な階段に生まれ変わりました。
索道基地跡 ( 花木園 ) へ。
下を覗くと、赤茶色のトタン屋根 ( これは採掘集落を復元 ) と左側の
四角い枠は建物の基礎とカマドだそうです。
索道基地跡 ( 花木園 )
明治33年、東平の索道基地がここに完成しました。鉱石・生活用品・資機材等を
東平・下部鉄道黒石駅 ( 昭和10年から端出場 ) まで運んでいました。
現在は、東平ゆかりのシャクナゲやドウザンツツジ等を栽培し、花木園になって
います。
せっかくの風景ですが眩しくて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ !!!!!!
索道基地跡
明治39年の索道基地内部
明治26年 ( 1893 ) から鉱石の運搬経路は、上部鉄道と石ヶ山丈~
端出場間の索道を経由して下部鉄道に搬出されていたが、明治35年
( 1902 ) 、第三通洞 ( 東平抗口~東延斜抗底間 ) の開通に伴い、運送
路の充実を図るために 明治38年 ( 1905 ) に 東平~石黒駅間停車場
( 3.575m ) に ドイツ人の索道技師 プライヘルトにより自動複式索道
が設置された。途中、新道と六号の2箇所に中継所が設置され、押し
出し作業による中継ぎがされていた。新道の中継所跡の煉瓦造りの
建物は今も残っている。その後、昭和10年 ( 1935 ) には距離を短縮し
て、東平~端出場間 ( 2.717 m ) とした。東平~端出場間の索道には
26基の支柱が立ち、80器ほどの搬器が吊るされて分速150mで回転し
ていた。同年に太平抗~東平間 ( 1.312m ) の索道が完成し、嶺北に
搬出された鉱石も東平の索道基地に下りていた。
索道では 鉱石を輸送するだけではなく、物資、生活品、木材なども
輸送していた。
貯蔵庫跡
この巨大な石積は、貯蔵庫のあったところです。坑内から運び出された
鉱石は、索道基地から下部鉄慈雨石黒駅 ( 昭和10年からは端出場 ) に運
搬されるまでの間、ここに貯められていました。
インクラインを上り駐車場へ。
索道基地跡 ( 花木園 ) の前で撮りたかったのですが・・・・・逆光だつたので !!
駐車場上のマイン工房 ( 旧保安本部 ) へ。
マイン工房 ( 旧保安本部 ) 前の 旧駅舎へ下りる階段は使用禁止 ) に
なつています。ここが上り口です。
マイン工房 ( 旧保安本部 ) 入口
保安本部が置かれていたレンガ造りの貴重な産業遺産を活用し銅板レリーフ
等をを体験し、手作りの楽しさを味わうことが出来ます。残念ですか今日は
時間がありません。
銅を使って手造りの栞等も販売ています。
マイン工房 ( 旧保安本部 ) 出口。 ( お土産に銅製品を購入しています )
15 : 00 東平出発。
少し下りた辺りで2匹の猿に・・・対向車に驚いて逃げてしまいした。
15 : 31 マイントピア別子で新居浜観光ガイドの会入江さんとお別れです
( 大変お世話になりました )
17 : 00 大西支所到着。