紺原 ( 品部 ) ・宅間 野間郡四国八十八ヶ所を歩く

         紺原 ( 品部 ) ・宅間 野間郡四国八十八ヶ所を歩く


        


  
 寒さも少しずつ和らぎ 彼岸桜や菜の花の咲く季節になりました。
3月の大西町歩こう会は 紺原 ( 品部 ) と 宅間方面の野間郡八十八ヶ所や神社を
暖かい日差しに包れながら歩くことができました。


    
    14:00  紺原集会所集合。 準備体操。


    
    14:05  紺原集会所出発。 


   


    


    


    
  品部川沿いに出て橋を渡り右折少し歩くと民家がありその前を左折します。


    
    薬師堂はちょっとわかりにくい場所にあります。


   
【 薬師堂 】
品部地区にあるお薬師さんは、昔から 「 いぼ 」 をなおしてくれる仏様として知られ
ています。野間郡四国八十八ヶ所第二十四番札所です。


    
薬師堂は鍵がかかっていましたが お堂を管理しているお隣のご主が、中でお参り
くださいと鍵を開けてくださいました。


       
    野間郡四国八十八ヶ所のお堂は地域の方々のお世話で守られています。


   


   
   薬師堂を出て少し川沿いに歩くと左側に 七人さん ( 七人塚 ) があります。


   


    
    【 七人 ( しちにん ) さん 】
佐渡地 ( さどじ ) 山城主の墓であると伝えられています。重茂山城との戦いに敗れ
七人の主従が自害しました。佐渡地山は現在来島どっく11階の建っている辺りです。
ここの 七つのお墓は 品部川拡張工事の際竹藪から出て来たそうです。
御殿様と家来の お墓ではないかと云えられています。


     
     懐かしい昔の写真です 鳥生さんにお借りしました。


    
    【 ちんちん馬 】のお話
さどじ山城 ( 現在の大井幼児園の裏あたり ) を守っていた鳥越佐渡守は、重茂山城
との戦で敗れ、自分の愛馬の首をはね、自分と七人の家来も自害しました。村人たちは
その霊をなぐさめるためにお塚を作りました。これを七人さん ( 七人塚 ) と呼んでいます。
節分の夜、このあたりに3頭の首なし馬があらわれ、その3番目の馬をたたくとお金持ち
になると伝わっています。 また、ここにあった松は 「 首なし松 」 と呼ばれ、実をとったり切ったりするとたたりがあるといわれていました。


   
   七人さん ( 七人塚 ) のすぐ近く橋の左に弁天神社があります。


    


    
    弁天神社。


   
品部地区の神社。河川や水の神様である弁財天が祀られています。


     
     川面に太陽の光が・・・・・・・・・・・・


    


   
   この辺りが紺原と宅間の境目です。この先は舗装されていません。


   
   左に曲がり宅間へ向かって歩きます。


   


   
道の下を覘くと 畔につくしが ・・・・・・     せとか 200円、お金は右の竹筒の中へ。


    


    


    
    薬師堂。    野間郡四国八十八ヶ所 第四十九番札所薬師堂  
    2012年2月16日、野間郡四国八十八ヶ所 第四十九番札所薬師堂参拝。


    


    
                本尊薬師如来傳説


報恩寺 ( 昔 ) は奈良時代の創建にて広大な境内を有し七堂伽藍の建物有り、昔
伊予国には櫻井の国分寺五重塔、宅間の報恩寺に五重塔が高くそびえ建って
居たと言われる。當寺は国分寺・文書によると免田一丁四反三百四十歩とある。
薬師如来仏像は一木三体と申して 一 に蔵敷の薬師如来、二 に世田の薬師如来
三に宅間報恩寺の薬師如来と一本の木より彫刻せし仏像で宅間の薬師如来
根株となる一番木で彫刻せしものにして行基菩薩の一刀三礼の仏像である。
薬師如来仏像は国寶的な物で有名である仏像胎内には行基菩薩御作と有る。
又 何回も修理をしている記録が残っているが古い物である。當寺は河野家の
創建で河野家の菩提寺で有ったとも言う。
現在は廃寺になっている、薬師如来は霊験あらたかにして病気其の他願い事は
かならずおかげをいただくので昔から遠方近在各地から参拝者有り中興の祖、
享保年間に 初代庵主休心法師は法がよくきくので沢山の病人が全快し、托鉢を
もって田畑 山林等を買い合計七反七畝を薬師堂の基本財産に寄付をして其の
収入で お茶とう其の他の行事をしていた。休心法師は宅間稲荷の近藤家に生れ
一生薬師堂に奉仕、寛延四年三月十二日寂。 現在では田地は買収で無くなり
山林も一部賣却せり。 報恩寺の流れは現在の宅間地福寺に引きつがれたが、
薬師如来は報恩寺跡薬師堂に安置。明治の初めに報恩寺の跡より地福寺え薬師
如来仏像を移したが昭和の始めに又地福寺より報恩寺跡薬師堂え安置された。
薬師如来特別祭典にはかならず地福寺住職導師となり祭儀を行う物成り。
五重塔の礎石は現在の薬師堂の横にありたるも散乱して昔のおもかげなし。昔の
報恩寺建造物の屋根瓦は現在地福寺出保存中なり ( ヌノメ瓦 )
右之事を後世に残し傳える物なり             本尊薬師如来傳説 説明板より


    


   
   法興山 地福寺へ。


   
 今より1200年前より、宅間には報恩寺という大寺があり桜井国分寺五重塔と並び
称される五重塔があったと伝わっている。しかし豊臣秀吉の四国進撃で兵火にあって
焼失した。後に宅間の村人がこの地に福が来るようにと願い報恩寺の後に地福寺を
建立した。本尊は合唱地蔵菩薩 ( 江戸時代の作 ) 。境内には金毘羅大権現を祀る。
また報恩寺跡には薬師如来 ( 市重要文化財 ) が祀ってある。


       
       地福寺本堂。


   
弘法大師御像                    しあわせ観音


   
   位牌堂


         
         金毘羅大権現


 



    
 心あたたまる可愛いお地蔵さまの絵と飲み物のお接待 有り難うございました。


  2012年2月16日、野間郡四国八十八ヶ所 第五十番札所 地福寺参拝。


    
    15:27  宅間集会所・獅子練習場前集合。
          右側の獅子練習場2階は吹き抜けになっているそうです 。
    こちらは ⇒ 今年5月3日、野間神社春祭りでの獅子舞の様子です
           

    
    来月の歩こう会 大下島行のお話ががありそのあと一応解散・・・・・・。


    
    希望者のみコンテックスタオルガーデンへ。


   


    


   
   やさしい陽だまりのカフェにて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・


      


    


   
   14:43  紺原集会所到着。とっても楽しい歩こう会でした。