平成30年度周辺歴史探訪 ( 西条市Ⅱ)

       平成30年度周辺歴史探訪 ( 西条市 Ⅱ ) 


  


  
 楽しみにしていた今年の周辺歴史探訪 ( 西条市 Ⅱ ) は 朝から雨・・・・・ !!
昨年の周辺歴史探訪 ( 西条市 Ⅰ ) ~ 伊曽乃神社 ⇒ 保国禅寺 ⇒ 土居構跡
⇒ 金剛院 ⇒ 西条市考古歴史館 ~訪問の際も台風の接近中で雨でした。
中止になるのではと諦めていましたが、雨の中を西条へ出発 ( 道中降ったり
止んだりでバスの中は一喜一憂 ) これもまた楽しい思い出の一つに・・・・・。


   
   12:35  太西支所 出発
 道中、大西史談会 村上会長の (平成30年度周辺歴史探訪 ( 西条市 Ⅱ ) 1、市之川鉱山
 ~世界一の輝安鉱鉱山~ 2、西条藩 陣屋跡 ) の資料を見ながら説明を受け予備知識
 を得ます。


   
   13:05  国道196号線 中山川大橋 


   
   13:36  国道11号線より八堂山 ( 西条市考古歴史館 )


   
   13:38  加茂川橋を渡り右折 ( この写真は川下です )


   
   13:41  加茂川沿いを武上公園の奥 八堂山の麓へ到着


   
   タクシーに乗り換えて   


   


   
   13:46  市之川公民館へ出発。
        道幅の狭い山道、市道 武丈丸野線へ。


   
   対向車に出あうと大変です。


   


   
  


   
   途中に道路の左側に集落が・・・・・・・・・・・・・・


   


   


   


   


   
   左の坂道を下りて市之川地区公民館へ。


  
  13:57  市之川公民館 到着。


   
  

   


    
    市之川公民館 渡邊博毅 ( わたなべひろき ) 館長のお話の後、
    鉱山跡へ出発します。
    渡邊先生は 西条史談会の編集長でもあります。


  
  14:03  市之川公民館 出発。


   
   市之川公民館 案内板・伊藤武平翁頌功碑・その他記念碑の数々が
   有りますが、先ず鉱山跡へ。


   
   「 千荷抗口 市之川礫岩 」と書かれた に沿ってのぼります。


        


   
   雨で足元が気遣われましたが、きれいに下草が刈られていて
   気持ちよく鉱山跡へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


  


   
   市之川鉱山


   


     市之川鉱山( いちのかわこうざんあと )
  市之川鉱山は延宝七年 ( 1679 ) 大浜 ( 現在は市内飯岡地区 ) の庄屋、曽我部親信に  
 よって仏ヶ峠 ( ほとけがとうげ ) で鉱脈が発見されたのに始まります。  明治中期に
 最盛期を迎え、当時は山中に四千人が住んでいました。
  今も山中には無数の坑口が存在しています。この千荷抗の坑口は、その中でも立派な
 ものです。 産出された鉱石は、千荷抗前に架かった橋を通り、対岸の選鉱場へ運ばれ、
 選鉱が行われました。選鉱場の奥には鉱山事務所がありました。
  前の川床 ( かしょう ) では、市之川礫岩の貫入を観察することができます。 市之川
 礫岩は この地区独特の石で、角張った礫 ( れき ) で構成されています。
  市之川鉱山から産出される輝安鉱 ( きあんこう ) の結晶は、その大きさや美しさに
 おいて世界一です。
                      西条市教育委員会 


   


   
   手前の建物が選鉱場、奥は鉱山事務所 ( 昭和43年9月13日頃 )


   
   写真は「 西条郷土博物館博物館 」に展示されている輝安鉱です。


 


  


   


   
    自己責任で‥・・・・・・‥‥!!


   
   千荷抗口跡  入り口は塞がれています。


  
右に「 市之川共仝(きょうどう)鑛山 」、左に「 明治廿三23年一月 」


   
   上は「 千 荷 抗 」」ですが・・・・・・‥!!


    
    漢字は右から読むので 「 抗 荷 千 」と彫られています。


    


  
岩の隙間から冷たい風が手に伝わります。


   


   


  


   


   


   


         


    


   


   


   
   市之川公民館のご案内
1 場所 愛媛県西条市市之川6678-1
2 位置 北緯33度53分15秒 東経133度13分4秒 海抜160メートル  
3 当館が設置されているこの場所は、元市之川小学校(昭和55年閉校)の跡地です。
4 当館には、かつて世界一のアンチモン鉱山であった市之川鉱山に関する資料室が
  あります。資料室には、鉱山で使用されていた道具類のほか、輝安鉱(アンチモン
  という金属を含む鉱石)の標本や写真、歴史資料などが保管されています。
  資料をご覧になられる方は、事務室まで申し出てください。
5 館の開館は火・木・日曜日です。
  ただし、祝日、年末年始(12月29日~1月3日)は休館となります。
6 開館日にも公民館業務で施設を留守にすることがあります。
  施設をご利用の際には、事前に電話でご連絡をお願いします。
   【問い合わせ先】
  *市之川公民館 TEL・FAX 0897-56-3300
  西条市役所 TEL(代表)O897-56-5151
 

        
        伊藤武平翁頌功碑


    
     伊藤武平翁 ( いとうぶへいおう )
    翁は文久3年2月大生院村市之川組頭喜平次の三男として生まれる。
   若い時兵庫県の鉱山で修行。後伊藤甚太郎の招きで市之川に帰り当時の所長、
   牧相信(帝大での工学士)の指導を受けて鉱山のことを学ぶ。牧所長が請われ
   別子銅山へ移ったとき(明治39年別子の大改革を断行)誘われたが無学の故
   を以って断る。以後死ぬまで約30年間市之川鉱山の責任者として採鉱にあたる。
   大盛坑 ( だいせいこう ) 開発に功があった。翁は性温厚篤実、多くの人に慕われた。
    昭和9年1月没。  享年72歳

                  平成2年7月 市之川地区公民館記


  


  
  旧校舎の面影を残す市之川公民館


  


    
    私も一個いただきました。


   市之川鉱山 豆知識
  ~世界屈指の輝安鉱鉱山~
 
 市之川鉱山跡への道しるべ ⇒ 拡大

愛媛県西条市市之川( 旧新居郡大生院村市之川 )
にあって市の南東にあたる加茂川沿いの武丈公園
から山道 ( 市道武丈丸野線 ) を歩いて登ること
1時間余り。 距離にして約4キロメートルと、
鉱山としては珍しく市街地から近距離にあります。 車を利用すれば、武上公園から10分
程度で鉱山跡に着きます。
                  パンフレット 市之川鉱山 豆知識 より

   
  


   


   
   館長さんにお話を伺います。


          


   
   「明治二十年頃の鰻抗と詰め所 」のようす。


   
   選鉱場及び発電所


    
    選鉱場及び発電所    
   ゴマハラにあった選鉱場と発電所で、50馬力ベルトン式水力器機2台、50馬力
  発電機1台、サイクリングターミナル50馬力選鉱機一式が据え付けられていた。
  水は、お山神の下から箱樋でひかれていた。
   機械にかけるのは、採鉱ずみの古い鉱石で、これとは別に工夫の掘って来た鉱石は
  手揺で選鉱していた。この選鉱場と発電所が建設されたのが、大正4年。備に費用を
  かけすぎたのと、第一次世界大戦も終わりに近ずいたことなどで、大正7年には操業
  停止し、施設も廃棄された。
                  選鉱場及び発電所写真説明文より


   


     
     鉱石運搬状況 ( トロッコ )
    鉱山内の運搬には、大きな坑では鉱石を運ぶのにトロッコを使用しましたが、
   小さな坑では鉱石箱を背負ったり、箱ジョウレンをはって引っ張りしたりして
   坑外へ運び出していました。


     
     選鉱場での作業風景 ( 大正5年頃 )
    ( 揺婦の作業状況 )
    カルサンという短いハカマ様のものをはき、足の下に大きな座布団を敷き、
    膝の上にカッパをかけて鉱石を揺ります。    
    約 1.2平方メートルの水槽の中に水を入れたタライを浮かべ、浅く丸い
    かごで揺り石と精鉱にわけます。石は捨て、精鉱は大きく深いかごにいれ
    ます。 かごの目からもれた粉鉱は揺り板で揺って採ります。


   


    
    箱しょうれん
  鉱石は、狭い坑内では鉱石を入れた箱 ( 下部に滑り木 ) に紐をつけて肩にかけ、
  手子と呼ばれる人たち ( 年少者も ) によって運び出された。


    
    ゆりかご
    鉱石を選別するのにするのに使われた。


    
    ゆり板
    鉱石を選別するのに使った道具。輝安鉱の混じった泥を板の上にのせて
   水を加えてゆって選別していた。
    婦人の仕事であった。 ( 揺婦と呼ばれていた。 )


       
       市之川共同鉱山精錬所


     
     市之川共同鉱山精錬所
     右側の門柱に「 市之川共同鉱山 」の門札がかかっているので、
     明治20年代の写真か。
     2本の大煙突は、西条港の目印になっていた。
     反射炉で反復精錬する方法がとられていたようだ。
                市之川共同鉱山精錬所の写真説明文より


   
   荷馬車
  現在の市道武丈丸野線は拡幅されているが、明治25年に開通された当時は狭かった。
 それまではね馬の背にのせ、津越経由で運んでいた。
  荷馬車が列をなして武丈から新浜 ( 現在の北浜 ) へ下っていくため、途中の常心坂 
 ( 現在の常心上 ) あたりは、これらの人々相手の飲食店、居酒屋、呉服屋、鍛冶屋、
 蹄鉄屋などが建ち並んでいた。
                     荷馬車の写真説明文より


   
   旭坑内の輝安鉱の鉱脈


  


    


   


  


   
   市之川鉱山採鉱領収証
   この領収証は、計算上の上毎月の支払日に、通貨を以て
   引換をされた。


   


  


  


   
  世界的に重要な鉱物標本としてコペンハーゲンの国際博物会議に
  登録されています。


  


   


   


  


    


    


   


    


   


   


  


   


   


   


   


   
   八堂山を松山自動車道が貫通しています。


   
   15:20  とうとう狭い道路で対向車が !!、離合できるところ
   までバックをしてもらったので運転手さんが車を降りてご挨拶に。


   


   


   


   
   15:25  無事到着。


   
   バスに乗り換えます。


   
   15:55  八堂山の麓、武上公園加茂川沿い出発。


   
   

   
   加茂川橋 ( 国道11号線 ) を渡り 西条陣屋敷跡へ向かいます。


  


   
   16:02  西条陣屋敷跡 到着。


   
   市 指 定 史 跡 
    西 条 藩 陣 屋 跡
  寛永十三年伊勢神戸城主一柳直盛は、郷国西条へ転封になったが、赴任の途次大阪で

 病没したため、長男直重が後を継ぎ西条に赴任し、西条陣屋を建造し城下町を開いた。

 直重の跡を継いだ直興は、寛文五年改易となり一柳氏の治政は・三十年間で終わった。

 そのあと、寛文十年紀州から徳川頼宜の次男松平頼純が就封され、その後十代二百年間

 松平頼英が明治二年版籍を奉還するまで、西条は城下町とし繁栄した。

  現在陣屋跡は、西条高等学校となっているが、校門となっている大手門、門脇の堤、

 前濠の石崖、お矢来、濠等に昔の面影が偲ばれる。

    昭和三十九年八月十一日  市指定       西条市教育委員会


  
  大手門


   
   西条史談会の先生方です。


平成30年9月20日

    大西町史談会の
  西 条 市 内 研 修 参 考 資 料
 もくじ 〇 菅源三郎・・・・・ P1、 P2、 

   十河信二・・・・・ P3、 P4、 P5、

   〇 関 行男・・・・・ P6、 P7、

    西 条 史 談 会


 上の P1 ~ P7 をクリックして下さい。



  
  十河信二 ( そごうしんじ )  ◇ 信条、名言
   「 有 法 子 」(ユウファーズ)
  中国には「 没有没法子 」没法子 (メイファーズ) という言葉がある。
 訳していえば、さまざまな努力を払った上でも事がうまく運ばない場合もある。
  そういう時はもうしかたがないからあきらめるべし ということである。
  ナポレオンの「 吾輩の辞書に不可能という言葉はない 」という言とまったく
 対照的な中国的な言葉である。 中国を訪れたり、中国を悉知している人達でも、
 これを文字通りに受け取っている。  しかし、私 ( 十河 ) は、 この言葉を

 “ 有法子 ”と とるべきであると信じて疑わない。 有法子、つまりどのような
 ことでも、もっと勉強すれば やれないことはないという意である。いかに困難を
 きわめ、とうてい不可能と思うことでも、さらに渾身の力をふりしぼって、努力
 すれば、やりとげることができるのである。これまでの長い人生の中で私が学び 
  えた最高のものは、この“ 有法子 ” = もっと勉強すればやれない事はない =
  という意味である。
  ( 注 )  この書はJR伊予西条駅前の「 十河信二 」記念館2階に揚示 ( 展示 )
   しているので、一見されたい。            ( 了 )
    西条市内研修参考資料 十河信二 ◇ 信条、名言 「 有 法 子 」 より 


  


   
   伊予・西条藩
  慶長5年 ( 1600 ) 関ヶ原の戦い以降、加藤嘉明が西条地方も治めるが、寛永4年
 ( 1627 ) 会津へ転封となった。その後は、蒲生忠知が寛永11年まで治め、寛永12年まで
 松山在番時代となる。
  寛永13年 ( 1636 ) 第一次西条藩主として一柳直盛が伊勢・神戸 ( 現愛知県鈴鹿市 )

 より6万8千6百石で東予地方に転封になるが、西条へお国入りの途次大阪で病死した。

 遺児3人に領地を分知し、長男直重に西条3万石。次男直家に川之江 ( 兵庫県小野市

 1万石を含む ) 2万8千6百石。三男直頼が小松1万石を 領することとなった。西条3代

 直興の時 直興の弟直照に5千石を土居・八日市 ( 現四国中央市 ) に分知し2万5千石と

 なる。 直興は寛文5年失政があり改易となり加賀・前田家に預けられる。ここに、西条

 柳家の時代が30年で終わった。


  第2次西条藩は、寛文10年 ( 1670 ) に御三家の紀伊徳川頼宜の次男松平頼純 ( 徳川家康
 の孫 ) が西条3万石の初代藩主となった。西条藩親藩として特別待遇をされ、江戸定府で
 参勤交代はなかった。また、宗家紀伊徳川家に嗣子がいないときには西条藩より宗家を継いだ。
  伊予・西条松平家の略系図 = ① 頼純 ➁ 頼致 → 宗家6代宗直 ③ 頼渡 ④ 頼邑
 ⑤ 頼淳 → 宗家9代治貞 ⑥ 頼謙 ⑦ 頼看 ⑧ 頼啓 ⑨ 頼学  ⑩ 頼英。

  しかし、 定府大名で参勤交代はなかったが、 1代 頼純は5回、2代 頼致、3代 頼渡、
 9代 頼学、10代 頼英が各1回ずつ計9回藩主としてお国入りした。  明治2年 ( 1869 )
 10代 頼英が版籍を奉還するまで、約200年間松平家が西条地方を治めた。 

  版籍奉還後、陣屋内の土地建物は全て新政府に上納された。陣屋跡地には、西条警察署。

  裁判所などが設立され、明治32年 ( 1899 ) に愛媛県尋常中学東予分校より独立して愛媛県

  西条中学校となり、戦後学制改革により県立西条高等学校となった。 陣屋の大手門は現在
  校門として朝夕生徒が門をくぐっている。
  西条陣屋敷には、主な「 門 」が 「 大手門 」「 御庭門 」「 西御門 」「 北御門 」
 が残っている。                  ( 文責・吉本 勝 )
               資料 P1 伊予・西条藩、( 文責・吉本 勝 )より


    
資料   ⇒P1 伊予・西条藩、    ⇒P2 西城藩主年表、     ⇒P3 西城藩主年表
   上のページをクリックすると拡大します。
  

    


  
  北御門


     
     旧北條陣屋敷 北御門修復記念の碑
 もと北條陣屋敷の北口を固める御門である。寛政年間、大手門を現在のものに改築する際、
古いものを北御門として設置、その後、天保六年九代藩主松平頼学公のお国入りに合わせ、
今の様式に直したと伝えられる。構造は両潜り戸付きの棟門である。 その後、補強のため 
控え柱を施し、また、この度の修復では安定のため止むなく潜り戸を固定した。 御門は
明治維新後その所在を転々とし痛みが目立つようになった。   
 ために平成二十四年六月、郷土の貴重な文化財を後世に残さんと有志が集い、愛媛県
西条高等学校、西条市の御協力を得、かつ広く一般市民及び各界に寄付を仰ぎ、所期の
目的を達成することができた。深謝して ここに記す。
  平成二十五年九月吉日
                 旧北條陣屋北御門修復事業推進委員会


  
  西条市 西条郷土博物館



 西条市 西 条 郷 土 博 物 館

 沿革 当館は西条市大町の故田中大祐翁がその全生涯をかけ

収集し西条市へ寄贈された重な資料を整理し、東堀端の元市立

図書館跡に、昭和二十八年7月21日開館した総合博物館です。

 昭和三十四年には、文部省から博物館相当施設の指定を受け

ました。その後、建物が老朽化し、改築の必要に迫られていま

したが西条市出身の篤志家故服部久吉翁から建築費の寄付を得

て、堀之内に新館を建築しました。 昭和24年6月5日、現在
地に移転し今に至っています。

          西条郷土博物館 バンフレットより


   輝 安 鉱
 輝安鉱はアンチモニーの鉱石のことで、産出場所として西条市市之川鉱山が世界的に

有名である。明治時代に海外に多く流失し、国内に残つている物は少ない。

 当館のものは昭和34年世界的に重要な鉱物標本としてコペンハーゲンの国際博物会議に

登録された。長さは45.5cm、重さは12.05kg である。

 輝安鉱は日光にあたると、特色である光沢がなくなるので、工夫をして常設展示している。


   


   


   


    
    戸 襖
    小林良起の作と伝えられている。良起は、西条松平家おかかえ絵師で
    安政元年 ( 1854 ) に没した小林西台の父であるが、その経歴は不明である。
    この戸襖は、西条陣屋の広敷御殿にあったもので、両面のうち片方には
   八重桜、もう片方には寒紅梅が描かれている。
    水に溶けず変色しにくい、鉱物から作られた岩絵具を使用している。
             西条市立 西城郷土博物館パンフレット より


   
   甲 冑


    
    西條松平家 御家紋 ( 隅み切り 葵紋 ) 菊間瓦


   


   


   


   


   


   


     
     来館記念のスタンプを押して帰ります。


  


  
  外に出ると生徒さんの卒業アルバムの製作でしようか、撮影の最中
  でした。ちょっと無理をお願いして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ !!


  
  大手門前で記念写真を撮ることが出来ました。


   
   バスの中へ挨拶に来てくださいました。


   


   


   
   お世話になりました。高いところ ( バスの中 ) から失礼します。
   色々と、温かいお心遣いに ~感謝~ ありがとうございました。


   
   17:20  薄暗くなりかけた大手門跡を後にします。


   


   


   


   
   頓田川沿いの道路を右折。


   
   国道196号線 ( 今治バイパス ) へ。


    
    18:10  さいさいきて屋駐車場で今治班下車。
          お疲れさまでした。


   
   18:40  大西支所到着。
        運転手さん安全運転ありがとうございました。
   本日の歩いた距離・・・1.6km。   歩いた歩数・・・2627歩。
   殆んどバス移動と見学だったので歩数・距離はのびていませんでした。