町内歴史探訪  ( 新町・紺原地区 ) 

       令和元年 大西史談会 町内歴史探訪  

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  令和元年最初の史談会 町内歴史探訪は 新町地区 ( ①  旧大庄屋井手家、②  真光寺、
  ③  田坂槍之介の墓、④  土岐氏の墓、⑤  古寺地蔵と義人八木忠左衛門 ) 5ヶ所と
  紺原地区 ( ①  安養寺、②  紺原地蔵 ( 現機地蔵 )、③  宝篋印塔、④  観音堂  ⑤ 素鵞
  神社 ) の5ヶ所、合わせて10ヶ所を 各々車に乗り合わせ 村上 大西町史談会々長の
  案内 ( 解説 ) で楽しく探訪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

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    13 : 00  井手庄屋跡駐車場集合 受付 ( 会長より資料配布 )
         本日の参加者  25名

 

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  本日の参加者は25名です。車の乗り合わせを決めておく。

 

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    13 : 03  旧大庄屋井手家へ

 

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        クスノキ
  根廻り 5.00メートル。   樹高 25メートル。   樹齢 350年以上。
 この木のある旧大庄屋井手家は、天正13年 ( 1585 ) に初代井手清右衛門が
 当地に居を構え、大屋根に置かれた天水瓶は、大阪の陣のとき徳川方に味方
 した功績により、特別に認められたものだと言われています。当時は瓦葺きは
 おろか、天水瓶を置くことは固く禁止され、城や代官所にも珍しいほどで、この
 格式と権威の象徴は県内では、他に例がありません。 参勤交代のときには、
 本陣になっていました。
  このクスノキは樹齢350年と言われ、根本には、一字一石の経塚が祀られて
 いました。現在の建物は、築200余年と見られ、建物と共に町の指定文化財
 なっています。
           平成4年3月          大西町教育委員会

 

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   ① 旧大庄屋井手家 

  江戸時代新町の井手家は、松山藩野間郡大庄屋を勤め、家業の酒造業をはじめ
 多くの舟を持ち、手広く海運業を行い、家運隆盛で富豪であったため、松山藩主加藤
 嘉明公の要請に応え、大阪冬の陣・夏の陣には、多額の軍用資金や御用船を供出した 
 その功績は絶大で、当時は瓦葺きはおろか、天水瓶は固く禁止されていたが、わらぶ
 き屋根を代官所にも珍しい瓦葺とし、瓦葺の屋根に防火用として、天水瓶を置くこと
 許された。
・その後井手家はますます発展し、その屋敷の広さは約4反 ( 1,200坪 ) もあり、松山
 藩主の参勤交代の時には、本陣 ( 定宿 ) になっていた。
・昭和9年 ( ) には多い村が譲り受け、昭和18 ( 1943 ) に大改造し 役場庁舎として使用、
 町村合併後は大西町役場として、昭和50年 ( 1975 ) まで使用した。
・敷地内にある大楠は 樹齢400年以上といわれ、天正13年 ( 1585 ) に初代井手清右衛門が
 当地に居を構えた後に植えられた。現在根回り約5m、幹高 約25mの巨木であり、今治
 市の指定文化財である。

 

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   天水瓶のある旧大庄屋井手家
・江戸の初期、徳川方に味方した大庄屋井手家は、その功績により 「 何ても望みを
 かなえてやる 」 とのお達しで、わらぶきの屋根を瓦にかえ、防火用として屋根に
 天水瓶を置く事を許された。
 その後、松山藩主の参勤交代の時には、本陣 ( 定宿 ) となつていた。
 昭和9年 ( 1934 ) に大井村が譲り受け、同18年内部や窓などを大改造し、役場と
 して使用され、同50 ( 1975 ) 年まで続いた。その後農協や漁協にも利用されたこと
 もある。                         大西町史談会

 

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   13 : 29  徒歩にて真光寺へ

 

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       清井山淨雲院   真光寺
    野間郡四国八十八ヶ所 第六十八番札所
    宗派  浄土宗鎮西派。  本山  知恩院。 
    本尊  阿弥陀如来
    脇士  観音菩薩  勢至菩薩
         善導大師 宗祖圓光明照和順大師
   この寺は慶長年間 ( 1596〜1615 ) に新町の大庄屋井手清右衛門が
  建立し真誉秀道和尚を請じて開創したと伝えられている。
  山号の清井山は井手の「井」と清右衛門の「清」の二字をとったものである。 

 

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   ②  真光寺 
・井手清右エ門は費用を全部出して、慶長年間の1600年代初めにお寺を建立した。
 そのお寺は 彼の名をとって、「 清井山  淨雲院  真光寺 」と名づけられた ( 山号の 
 清井山は井手家の「 井 」と清右衛門の 「清」の2字をとったもの )  。 お寺の裏に
 特別に赤土の塀で囲んで、井手家の墓所がつくられた。
・宗派は浄土宗 鎮西派であり、本山は京都の知恩院で、ご本尊は阿弥陀如来である。

 

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      お寺さんのお心使いでしょうか、ふと気が付くと本堂正面の
      戸が少し開いていました。

 

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              本尊   阿弥陀如来
                    ( 本尊  阿弥陀如来の写真はお借りしました )

 

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   ③ 真光寺裏の墓地 田坂槍之助の墓

・田坂 田坂槍之助は、戦国時代の 1500年代 来島城主 村上康吉の家臣で、武芸に秀でた槍の名人であった。ある時 武士を乗せた船が来島海峡を無断で通行しようとしたため、その船を追って帆別銭を請求したが、断られたため船に乗り込み、乗船していた武士を次々倒した。陸での勝負に応じ、桜井の浜へ上陸して 多人数を相手に戦ったが、奮戦むなしく打ち取られた。桜井の人々は鑓之助の武勇をたたえ、その霊を祀った。網敷天満神社本殿の側に 田坂八幡神社がある。この墓は桜井の分墓で、美しい形をした五輪塔である。

 

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    田坂槍之助の墓
 田坂槍之助貞緑は来島城主村上康吉(1500年代)の家臣で、 豪邁で武芸に秀で
槍の妙技を持ち、城主から槍之助と命名される程であった。
 或る時、十数人の武士を乗せた船が来島瀬戸を無断で通りぬけようとした。槍之助は
すばやくその船を追い、帆別銭を請求した。 然し、船は冷笑して通り過ぎようとした。 
槍之助は 「 汝等 天下の法を知らないか、そのままでは航行は許せない 」 というと
「 この広き海を通るのに帆別など片腹痛い。 帆別銭が欲しいのならどこまでもついて
来い 」とあざ笑った。 槍之助は槍をしごいて彼の船に突込み、忽ち二人を突きふせ、
船上での戦に馴れない武士は次から次に突き倒された。  これはいけないと考えた
武士は陸に上がって勝負をしようと言った。槍之助も之に応じ、桜井の浜で七、八人を 相手に戦ったが、遂に討ち取られた。
 桜井村の人々は槍之助の武勇を称え懇ろに葬った。
 ここ真光寺にある墓は桜井の分墓である。           大西町教育委員会

 

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    13 : 42  国道196号線を横断、土岐氏の墓へ。

 

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   土岐氏の墓
土岐氏は美濃の豪族 土岐源氏で、南北朝時代 足利氏によって伊予に配されね河野氏に仕えたと伝えられる。当初は、紺原西の山崎城に居城していたが、その時 円浄寺を建立したと伝えられる。その後、子孫は藤堂高虎に仕えて 今治に移り、円浄寺も現在の今治市本町4丁目に移住した。ここに 土岐市の墓があり、新町一本松のこの墓は、紺原居住時代のものと思われるる

 

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    13 : 56  車に乗り合わせて移動。

 

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  14 : 00  ⑤ 古寺地蔵と義人八木忠左衛門
・ここにはもともと真光寺があた。古寺の地名はそれに由来しているるその寺が現在の場所に移転したあと、松山藩がここに処刑場を置き、以来 数珀年にわたり、多くの罪人が処刑された。
・貞享の頃 ( 1680 年代 ) 、延喜村の庄屋であった八木忠左衛門が、打ち続いた凶作と 高い年貢で悲惨を極めた百姓を救うため、自分の財産を売って援助をしたり、代官に願い出て助けを求めたが なかなか聞いてくれず、しかたなく 年貢の低減を藩主に直訴した。当時直訴は禁止されており、その罪を問われることになった。忠左衛門は自分の願いがかなえられるように、讃岐の金毘羅さんに祈願に行っていたが 捕えられ、貞享3年 ( 1686 ) 6月29日 息子の小太郎と共に、この処刑場で斬首、さらし首の刑に処せられた。

   

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・延喜村を中心とした野間郡の百姓たちは、その処刑に憤激するとともに、彼を義民とたたえ、ここに地蔵を建立し 菩提を弔った。
・このお地蔵さんに祈願すると願い事がかなえられるという伝説があり、近郷近在の人々から霊験あらたかな地蔵さんとして、信仰を集めている。昨年8月23日の縁日には、盆踊りが盛んに行われ、夜店も出て 参拝客で賑わっている。

 

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    古寺地蔵堂の境内にはいつも季節の花が咲いています。春の桜は圧巻 !

 

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  14 : 30  ⑥ 安養寺

 ・興福山 安養寺といい、宗派は曹洞宗で、本山は 福井県永平寺であり、ご本尊は
  聖観世音菩薩で 秘仏となっているが、金色と赤銅色で大変美しい。
 ・享禄2年 ( 1529 ) 、風早 ( 北条 ) の大道寺二世華屋英雲大和尚によって開創された。
 その後  寺は荒廃したが、延宝年間 ( 1673~1680 ) に、大庄屋井手家の檀家寺としての
  知遇を受け、紺原村の祈祷寺として栄え、今日に至っている。

 

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  本堂

 

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    本堂内陣

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            本尊  聖観世音菩薩 ( 秘仏 )
                 ( 本尊  聖観世音菩薩 ( 秘仏 ) の写真はお借りしました )

 

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・境内の小さな堂には、弘法大師の石像があり、その後ろに弘法大師の像が描かれた
 木製の額があります ( ご住職に案内していただきました )

 

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     大師堂 ( 右 )  弘法大師の石像と弘法大師を描いた額

 

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     三軒家地蔵 ( 左 )    本尊 地蔵菩薩
  疫病を取り払ってくれるお地蔵さんとして信仰され 享保15 ( 1730 ) 安置された。

 

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  ⑦  紺原地蔵 ( 現機地蔵 ) 

 

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        紺原地蔵 ( 現機地蔵 )
・宝暦6年 ( 1756 ) の建立で、現在は安養寺の前にあるが、もとは紺原集会所付近にあつたといわれている。集会所あたりを昔から「 ひとくろだけ 」と呼び、豊臣秀吉四国征伐による重茂山の落城のおりに、たくさんの死者をわらぐろのように積み重ねて焼いたともいわれ、また、「 キリシタン狩り」が行われ、多くのキリスト教信者が捕えられて 処刑せられ、埋葬された場所であるともいわれ、これら受難者の霊を弔うために建てられたとも伝えられている。
・新町の古寺地蔵の所が 処刑場であったが、それ以前はこの 「 ひとくろだけ 」の所が処刑場であったという説もある。
・また西側には、四国遍路の延命寺への道標が建っており「 金山遊剛信士延命寺二十丁
弘化四年 ( 1847 ) 末歳九月、甲姦巨摩郡三ッ佛村 」と刻まれている。

 

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  坂を少し下りると宝篋印塔の前に出ます。

 

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    ③ 宝篋印塔
   ・ 元 古墳であった所に、五輪塔などがたくさん集積されている。
   ・宝篋印塔は不完全であったものを、平成17年有志によって再建した。
    大西町で唯一の宝篋印塔である。

 

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  15 : 07  車に乗り合わせて観音堂へ。

 

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   こんぱら観音堂
  ・正徳元年 ( 1711 ) 、安養寺の分寺 ( 尼寺 ) として創庵された。お堂は平成2年
   ( 1990 ) に再建されたもので、大変美しい。ご本尊は観世音菩薩である。
  ・現在は えんぎ観音 ( 乗禅寺 ) の分院とされている。お堂内になぜか赤穂浪士
   大髙源五の位牌がある。
  ・「 旧野間郡四国八十八ヶ所 」の第六十七番札所である。

 

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  15 : 26  素鵞神社へ

 

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   ⑤ 素鵞神社
 ・紺原の旧村社である。
 ・文禄3年 ( 1594 ) 越智郡八丁村の庄屋 井手宗兵衛の2男 藤左衛門が紺原へ、3男
  清右衛門が新町へ分家した時、樟本神社から勧請 ( 神仏の分霊を請じ迎える ) し、
  明治4年 ( 1871 ) 法令により素鵞神社に改号した。
 ・江戸時代より伝わる船みこしは貴重な文化財で、野間神社や今治市民のまつり
  「 おんまく 」にも出場している。   

 

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   平成20年 ( 2008 )3月 船みこし倉庫改修。屋根付きのまま収納が可能に。

船みこしの由来 】 紺原地区の三軒屋は、その昔、海運事業が盛んであった。
船主や船乗りたちが航海の安全、無事を祈願して船みこしを当神社に奉納した
のが始まりで、約2百年以上も前の事である。
 伝説では書の日本三蹟の一人、藤原佐理が 正暦 3 ( 992 ) 年筑紫から都へ
帰る途中 瀬戸内海が大荒れになり 弱り果てていると、ある夜夢に大山積大神
現れ、「 大山祇神社には神額が無くて困っている。お前が通りかかったので、呼び
止めるために 海を荒らす方法をとった。ぜひ筆をとってほしい 」 と告げられた。
藤原佐理は早速筆をとり、海岸から神額を流すと、神の加護で大三島の海岸に着き
大山祇神社に渡った。やがて海もなぎ藤原佐理は無事都へ帰ったが、この神額を
書いたのが、三軒屋の品部川すそであったという。
 船みこしには山積大神と筆を持った藤原佐理の人形が向かい合って座っており、
中央の神額は「 扶桑総鎮守 」 ( 日本全土の守り神 ) と書かれている。

  

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   明後日 5月18日は 紺原地区の春祭りです。急勾配の狭い石段を紺原伝統芸能
  「 船みこし音頭 」の歌声とともにに下りる雄姿を早く見たいものです。
    15 : 55  解散。今日も色々と教えていただき有り難うございました。

   本日の歩いた距離・・・・・1 . 9 km 。  歩いた歩数・・・・・・・・3.228 歩。